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【UD】小学校、卒業(自己紹介18)

皆様、こんばんは!
埼玉県越谷市で、がやてっく株式会社という小さな会社を経営している小栗義樹と申します!

本日は僕の自己紹介記事「ちょうどいいハンデだ」のUPDATEをします。

本日アップデートする元ネタはコチラです。

アップデート記事とは何かというと、
・当時書いた本文(下線部分内)を少しだけ修正・加筆する。
・冒頭の挨拶文(これ)を完全リニューアルする。
・文末は有料パート。過去に書いた自己紹介を読み直し、思ったことや違った視点・別の切り口などを加筆、思い出した新たなエピソードなども追加します。

有料部分はかなり尖った話をします。僕に興味津々の物好きな方に刺さる、人生に役立つお話を沢山用意しておりますので、よかったら購入してみてください!

と、有料の紹介をしましたが、今日は有料パート無しです(笑)
読み直して、有料パートが必要ないという判断に至りました。
最後まで楽しんいただけたら嬉しいです!

それでは参りましょう!
この記事は、2023年1月16日に投稿した、僕の18本目の自己紹介記事です!


運動会が終わり「目立ち方」を覚えた僕は、同時に陽キャは向いていないんだなぁという事にも気づきました。大勢の前で何かをするためには、そこにたどり着くまでに色々な人と話をしたり、色々な人と考えを共有しないといけません。

当然、そのグループに陽キャがいれば、主導権は陽キャです。グループの中で一番発言する奴が、そのグループを先導するわけですから。

僕が応援団長をやった時は、できるだけ会話を回すように心がけました。

小学生にしてはそれなりに上手くやった方なんだと思います。

所感はありました。真っ黒新聞を作り、火遊びで捕まり、実はガラスも割っています。(ガラスはわざとじゃないですが笑)

そんな奴、やっぱり問題児です。

僕は、恩師を除き、他の先生たちからは少し敬遠されていたと思います。特に6年1組のスケベおやじと6年4組の先生からはものすごい嫌われていたと実感しています。

ところが、僕が応援団をやり、ある程度組をまとめ上げることに成功すると、こうした先生から声をかけられるようになりました。最高学年として「模範の動き」をしたみたいに言われるようになりました。

ちなみに応援団にも、顧問のような先生がいました。この先生は6年5組の担任だったのですが、僕にとって恩師に並ぶくらいお世話になった先生だったりします。

応援団の活動以降、何かと気にかけてくれるようになりました。

僕はある程度「名誉挽回」に成功したのですが、この時気づいたんです。

あ、向いてない。

と。

僕がやりたかったのは、人の中心に立つことではなかった。

この応援団の活動の中で気づいてしまったのです。みんなからチヤホヤされてみたい。そんな思いもあって、立候補から本番まで本気で取り組んでみたのですが、ものすごく疲れたし、明らかに無理をしている自分がいました。

ここから僕は、自分は何がしたい人間なのか?

を延々と探すことになるのですが、

その答えの一端も6年生で見つける事になります。

3学期の始めの頃です。

僕は一度だけ「いじめっ子」として疑われたことがあります。

僕は人をイジメたことはないと思っています。やられたらやり返しますけど、自分がいじめられていたからこそ、無意味に人に対してそうした行動はとった事がないと思っています。

僕にはA君という友達がいます。

4年生の頃登場したY君・そして今回登場するA君は小学1年生の頃から付き合いがあります。

A君は、簡単に言うといじめられっ子です。よく、クラスの特定の人物からいじめられていました。

僕は見かけたらさりげなく止める。を心掛けていました。

というのも、6年生の頃A君をイジメていた連中と僕は、そこそこ仲が良かったのです。だから「その辺でやめておいたほうがいいよ」と言うと、なんとなくいじめは収まっていました。

