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紙ストロー当たり前世代

当たり前にあるものへありがたみは、それを失ってからようやく気付くことができる。

寝てる間に窒息死しないからといって、呼吸をありがたく感じる人はいない。

当たり前とは、つまり「基準」である。

人それぞれの基準。自分の人生を生きる上での基準と言えよう。

僕は生まれてからこれまで、食料に困ったことはない。おもちゃもあったし、遊びも勉強も、好きなスポーツだってできた。誰が発明してくれたのか分からないけれど、気づいたらテレビも見ていたし、高校生になったらスマホも手に持っていた。

これらの「当たり前」の上に、僕たちの世代は無意識に立っている。いや、自分の力で、自分の意思で立っているように勘違いしているだけで、実際は全方面から支えられて立っているのだ。

しかし「当たり前」は、「なぜ?」を見えなくする。

『なぜインターネットが普及したの?』という疑問を持つことすら、もう当たり前でなくなっている。当たり前は、もしかすると怖いことかもしれない。


先日、本屋へ行ったときにふと思った。

『なぜこんなにもお金のことに関する本が多いのだろうか?』

こんなにも「お金」だけに関しての本があるということは、つまりそれが多くの人にとって関心の的なのだろう。

おそらく、僕が物心ついた頃には「お金」に関する本は溢れていたと思う。生まれたときからそうだった。「金融・投資コーナー」なるものは本屋には当然あるものだとして育った。でも、もしかするとバブルの時代は多くの日本人が経済的に潤っていたから、わざわざ「お金」について勉強する必要もなくて、それに関する本も少なったのかもしれない。それよりもっと前の時代は、「お金」などわざわざ本で学ぶものではなく、とにかく体を動かして働いているだけで精一杯の生活だったかもしれない。


僕たちは、「過程」を省いた「結果」だけを目にしている可能性がある。ここでいう「結果」は「恩恵」とも捉えられる。時代の恩恵。

しかし残念ながら「過程」を省いた「結果」に感謝することは難しい。あって当然だからである。逆に、ないと「不満」に感じる可能性の方が高いくらいだ。


これは少し発展した考えかもしれないが、何か制度や仕組みを変更するときに、これと同じようなことに注意する必要があるように思う。

例えば、今を生きる多くの日本人は少なからず現在の政治に対して不満を抱えている。だから『何か(法律など)変えてほしい』と思うし、何か良い変更があった際には、「相対的に」良くなっているため嬉しく思うものだ。

しかしこの「相対的により良くなったもの(仕組みやルール)」を初めから享受する世代が、変更以後存在する。彼らにとっては、その仕組みで人生がスタートし、基準がそこにある。

変更を加える際には、

既存の人から見ると「より良くなったもの」は、新規の人にとって「あって当然のもの(基準)」となる

という点まで考慮する必要がある。

具体的な話に戻すならば、まさに「インターネット」が良い例である。

ある時代まで紙媒体でやり取りしていた。連絡を取るには数日を要し、お金だってかかる。紙資源にも限りがあるから、皆が丁寧に扱う。しかしもっと簡単に連絡できる手段はないかと模索した結果、インターネットなるものが登場した。連絡を取り合うのも秒単位で可能となり、お金もさほどかからない。これは便利だとなって普及して当然である。

しかし次にこの「紙媒体が主流」という過程を省いた世代が登場する。秒単位で連絡出来て当たり前。なんなら通信環境が悪い場所があるからどうにかしてくれという者が現れる。もっと映像をクリアに、もっと通信を速くしてくれとなる。彼らは紙資源すらも粗末に扱うかもしれない。まさに「あって当然」世代における感謝の欠落と言える。

もちろん良い面もある。最近は紙ストローが主流のカフェが増えつつある。プラスチック製を経験した者の中には『紙ストローはコーヒーの味が変わる』と不満を感じる人がいる。しかしこの「紙ストロー」への移行で重要なのは、「紙ストローが当たり前」の世代を作っていくことである。次の世代の「当たり前」を形成しているのだ。レジ袋の有料化もこれと同様である。


人間、初めから何でも与えられると「感謝」がなくなる。「なぜ?」がなくなる。なぜなら、「ある」ことが当然だから。むしろ「ない」と不満に感じる。「感謝」や「なぜ?」がないのは、いかにも人間的でない。


Shingo

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