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月刊コグマ#7 まだ、寂寞である


季節

気づけばもう夏に。
7月になってしまった。

先月は梅雨、という割にはあまり梅雨を感じることが無かったように感じる。
なんなら、夏と同じくらい暑かった気がするし、それ以上に忙しかった気もする。

それもそのはず、6月からバイトを始めたということを思い出した。

今書いている前の日にバイトでいくつもミスをしてしまい、傷心中の自分にはちょうどいい話題かもしれない。

今、自分はとあるスーパーで鮮魚部として働いている。
魚や刺身を取り扱う、あの鮮魚部だ。
作業場所が生臭くって非常に辛いあの鮮魚部だ。

鮮魚部を選んだのには特に深い理由があるわけではない。

あれは面接のとき。どこの部で働きたいかという質問をされた。
レジ部と鮮魚部しか空きがなく、レジ部は「なんとなく違う」と感じたため夏、「鮮魚でお願いします」と言ってしまったのだった。

けれど、面接のときのあの言い方も悪いと思う。
「どの部で働きたいか、すでにある程度決めてあると思うんだけど…」なんて言われたら、とっさに何か言うしかないじゃないか。

まぁ、それに関しては、実際何も考えてなかった自分も悪いところはあると思うが。

そうして気づけばすでに1か月が経過していた。

夏といえば、皆さんは何が思い浮かぶだろうか。
個人的には、やはり、「海」じゃないのかなと思う。

去年までは静岡で暮していたのだが、この時期は野球応援のためにスーザフォンを背負って炎天下で吹いてたっけ、と思い出した。

それなら「夏」=「野球応援」じゃないのか、と思う人もいるだろうが、そうではない。

正直、野球にはあまり興味がないし、終わった後の日焼けが途轍もなく辛かったことの方が印象に残っているので、いい思い出ではないことは確かだ。

そこで「海」だ。

高校2年生のころには、湘南までオープンキャンパスのために行って、海を眺めたし、
去年の8月号には「アイス評論会」では実際に三保まで遊びに行った話「海に行こう」を書いていた。

ふと思い立ったようにどこかへ行きたくなることが多くあって、この時もそれに倣ってふらっと海に行ったのだった。

海へ、三保へ向かう為には水上バスを利用しなければならない。
それに乗って、風を切って感じて向かっていったことを覚えている。

海の側は不思議と涼しく感じて、日は差して照っているのにそこまで辛くなかった。

遠くのところから、何らかの実況が聞こえてそっちの方向を振り向いてみると、ヨットレースらしきことをやっていた。

楽しそうなことをやってるなぁと思いながら、自分はその場を後にしたが、帰りに再び水上バスに乗ったときもまだやっていたので、たぶん今年もやっているのだろう。

また海に行きたい。
海に行ったらどうしようか。

海で可愛い女の子と水をかけ合いながらキャッキャウフフすることも楽しそうだし、ナンパだってしてみたい。

誰かと笑い合いながら、どこかに遊びに行けたら楽しいんだろうなぁ。

もう7月も終わってしまうし、8月になってテストが終わったら色々なところに遊びに行こう。

元気行く気その他もろもろがかみ合わさったら、とりあえず海まで遊びに行こう。

さわやかな潮風を感じに。
そして、青春のような雰囲気を浴びに。



空白の一年があるのかもしれない

そもそもの事の発端は同い年のバイトの先輩がもう一人の先輩と話していた内容からこの疑惑は始まった。

自分が外から中に戻ってきたときに、その話は行われていた。

始めはディズニーはランドかシーかどっちが好きか、というような話だったのが、気付いたら、彼女がどうだこうだと言うような話になっていく。

年齢だったり、暮らしていたところだったりが少し違っていても、やっぱり話す内容は変わらないんだなぁと思って、外の様子を見ていると、気付けば話の路線が別の方向へ進んでいた。

もう一度、自分の中でも確認するのだが、
バイトの初日、同い年の人に「同い年」と確認されたからこそ、このような疑問を持っている。

何の話だったのか。
ざっくりと言うと、この話の方向というのが
「お酒」の話だったのだ。

『あれ、○○さんってお酒飲めるんでしたっけ?』

『いや、まだですね。
あと△ヶ月待たないと。』

今でも、この光景は覚えている。
本当にびっくりして、文字通り、目が点になったといっても過言じゃないほどに驚いたのだ。

あれ?「同い年」じゃなかったっけ?
専門の1年生って聞いた気がするけど…???