A君に対して行われいたいじめは、非常に単純なものです。

それこそ、小学校低学年の時に僕が体験したようないじめです。正直、本人が本気を出せば、ひっくり返すことは出来たと思います。

でも、A君からすれば辛い事だったのだと思います。A君は引っ込み思案でした。あと、根が優しくため込みやすい人でした。

イジメている連中も最初は「からかいの類」から始まります。でも、気づいた時にはエスカレートしている。僕が見ていて思ったのはそんな感じでした。

ある日、校外でA君と遊びました。A君はなぜか、いじめっ子たちとよく遊んでいました。ここら辺はよくわからないのですが、多分A君が遊ぶのを断れなかったのでしょう。

僕もその遊びの会に誘われました。今までこのグループと校外で遊ぶことはありませんでしたが、ちょっと気にもなっていたので、せっかくだし行ってみようと思ったのです。

すると案の定、A君へのからかいから本格的ないじめまでの流れがおこなれていました。僕は大体A君の顔を見て止めるタイミングを決めます。

その日は坂を自転車で下れるかどうか?というしょうもない遊びでA君をからかい始め、そのあとエスカレートしたいじめっ子がA君を土手に突き落とすといういじめを始めました。

さすがにやりすぎだと思ったので僕は止めに入りました。

「やりすぎだし、面白くないから帰るわ」

そんな事を言っていじめ行為を遮り、家に帰りました。

僕のミスは、ここでA君を一緒に連れて帰るべきだったのですが、その時はあまりにその会がつまらなかったので、言いたい事だけ一人で帰ったのです。

この頃には「それで友達がいなくなってもいいや」と思っていました。

それはそれで、理解し合えない人として割り切ることができるようになっていたのです。

次の日、事件が起きました。

朝、学校に行くとA君が来ません。昨日、A君をいじめていた連中もいません。どうしたのかな?と思っていたら担任である恩師が来て言いました。

「小栗、ちょっと来い」

僕は、なんかやったっけ?と思いながら恩師についていくと

A君とA君の母親?と昨日のいじめっ子が立っていました。

僕はいきなりA君の母親に「あんた、どういうつもりなの?」と怒鳴られました。あまりに突然の事で意味が分からず「はい?」とマヌケな声で返事したと思います。

A君は隣で泣いています。

するとA君の母親は「うちの子イジメておいてただで済むと思ってんの?」と言われたのです。

僕はイジメていません。ただ、止めただけです。

と言いたかったのですが

僕、止めれてないんですね。

だって目の前でA君は泣いています。そして、僕が呼び出されたという事はA君は僕をいじめっ子と認定したという事です。

いじめとは、いじめられている側がいじめと判断したらいじめなんです。

僕はさんざんいじめられてきたのにも関わらず、止めているみたいな雰囲気を出しているだけで一番大事な事を忘れていました。昨日のあの会、やっぱり最後まで残るか、A君を連れて帰るべきだったんです。

その場はひとまず「ごめんなさい」と謝りました。

するとA君が言ったんです「小栗君は僕の事をいじめていない。むしろ昨日も止めようとしてくれた」と。

どうやら、A君の母親はA君がいじめの相談をした際、僕の名前を出した瞬間に話を打ち切り、先生に「あした学校に行くから、〇〇と〇〇(いじめっ子の名前)と小栗を呼んでおけ」と言ったみたいです。

危うく僕はいじめっ子になるところでしたが、間一髪のところで免罪になりました。

ただ、心の中ではめちゃくちゃショックを受けていました。自分の行動が、知らない間にいじめになってしまう事もあるのだと感じました。

そして、僕の行動はいじめの一歩手前だったのです。

ちなみに、このA君の行動は悪手中の悪手です。親を呼んでいじめが無くなるのは低学年までです。特にからかいスタートからいじめに発展するパターンは、いじめている側も全然自覚がありません。

