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昨日読んだネット記事を覚えていない。

ネット記事を読まない日はないかと思います。少し時間を要する厚めの記事もあれば、さらっと流し読みするものもあるでしょう。

「情報」という枠組みで言えば、動画だって同じです。本の内容をまとめた解説動画や短めのニュースだって、自分では「読まず」とも、目で見て耳で聞き、情報に触れています。


しかしそれらを果たして覚えているか、甚だ疑問です。


例えば昨日多少時間をかけて読んだネット記事を、覚えていますか。

読んでいる最中は、皆が意識出来ていて当然です。「ああ、これは面白い。納得できる。いつか役に立ちそうだから、読んでおいてよかった」こう思うはずです。

では何日かして、果たしてその内容を覚えているか。記事にしろ動画にしろ、読むにしろ、見るにしろ、聞くにしろ。果たしてあの時間に意味はあったのか?


人間ですから、忘れて当然です。忘却は人間に必要な能力の一つです。何でも覚えていては、それこそ頭がパンクして、大事なときに力を発揮できなそうです。それでもやはり、覚えておきたいことだってあります。知識として蓄えておきたいと、人間誰しも思うものです。

例えば本を一度読む。当然、読めていると自分では思います。でも、数日後にその内容をどれほど覚えているでしょうか。またはそこで得た知識があるならば、どれほど行動に移しているでしょうか。その知識を基に、何か発展的に思考しているでしょうか。ここに目を向けなければなりません。

つまり、読めているのに読めていない。そんな読み方が横行しているかもしれません。「音読」という意での読書はできているが、頭には入っていないというパターンです。思い返してみれば小学校の「音読」の宿題では、ただ読めていれば丸をもらえていました。日本語では「読める」ことと「理解できている」ことは別なんです。だから読めているのに読めていない。そんな教育を受けて育った「大人」という存在は、日本では別に珍しいものではないのかもしれません。

「読み」に限らず、「見ているのに見えていない」とか「聞いているのに聞こえていない」現象が意外と平気で身近にある。脳まで届いていない、もしくは届いていても処理できていない。知識へと昇華していないというわけです。


「理解できていない」という意での「読めていない」原因は、その日の体調のせいでもあるでしょう。その本がつまらないせいかもしれません。ですが自分へ矢印を向けて考えるとしたら、この際大事なのは「再読」です。

分かるまで読む。何度も何度も見て、聞いて、触れて、読んで。それを繰り返していると、なんだか分かってくる。なんとなくだが徐々に輪郭が掴めてくる。いつの間にか自分のものになっているかもしれない。

この「再読」は時間を必要とする行為です。時間をかけなければそもそも成立しないのが「再読」とも言えます。「真新しさ」や「情報量が多いこと」がネット記事・ネット情報の特徴である限り、それはつまり「再読」には向いていませんから、知識へと昇華しにくいのは明らかです。

ではネット情報を「再読」すればいいのですが、前述の通りネット情報の売りは「再読」にはありませんから、恐らくこの考えには至らない。これとは対照的に、本は「再読」に適した媒体です。

勘違いしてほしくないのは、忘れることを否定しているわけではない点です。忘却はむしろ必要であり、当然の行為です。例えば僕が書くこんな文章なんて、暇つぶしに読んでもられば十分ですし、読み終わった瞬間に忘れていいものです。

「忘れる」対象があるからこそ、「覚えている」対象が存在します。分からないものを時間をかけて分かろうとする時間が大切で、この過程で獲得しているものがあるように思います。

時間と労力をかけて、わざわざをいとわずに取り組む。ここに知識、もしくはそれ以上のものの獲得がある。獲得と言うよりも、結果的に残るものがある。砂金のような沈殿物がある気がします。この砂金の発見には、忘却も必要です。得たものを捨てて、ケロッと忘れてもいい。それらの過程を経ても残っているものが、今も自分の根底を流れ、自分を自分たらしめる要因になっていると思います。それを「性格」とか「個性」とか「価値観」と呼ぶのかもしれません。


偉そうに毎回こんなことを書いていますが、最後に、わざわざ読んでもらったこんな記事は是非忘れて下さい。


本の紹介

『日記 ~十代から六十代までのメモリー~』 五木寛之

小説家である五木さんが学生時代や、作家として活躍されだした時代に書いていた日記をまとめた一冊。幼少期を朝鮮で過ごした経験を持ち、戦後に学生としてこれからの日本を生きていく当時の五木さんの日記からは、戦中・戦後を「歴史」として学ぶ世代では知り得ないリアリティー溢れる時代背景を大いに背負った、ひしひしとしたものが伝わってきます。また、当時の物価がどれほど安かったか、勉強に対する学生の姿勢など、平成生まれの僕が体感として持ち得ていないものを多く感じ、「今」の時代を多角的に比較し、捉えることに適した一冊です。

当然ですが歴史は繋がっており、全てが必然の上に成り立っています。今の我々の生活があるのも、良くも悪くもこれまでの歴史のおかげなのだと、改めて感じます。また自分も今、現在進行形で進む歴史の上に立っていることを忘れてはいけません。この物語は、僕らで終わることなく次へ次へと繋がっていくのです。「最新」のものが「最適」とは限りません。長い時間を経た結果、あれは良かった、悪かったと分かるのかもしれませんし、そもそも何にとって、誰にとって「最適」かによって答えは様々です。もっと色んな時代の、色んな人の考えを知りたいし、この思いはずっとあり続けるだろうと思った一冊でした。


Shingo


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