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「映画を早送りで観る人たち」という題名を見てどう思うか?

※当該書籍を読んでません。別にお金をもらって書いているわけでもないので題名だけ見て何か思うことをアウトプットしたいと思っただけです。よってもちろん当該書籍を批判……批判に見えることを書くかも知れないけど売上が下がってほしいとかそういうことに類する目的を持って書いているわけではない。本が売れるのは良いことですね。

稲田豊史という方が書いた上記題名の本にはサブタイがついています。

それは「ファスト映画・ネタバレ−コンテンツ消費の現在形」というものだった。ファスト映画ははっきりと犯罪なのでその部分に警鐘を鳴らすことは悪くないんじゃないだろうか。

ただこの本に対する杉田俊介という人の書評があり、そこでは若い世代ほど「奪われ感覚」があるから、可処分時間を増やすべく映画を倍速で観るんちゃうか?というものだった。

実際ぼくはそう思うんですが、他にも職の業のような使命がある、あるいは寝れなくなるからそうしているわけではなく、「そのエンターテインメントはその速度でも味わえるし、他に見たいものがあんだよな~」という目的で倍速で観る。少なくともぼくはそうしている。

その速さ(ぼくは映画を基本的に1.25~1.5倍で観ます。興味がわかなさそうな内容だとうっすら感じた時は最大倍速でみます。1.5倍以上ですね。仮にニュース番組とかを1.75倍とかそれ以上で見れるときはそうしてますが、YouTubeのように2倍で観ることはどのようなメディアでもしていない。多分理解が追いつかないといいますか言語野が音声を完全に聞き取れなくなるラインがそこら辺にありそう)で観てしまうことにより、完成品、芸術品としての意味が削がれるみたいな心配が稲田の書籍には書かれているらしい。

当該書籍の元となった?上記リンクでは

画面に写っている美しい自然や人の営みそのものを「ただ堪能する」のも、映像作品の醍醐味だ。

というわざわざ太字で強調している主張がある。で、ぼくはこれを1.25倍なら堪能できると踏んでそうしている。

ぼくはジョン・ウィックの1つ目を異様に褒め散らかして、2つ目以降をバキボコにけなしたnoteをシリーズ的に書いたことがありますが、

まさにジョン・ウィックの1つ目にある奥さんの喪失によるジョナサンの孤独さとか……イッヌと触れ合うだけのささやかながら確かな幸せがある生活について大きな感銘を受けることができた。

さすがにそれをして

それを「飛ばす」「倍速で観る」だなんて。たとえるなら、『第九』や『天城越え』や『マリーゴールド』を、倍速で聴いたり、サビ以外を飛ばして聴くようなものだ。そんな聴き方で叙情や滋味を堪能できるのだろうか。あえて感情的に言うなら、それはアーティストへの冒涜ではないのか。

という喩えを若者に飛ばしてやるのは理不尽なような気がする。ぼくは歌については速度を上げて聴こうとしたことは……厳密に言えばある。それは時短というつもりはなく、コンサート盤という体で自力で編集し直して聴いたという体験だった。細かく言えば倍速の程度も1.05倍とかそんなレベルです。でキーとかも変えたりした。

だが流石にそれをしたのは既に恐ろしい回数聴いたことがある歌についてです。知ったばかりの歌にそんなことしようとは全く思わない。

そして、倍速で観る人達の感覚を理解してやらないのもまた冒涜だ。価値観を理解しようという姿勢がない(5ページぐらいを読むと、稲田が言うところの「冒涜的な若者」はもうちょっと偏屈な見方をしているとわかるがそれについてはまた次回)。

ぼくが過去に書いた映画のレビュー(レビューという単語は偉そうなのであまりしたくない。感想です)には、等倍速で観たものはほとんど含まれていない。番組としてテレビで観たパラサイトは超速再生ができないため、それぐらいじゃないだろうか。あと倍速で観ようとは思わなかった白爪草。

映画の見方には多様性があり自由がある。

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