と、とても疑問に思ってしまったのだ。

自分は今、18歳で今年19になるはずだ、と心の中で再確認をした。
もしかすると、気付かないうちに1年間眠っていたとかなんとかで自分は19歳になっているのかもしれない、と考えてもみた。

けれど、やっぱりどう考えても自分は18歳で、去年高校を卒業したんだよな、という結果に落ち着く。

ではこの疑問は、違和感はなんなのだろう。 妙な気持ち悪さを胸に抱えながら、その日はバイトを終えたのだった。

それから日がたって、大学の帰り道、同級生(大学の同期をそう呼ぶのかは分からないが)と一緒に駅まで歩いていた。

自分も含め3人で歩いていたのだが、
やはり、自分らしく、自分よろしく、
2対1の構図になっていて、前を2人が歩きながら話して、自分は一人でそれを眺めている。

駅改札近くにある、とある居酒屋の前を通ったときに、忘れていたあの話になった。

『そういえば、○○君はもうお酒飲めるんだっけ?』

『いや、まだかな。あと△ヶ月で誕生日だから』

『そしたらまた今度、飲みに行こうよ』

……正直、聞き間違いかと思った。
自分の耳が何かの拍子におかしくなって、「観に行こうよ」が「飲みに行こうよ」と聞こえてしまったとかじゃないのか。
そう、考えた。

もちろん、やっぱり自分は18歳じゃなくって19歳じゃないのか、という疑惑も生まれた。

また数日後、講義が終わり、昼休憩の時のことである。
先ほど挙げた友人の一人と、また別の人と一緒にご飯を食べながら話していた。

『○○ってお酒飲めるんだっけ?』

『いや、あと△ヶ月じゃないかな?』

『おぉ!じゃあまた今度、ご飯でも行こうよ!』

…これはいわゆるデジャビュというやつなのではないだろうか。
この7月に入ってから似たような話を毎週聞いているというこの事実。

この出来事が続くにつれて、自分のことが信じられなくなっていく。
本当に自分は18歳なのか。
長く眠っていた期間があったんじゃないのか。
自分には空白の一年があるのではないか