あと、そんな事をする連中は往々にして、親に怒られたところで行動を変えたりしません。なんならいじめのレベルが上がり、もっと陰湿になります。

僕は過去に自力でいじめから脱出する事に成功しました。やり返すことでノウハウも貯まっていきました。最終的に、自分と折り合いをつけることができるようになりました。

でも、多くのいじめられっ子は自力脱出できないという事を知りました。

だから僕は決めました。

自分の友達がいじめられているのなら、最後まで助けようと。

最後というのはきっと自立です。この頃はどこを最後にするかなんて決めていませんし、何をしたらいいのかもよく分かっていません。

ただ、この事件をきっかけにA君とはさらに仲良くなりました。

A君と僕が、一緒にいればいじめてる側は手を出してきません。応援団長の活動が活きています。

それ以来、A君のいじめは少なくなったと思います。

そして僕は6年生を終え、小学校を卒業します。

卒業式は、不思議と泣けませんでした。6年生は楽しかったけれど、小学校は僕にとって楽しい場所じゃなかったからかもしれません。とにかく、そんなに感動しませんでした。

うわっと涙が込み上げたのは、卒業式が終わって恩師から

「お前は面白い生徒だったなぁ」と言われた時でした。

「あ、僕はこの人に救われたんだなぁ」と心から思ったんです。僕みたいな根暗な問題児を面白いで片付けてくれるこの先生は「なんて優しい人」なんだろう。そんな風に思いました。

ありがとうございました。僕も1年間、先生のおかげで楽しかったです。

そんな風に言いました。この先生は、5年生の頃担任だった、スケベおやじから僕の悪い話を沢山聞かされていたはずです。最初は、僕の事を嫌がったんだと思います。でも、ちゃんと向き合って僕の事を見てくれました。

最後の方は、若干贔屓されてたように思います。

そういう気持ちが「お前は面白い生徒だったなぁ」に詰まっていたと思います。

あと、R君とはこれでお別れでした。

学区上、中学が別なのです。

でも「ずっと友達な」と話しました。

この時も、泣きそうだったかもしれません。僕が前向きに楽しく過ごせたのはR君のおかげです。6年生はR君と一緒にいた記憶がほとんどで、本当に楽しい時間を過ごすことが出来ました。

だから漠然と、これでお別れかと思ったときに鼻がツンとした記憶があります。

卒業を実感したのは、この小学校からではなくこの2人から離れていくことだった。それくらい僕にとって大きな存在だったと思います。

ちなみにR君ともA君とも今でも仲良しです。

恩師とはその後あっていません。お会いしてお話を聞きたいなぁと思うこともありますが、同窓会でもない限りそんな機会はないでしょうね。

僕にとって楽しかった小学校6年生はこんな感じで終わりました。

とても充実した素敵な日々でした。


はい、ありがとうございました!

小学6年生は、僕の学生生活の中でもかなり印象に残っている時期だったりします。よくよく思い返してみると、思い通りにいかない事の方が多かったような気がするんですけど、それでもこの時期はとても楽しかったように思うんです。

それは僕にとって、この時期が平和だったからなのだと思います。

楽しいって、思い出がいっぱいあるとか・鮮烈な出来事があったとかそういうものだけではなく、自分らしく生きられたかどうかにかかっているような気がするのです。ストレスなく自分を出せるだけで、その時はとても楽しかったって思えるのではないでしょうか?

僕にとって6年生は、自分を出せる環境が整っていました。理解してくれる人がいたし、そんな自分に干渉してくる人も少なかったのです。

そういうポジションを自分の力と恵まれた運で切り開くことで、あんな素敵な環境になったのではないかなと考えています。

そういう時期が、人生の中で幾つ訪れるのかは分かりません。そんなに多くないような気がするし、それを素敵な時期だととらえられない時だってあるでしょう。

だからこそ、つかみ取る努力は必要だし、そういうタイミングを逃さないように足掻いていくことが必要なのだと思います。

気持ちを一定に保ち、動じないこと強さを意識して、自分が思う素敵な時期を手に入れたいものです。

これからも頑張っていこうと思います。

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