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フォロー強要くばりおじたん
ヘッダ画像を日クロからお借りしています。著作権を主張するものではないです。Z世代に流行ったものを決めているらしい。ぼくは別に決める必要はないと思う。
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フォローしたらおごってくれるチャレンジという言葉の情けなさを想う。
そもそもフォローとはSNSにおける主義思想の発露にともなう結果的に生じる行為であり、主義思想を一方的に汚染することは憲法の表現の自由あたりで制限されています。つまり強要罪ですね。
それを「チャレンジ」という言葉のクッションでごまかすおっさんが横行しているという感覚を伺わせる。もはや雑人のフォロー行為になどその程度の価値しかないよ、と明確に市場は提示しているのだ。
フォローとは主義思想の発露であるのに、それに何の価値もないんだよ、と言われているZ世代の未来は明るそうに見えない。Z世代でい続けたいのであれば、といいますかもはやZ世代に生まれたのであればお前の主義思想など資本主義に取り込まれるためにしか存在しないんだよ?なに勘違いして生きてんの?と言われているのと同義である。悲しいね
この「(貴様らのような、搾取されるしか能がない生き物の)主義思想を捻じ曲げることは迫害でもなんでもないんだよ」を誤魔化そうとする”チャレンジ”というクッション言葉の気持ち悪さについて考えたい。
チャレンジとは発露を促すことである。つまりチャレンジをSNSに投稿しろという時点でUGCさえも強要しているのだ。UGCとは自然発生的に起きてこそ企業利益をもたらすものである。
それを無理やり「喚起」ではなく起こさせた上に……主義思想を捻じ曲げさせる「フォローの強要」という行為を強いた上にそれが還元されるかどうかなんてわからない、という(本格的に知りたくはないのでガチでどういう意味なのかについては一切調べていない。違っていることを祈りたいぐらいだ)。
つまり―――さしあたってぼくは以下のようなことを感じはしないのだが―――この「フォローしたからおごってくれるよね」の期待が達成させられなかった当該おごるおっさんについて、おごってくれないなら俺の人生において関わる意味なんてないからフォローなんて速攻はずしちゃうよ~~~~~~~~ん、が成立しない人が一定層要ることを織り込んだ卑怯極まりないキャンペーンであることすら見て取れる。
あるいは、そもそもホロー行為をしたことを忘れるような、自己のSNSにそこまで思い入れない層の行動余滴を無理やり回収する行為、といえるようなハイエナ根性がうかがえる。ハイコントラストに過ぎていく現代の最新(?)プラットフォームであるSNS上において、こんな情けないマーケティングがあるだろうか。
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