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おじいちゃんは「読まなくてもいいよ」と本をくれる。

この世には、それを聞くだけで、「間違いない!」と思わせてくれる、魔法の言葉があります。

例えば、「華金に飲む一杯目のビール」。これ、想像するだけで「間違いなくうまい!」と思ってくれた人は同志です。うまいに決まってます。

次に、「夜中の散歩中に聞くThe Beatles」なんてどうでしょうか。個人的には最高の一言。夜が自分だけのためにあるような自信が湧いてきて、気づいたら2時間は歩いてます。

そして、「おじいちゃんが勧めてくれた本」。これ、面白くなかった試しがないです。もう自分の心を見透かされているんじゃないかと疑うほど、今の自分を引き込んでくれる一冊だったりします。

しかも、おじいちゃんは必ず「読まなくてもいいよ」と言葉を添えてくるのです。そう言われて、1ページ目をめくらない孫はいないでしょう。ましてや開いてみたら想像をはるかに超えるほど面白いんだから、一度経験してしまったら最後です。

この「読まなくてもいいよ」という言葉が好きです。愛を感じます。

読書とはどこまでいっても能動的行動です。作者は自らの経験や想像という唯一無二のものを、一般に普及した文字へと置き換えます。そうしないと自分以外の人には伝わらないからです。その結晶と呼べる文章を、読者は自分なりに受け取って解釈し、再び頭に絵を浮かべ、実際に体験したわけでもないのに、心に新たな感情を抱くのです。この作業は徹頭徹尾、読者による自発的行為であり、つまり読まされてもあまり意味がありません。おじいちゃんはそれが分かっているから、いつも「読まなくてもいいよ」と言うのか。その真意は定かでありませんが、僕にとって好きな言葉です。

言葉とは、ある物事の実態を掴むためにありますから、例えば子供を勤勉家にしたいなら、「勉強しなさい」と言ってしまって普通です。ただむしろ、「勉強しなくてもいいよ」と言うことで、自ら学ぶように育つのなら、それは言葉の性質をよく理解していて、素敵だなと思います。

おじいちゃんの言葉には、そんな意味合いが詰まっているように感じ、その根底にあるのは「愛」でしょうか。

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