そんな疑惑の中、今僕はここにいる、というわけだ。

誰か証明してほしい。
僕が18歳だと。僕は去年高校を卒業したのだということを。

もちろん、大学の「同期」だからといって「同い年」だということではないのは重々承知なのだが、
こんな短期間に同じようなことが起こった事実にも驚きは隠せない。

この7月は自分にとって疑惑の月となってしまった。
不思議な月となってしまった。
これも最近のうだるような熱気のせいなのかもしれない。

バイトにしろ同期にしろこれからも関係は続いていくので、
続いていかせたいので、この疑惑はいつか解明していくのだろう。

その時は、「空白の1年は無かったらしい」という話でも書いてみようか。
見つけた答えによっては「コールドスリープ」というタイトルになっているのかもしれないが。



なつまつり

当時、愛知県の岡崎市で暮していたころ、近所にシビックセンターという場所があった。

この場所では、以前冬(クリスマス周辺)にあった祭りにまつわる話をしたのだが、この場所には冬だけではなく、夏にもさまざまな思い出が詰まっていた。

これは、当時の12歳。
中学1年生の頃のこと。

初めての、相棒とのステージの話である。

自分は吹奏楽部に属しており、4月に楽器を決めてTubaと出会った自分は意気揚々と部活に励んでいた。

練習をして、楽器の吹き方を覚えた新1年生が次に課せられた課題は、夏のステージ、1年生のメンバーだけで曲を演奏すること。

その時に渡された紙は確か
ハイブリッド・マーチ
という曲だったと思う。

今では、先輩の見よう見まねでやってきた自分の技術が、一人歩きをする。

渡された紙を見ながら楽器に息を入れる。
そして、紙の字を目で追いながらとりあえず吹いてみる。

「あ、僕、楽譜が読めるようになってるじゃん」
そう思った。

今まではただの紙切れだったものが、しっかりと楽譜として目の前にあるんだというのが実感出来た。

そこからは再び練習の毎日。
近くにはいつも、コントラバスを弾く友人がいたので、同じ低音としてよく合わせていた。

色々な雑談をしながら、
集中するとき、やるときはやって、
そんなスイッチの切り替えがとても楽しかったことを覚えている。

他にも同学年の男子が、自分含めて6人いた。

時期は夏休み目の前。
先生の呼び出しで男子の6人はその場に、一堂に会することとなる。

そこでは、
これまでにももちろん男子の吹奏楽部はいて、そのメンバーで一つのバンドを作っていたということを教えてもらった。

そのバンドの名前は
ザブンオールスターズ(仮名)」
略してザブン

新しいバンドの始まりだった。

そうして日は過ぎていき、
夏祭り当日となる。

今回行うことは3つ。
1つは全体で演奏。
2つ目に1年生だけでの演奏。
そして、3つ目にザブンでの演奏だった。

結局、大きなヘマをすることもなく、演奏は無事終了した。
もちろん、ザブンの演奏も含めて。

先生からは、ザブンがちゃんとした演奏をするなんて…
何をやっているんだ!

と、指摘されたりもしたが、そういう意味でも無事終了。
無事成功だったと思う。

あの舞台も個人的には大きな舞台で、あの中でしっかりと演奏をやり遂げた感覚、というのはどうも癖になるらしい。

こうやって夏になる度に、なつまつりを思い出し、その演奏の光景を思い出す。
それ以来、Tubaを吹くことがより楽しくなっていたと思う。

自分の高校が終わるまでの学生生活の半分を共にしてきた僕の相棒チューバ

大学に入学してからは、楽器に触れることも無くなり、少し物足りない気分になりながら生活をしている気がする。

いつか、もしふるさとに戻ることがあったら久しぶりにこの夏祭りでもみて、学校の演奏でも聴こうか。

夏祭りと言えば、やはり屋台だろう。
もう、その夏祭りはどんな出店があったのか、覚えていないが、不思議とワクワクしてきた。

リンゴ飴に、焼きそば。
わたあめに、人形焼き。
たこ焼きという路線も良いだろう。

あ!餃子なんかも出てるところがたまにあるかもしれない。

もっと願望を言うなら、
いつか女の子を連れ回して、射的で欲しそうなものとか欲しいと言っているものを渡して、
「はい」ってやりたい。

あれはとってもカッコいいと思う。

今年の夏はどうなることやら。
楽しみだな。



カッコいい と モテたい

昔から、自分は自分に自信がない。

色々なところで言っているのだが、
こんな悩みは自分だけじゃなくって他の人も抱えているようなちっぽけな悩みだ、と思うところもある。

自分は何でもできるスペシャリストだと思うことも出来ないことは無いが、しょせん思うだけで、それは猫をかぶっているだけだ。

内心では、「そんなことないのに」と毎日が賢者タイムのごとく冷静に俯瞰している気分になる。

いつまでもこうやって、自分の中で自分にウジウジするのはいかがなものかと思うのだが、どうにもやめられない自分が心の中に存在しているようだ。


中学2、3年生ぐらいの頃のこと。
ふと、カッコいいと言われてみたいと思った。

そんなふとした思い付きがもともと多い人間なので、なぜそう思ったのか分からないが、たぶん、自分を認めてあげるためなのだと思う。
他人から、カッコいいと認めてもらえれば、自分も自分を信じられる、と。

しかし、1度として「カッコいいね」と言われたことのない自分は、何がカッコいいのかあまりよくわからない。

そこでとりあえず、カッコいいと思われる行動を列挙してみることに。

まず、どんな性格がみんなから好かれるだろうか。

性格の特徴としては、
・プライベートも楽しんでいる
・決断力がある
・周囲の人を思いやる
・物腰が柔らかい
・周りに流されない
・約束はしっかり守る
・心に余裕がある

