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自分を肯定するために違うものを否定しない

信念は持ちたいし、貫きたい考えもある。でもその自分を「正しい」と証明するために、つまりそのための手段として、自分に合わない意見を否定したくない。「相手が間違っている」=「自分が正しい」とは限らない。

たとえば、「読書は人生を豊かにする」という1意見。これは正しいと、僕は思う。

でも、「読書は人生を豊かにするから、君も本を読んだ方がいいよ。ゲームばかりしていても無意味だよ」は、違う。特に後半の文がいらない。自分の意見を肯定するために、それ以外を否定しているし、それは本当に相手の気持ちを無視した、安易な行為と言える。

否定することを否定しているわけではない、と言うとややこしいけれど、「肯定」という概念があれば「否定」があるのは当然。否定が必要なときはある。

ただその使い方を間違えると、むやみに人を傷つけてしまう。しかも無自覚で。どんな信念を持っていても、想像力に欠けると、どうももったいないような気持ちになる。


現在進行形で夢を追いかける人がいる。文字通り夢中になって前だけを見て突っ走る後ろ姿は、やはりかっこいい。

そこだけで話が終わればいいけれど、そうならないこともある。人間誰しも他の誰かに自分のことを話したくなるものだし、どうしても共感を得るよう言葉で、啓蒙したような気になりたくなる。僕の文もその枠から外れていない。

だからその際には、「自分が持ち合わせていない何か」を否定してないか、注意する。

夢を追いかけなくたっていいじゃない。追いかけていても、追いかけていなくても、どっちもそれぞれ素敵。そこで終わりにしようよ、と思う。

自分を肯定するために違うものを否定しない。

たった1人の自分を肯定するために、その他大勢を結果的に否定してしまっていないか。悲しませてないか。


長い時間と積み重ねてきた経験に基づく「信念」と呼べるものを持っている人は、そもそも「違い」を否定しない。わざわざ、いちいち、そんなことしない。

少しでもより良いものを作っていきたいので、「スキ」や「コメント」もお待ちしています。