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全ての行為はおこがましい

物事を捉え、思考する出発点に、その人の特性を垣間見ることができる。

タイトルの通り僕の出発点の一つは、わざわざお前(自分)がやるの?というおこがましさにある。

良かれと思って人助けをしたとしても、それが相手にとって迷惑になる場合もあるように、事実とは、常に受け取られ方次第だ。

人の役に立ちたい、他人の人生を変えたい。

これらは素敵な心持ちではあるけど、残念ながら素敵に伝わっていないケースも起こり得るのが事実。自分の行為はおこがましいと思っていれば、何をしても別に期待していないし、その分落胆することも少ない。もちろん過程には存分に拘ったうえで、結果(受け取られ方)は賽を振る同様に、もう自分の範疇の外にある。

ところで、よくこの言葉を耳にすると思う。

多様性を認める

正直、これが一番おこがましい。「認める」って何様のつもりなのか。認めるも何も、どんなマイノリティーも既に存在していて、それが現実なのに、いったい誰に「認める」などと上から物を言う資格があるのか。仮に「認める」立場にあるとして、気に食わない現実を容認できないならば、そいつの世界が誠に陳腐で残念なだけだ。

価値観という”ものさし”は、自己の解釈世界を豊かにする道具であって、決して他人に強いるものではない。要するに、お前の価値観で他人を図るな、ましてやそれを相手に押し付けるなと言いたい。

僕が書く文章も、例外なくおこがましい。誰かに響いてほしいなど一切思わない。ただ、自分にとってこれが楽しい行為だから書いて、たまに「面白かった」とか感想を貰えるのが嬉しいから発信している。文章の価値については読み手に任せる。

今年はあることがきっかけで小説を好んで読むようになり、夏目漱石や太宰治、川端康成ら有名な文豪の言葉に、何度も心奪われた。彼らの文体に触れる度に、自分の言葉の陳腐さを思い知り、人間の本質の普遍性を学び、当時を生きた人を羨み、時を超えて繋がれる「本」の存在に感謝する。

科学がここまで発展し、新たな物が次々と生まれる現代社会を生きていると、新しいものほどより良い気にもなるが、僕はどちらかというと古いものから学ぶ場合が多い。温故知新とも言える。

もう大抵のことの本質は、長い歴史の中で既に誰かが気づいているし、それが言葉として残っているケースも多い。本を読んでそんな言葉と出会うと、自分のおこがましさを実感する。お前がやってることは、もうとっくに誰かが気づいていたし、特別だと思っていた考えは、何も逸脱していない。なんなら自分より数百倍美しい言葉で表現されていることがほとんど。

おこがましさから出発した行為がどこへ行き着くのかは、まだ上手いこと言葉にできない。

本についての思いは、また別の機会にたっぷりと書きたい。

Shingo

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