という7つがここでは挙げられているようだ。

……自分にこれが当てはまっているだろうか。
例えば、「プライベートも楽しんでいる」という項目については、大きく当てはまっていると思う。

常に自分の世界に入っているようなものだから、好きな音楽はずっと聴いていられるし、ゴロゴロだって出来る。

これはカッコいいかもしれない。

他の項目はどちらかというと、個人的主観よりも、相手方に依存するような項目だと思う。

周囲の人を思いやる」なんていうのは特にそうだ。
「思いやり」の感覚のベクトルだって、個々人で違うのに、おんなじものさしで測れるとは思えない。

まぁ、とりあえず、ここに上がっていることを基礎として学校生活を頑張っていけば、「カッコいい」と言われるのもそう遅くはないだろう。

そうして、中学校、高校とこの7項目に注意しながら生活していった。


つい最近のこと。
新しいエッセイが読みたいと思い、山里亮太さんが書いた本、「天才はあきらめた」を読んでいた。

その本の初っぱなには、
カッコいいと言われたいと望む気持ちと
モテたいと思う気持ちは自分の中で同じだった
というようなことが書かれていた。

この言葉に感心するのと同時に、
自分も目をそらしていた本心と向き合うことになる。

なぜ自分は「カッコいい」と言われたかったのか。
「カッコいい」と言われた先にどんな思いがあったのか。

今、考えを巡らせると、それは「モテたい」という思いに直結すると感じる。

結局、カッコいいと言われてちやほやされたかったのだ。
ちやほやされて、カッコいいと言ってもらって、自分を認めたかった。

そのあとモテて、僕自身が引っ張りだこになったりなんてしたら、僕は認められているし、求められていると実感することが出来るだろう。

カッコいい と モテたい

今までは、違うものだと決めつけて見ないようにしていたが、それも今回でおしまい。

というか、別にそれに気付いてすなおになったところで、目指すところは変わらないと思う。

だって、モテたら必然的にカッコいいって言われるだろうから。


何かに影響を受けて、こうなりたいと思う気持ちが生まれる。

例えば、後輩のスマートな手助けをする瞬間を見てカッコいいと思う。
自分もこうなりたい、こうありたいと思う。

みんな何かの理想があって、カッコよくありたいと、モテたいと願うのだろう。

今回の場合は、
僕がたくさんの子にモテモテになりたいという願いから生まれた行動だったが、
他にもそんな願いから生まれたものが周りには多くある気がする。

例えば、香水

これだって、良いニオイと思われたくて作られたものだろう。
化粧だって、そういう考えから生まれた技術だ。

つまり、モテたいという気持ちは悪くないのだ。
今までは、その気持ちはよこしまで良いものではないと思っていたが、そんなことは全然無いのだ。

つまり、僕はこれからも「カッコいい」を目指して頑張っていく。
そしていつかはモッテモテに。

なってやるぞ!!!!



