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人の言葉、おれの言葉。

それは本当にお前(自分)の言葉か?

こう思う瞬間がある。誰かの言葉を聞いてもそうだし、自分が口を開いたときにもそう。

分かりやすい例が、「好きなことで生きる」

これを聞くと、どうも疑ってしまう。多様な社会が少しずつだけど広がって、色んな業種がそれぞれの大きさで普及している。働き方の選択肢が増えた、と言っていい。その流れの中で、とりわけ輝かしく聞こえるこの言葉に注目が集まり、これを自分の言葉のように口にする人も当然いる。

しかし生きることの目的は人それぞれだ。好きなことを直接仕事にする生き方で幸せを感じる人もいれば、好きなことに取り組める仕事ではないけれど、人のために働いて、そうやって社会に貢献したうえで、自分の好きなことを大切にする生き方だってある。

それって誰かが作った言葉だけど、大丈夫?

自分の感覚に近い、しかし自分自身では言語化できなかった、誰かによって作られたその言葉を鵜呑みにして、あたかも自分の信条のように使っている言葉が、あなたには(私には)ないだろか?しかもこれは、わざわざ意識していないような日常レベルに、平気で侵入してくる。

自分に都合のいい言葉ほど響きやすいものだ。シンプルで伝わりやすく、何よりかっこいい。それを言っている自分がかっこいい。しかし、人の言葉を借りて、そのまま使い続けると、自分自身の思考はそこで停止してしまう。

これは以前の記事でも書いたように、腑に落ちる経験をしてしまうと、そこで止まってしまう。それが正解で、全てなのだと納得してしまえば、成長はない。人間として終わる瞬間の一つと言っていい。それほどに危険だ。信じたいならば、同時に疑い続ける必要がある。

また日本人には、その年齢になったときから多くの人が急に言い出す言葉がある。

『最近の若いやつは~』とか『社会人一年目だから~』とか『もう高校生の時みたいに○○できない』などなど。

多くの人が使っているということは、人間生きていれば誰しもがあるタイミングでそう感じる、それが普遍的な人間の性(さが)とも言える。または、同じような生き方をして、同じようなことを考える人間ばかりなのだろう。

こういう誰かが作った定型文を聞くと、ほんとに逆行してやりたくなる。

『最近の年寄りほど頑固で意味わからない人が多いし、社会人何年目であろとおれはおれの信条を貫くし、今日よりも若い日はもう来ないんだから、今日こそ一番若々しく生きるし』

言葉というのは、僕たちが生まれてくるずっと前からあって、その時代時代で形を変えながらも脈々と受け継がれてきて、残っているものだけが今に至っている。

短期的には変化しているけども、長い目で見た時には大きくは変わっていないそんな言葉で、今この瞬間を生きる、今この瞬間にだけ生まれる自分の感情や思いを、そんな昔から変わっていない言葉で形取(かたど)って、形容できてしまうもどかしさを感じる。

本を読んでいると特に、『あぁ、それ言いたかったことだわ』と、かゆいところに手が届いた感覚を味わう。これは本を読む面白さではあるが、同時に悔しさでもある。自分で言葉にできなかった感情を、他の誰かによって言い当てられてしまうと、自分の平凡さを思い知る

自分にしか思いつけないことなどないのかもしれない。だからといって、誰かの便利な言葉を借用していては、『あなたは誰?』となってしまう。

疑うからこそ信じることができる。自分の言葉にもう一度目を向けたい。

Shingo

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