カレーライス

こんにちは、こんばんは。

突然の質問なのだが、これを見ているあなたは
”カレーライス”
という食べ物を知っているだろうか。

これは元々、インド料理だったものをイギリスが応用し、インド風イギリス料理と作り上げ、日本に伝来したものらしい。

そこから、今の姿まで独自の発展を遂げたのが、今のカレーライスだという。

今回は、そんなカレーライスのお話をお届けしたいと思う。


ちょうど3年前、高校に入学して電車通学になったころ。
部活にのめりこんでいた自分は、夜遅くに帰ってくることが多くなっていた。

そんな帰り道。辺りは暗くなっていて、家と電柱の明かりだけが道しるべになっていた帰り道。

ふと気づくと、どこかの家から馴染みのある匂いが漂ってきているのが分かった。
勝手に頭の中でその食べ物の具材が浮かんでしまう。

にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、そして肉。

肉にも牛、豚、鳥と種類は様々。
自分の家では鳥肉がメジャーだが、他の家ではどうなのだろうか。

そんなことを考えていると、懐かしいことを思いだした。


その日は吹奏楽のイベントで、ザブン(仮)のメンバーの二人と楽器の搬入手伝いをしながら雑談をしていた。

トークテーマは何故だかカレーライスの話へ。

自分は、カレーライスには目玉焼きの食べ方と同じく、各家庭の違いが見えると考えている。

例えば、自分の家では、カレーライスの具材に上記に加えて、
”だいこん”が入っている。
だいこんが入っていると、食感にもまた違いが生まれている感じがするのだ。

今ではだいこんが入っているカレーライスはお気に入りだ。

その話でも、このようなことを話すと、一人が自分のカレーの具材を話し始めた。

なんとその人の家では、にんじんらの”いつメン”に加えて、
”ちくわ”が入っているという。

「みんなの家にも入っていると思っていた」
という彼。

「それは、きっと普通じゃないよ!!」
と二人してツッコんだっけか。

懐かしいな。


もうすぐで家まで到着する。
家に近づくにつれてこの香りも近くなってきている気がする。

向かいの家が庭で何やらやっているようだ。

すれ違いながらよく見ると、外にテントを出してカレーライスを作っていた。

とてもおいしそうだったことを覚えている。


少し、話は変わるのだが、

カレーというと、カレーライスの他にもスープカレーやバターチキンカレーなど多くの種類がある。
カレーパンだってそうだ。

その中でも、個人的に好きなものがカレーうどんだ。

あのうどんのコシとカレーの風味。
そば屋・うどん屋特有のだしの香るあの感じ。

カレーうどん以外にも、そのカレーを使ったカレー丼なんていうのがあることを最近知った。

カレーのバリエーションは多い。
カレーの世界は広い。

マツコの知らない世界などできっとその回があると断言できるほどには広いと思う。

個人的にもカレーライス巡りをしてみたいと思い始めてきた。
そしたら、いつかカレー丼を食べてみたい。

そして、それを目の前にしてこう、言うのだ。
「いただきます」と。



まとめ:まだ、寂寞である

1

複数人といっしょに歩いていると、気付けば1人になっていることが多い。

仲の良い人同士で歩いていても、1人だった。後ろに一歩、気付くと引いて歩いている。

別段、治そうとも思ってはいないが、
こればっかりは治そうとしても治らないだろう。

そんな状況に気付くとき、心の中は自然と寂寞せきばくで満たされていた。

この心が満たされることはないのだろうか。

2

月刊コグマが正式に始まって2年が経とうとしている。

17歳になる年の7月からしっかりと始めたのだが、あの頃は本当に、野球応援の暑さに悩まされていたことが懐かしい。

またやりたい、とかそんなことを思うわけではないない。

けれど、記憶というのは多少美化されるらしく、このように思い出しては良いものだったと感じてしまうのが不思議だ。

懐かしさに身を委ねる、というとおかしな表現だが過去を振り返っていると、自分は今のままでいいのか、という気持ちになる。

たぶん、自分以外の同年代の人たちは未来を見ているのだ。そんな気がする。

大切な友人や恋人や家族がいて、"今まで"よりも"これから"を見据えて生きているってそんな気がする。

だから、自分はただ一人。
過去に取り残されて、ずっと後ろを向いている。

寂寞感に苛まれながら。

3

空気を読むことは、得意だと思う。
けれど、空気を読んでそれ通りに行動することは苦手、というより嫌いだ。

これは自分の根本的な部分の問題ではあるのだが、決まった道をそのまま進むのがどうにも気にくわない。

逆張りが染み付いてしまったように、9人が右を向くなら自分は左を向くだろう。

すなおになるとか、ならないとかそういう話じゃなくて、単純に根本的に気持ちとは別で行動をしてしまっているらしい。

書いていて思ったのだが、それってまるで脊髄反射じゃないのか。
そんな反射のレベルで逆張りをしていると考えると、たちが悪いでは済まされない。

そんな自分はどこか足りない感覚がする。

4

大学に入学して、年齢を越えた色々な人と関わることが増えた。

バイトを始めて、自分は今働いているんだ、という感覚を味わうことができた。
給料を貰って、それを実感した。

今までとはまた一線を画す、また新しい生活を過ごしていると感じる。

ここから自分はどうなるのだろうか。

もっと、今の状況を楽しみたいと思っている。
自分は自己暗示が得意なのだ。

まずは楽しいと思うこと。
そう思えば、自然と楽しくなってくることを僕は知っている。

毎日見ている景色に新たな気付きを得ることが出来る。
それが面白いことを覚えている。

恋人がいらない、なんて言わない。
正直、欲しい。

実際に恋人がいたら、どうなるのかわからないが、もっと自分をさらけ出せるようになりたい。

今はまだ、ずっと溜め込んでいるばかりだから。
溜め込んで、ここで吐き出しているばかりだから。

まぁ、それで相手に迷惑をかけてしまったら元も子もないんだけど。

5

未来設計図、というと聞こえは良いが結局のところそれは妄想だ。

どうなるのかわからない未来に、希望をかけて思いを馳せているだけだ。

けれど、それもロマンチックで逆にカッコいいんじゃないかと思う。

今後こうなりたいと願って行動する人って、想像するだけでカッコいいと感じる。

僕はその人の中でしっかりと芯を持っている人が大好きだから。
自分の中でその人はとってもカッコよく映る。

努力の天才。

そんな風に呼ばれた芸能人のエッセイを読んだ話をしたが、あの人だってやっぱり素敵だと思う。

自分もあんな風になりたい、と見習っている。
いつかはカッコいいと言われるために、出来ることを増やしていって。

いつか誰かに惚れてもらうんだ。

心はまだ、寂寞である

しかし、

いや…

だが、情熱はある

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夏の思い出

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