底辺という薄ら寒い形容は誰の心にも響かない
底辺、とかそういう単語が見苦しくて嫌いで難儀な生き方をしている。ヘッダ画像をお借りしています。映画の感想です。
極端な言葉がインターネットサービス上で好まれるのは、集客のためです。そうしないと他と差異化できないから。
この「差異化」すらマーケティングの領域に至ると「差別化」とか言う。差別ってくそみたいな言葉です。現代社会で差別したら犯罪ですよね。
つまり義務教育の学校にいるようなカースト上だと思ってる連中がやってる行為(今の学校にそんなくだらない連中がいるのかどうかをぼくは知らないし興味がない)とは犯罪だ。そいつらの悪行を剣だとするとインターネットサービス上で字を書いたりする行為はペンに属すでしょう。
そのようなペンを使う平和主義に視える行為の中にも、そのような差別行為を図らねば集客できないからとまんまとやってしまうことがあるインターネッツのフレームワークをぼくは悲しく思う。悲しくそして非生産的だ。
そのような非生産的ではない1996年にリリースされた映画には、より非生産的かつ悪行の限りを尽くしたような差別どころか迫害行為がえがかれている。
そいつはスリーパーズという映画です。カーストの上か下かもわからない、そんな判定を受けるチャンスすら奪われたような少年犯罪な連中を収容する施設で、少年たちに性犯罪をしていた「男の牢屋番」を糾弾する映画だ。
ぼくは性同一性障害ではないが、性同一性障害に対して迫害されなければ良いなと思いながら生きている。それゆえに、この映画をして性同一性障害ゾーンを傷つけたいつもりは微塵もないことを前置きたいのだが、それがつたわるかどうか自信がない。
なぜなら少年犯罪の子ども(男児)たちをレイプした男どもはよく考えれば性同一性障害でありペドフィリアであると言えてしまうからだ。
犯罪者がたまたま性同一性障害だった、という文脈で話をして世間の性同一性障害ゾーンは傷つかないかどうかをぼくは気にしている。
性同一性障害の層をして、その事実を当然受け入れることがダイバーシティであり最早いちいち性差を区別すること自体が生産性を下げるとぼくは思う。本人の意志とは無関係に、既に存在してしまっているんだから。
ともあれ、この映画のもととなった本が出版されると少年犯罪を扱う公的機関の連中は、その内容について嘘っぱちだという声明を出したらしい。一体どの目でアメリカ全土の収容所の実体を毎日何十時間365日と観察したのだろう?どこからそのような自信が来、脳死みたいな声明が出せるのだろう?
この話を書いた人は、牢屋番たちが犯罪した男児たちを自己の性的欲求を満たすためだけに毎日のようにレイプしていたことは歴然とした事実であり、名前や年代や地域だけは流石に変えてるけどそれ以外はマジだと言った。性善説に基づけば、そうじゃなきゃこんな話書けないんじゃないだろうか?
この話の真実味を引き立たせるためにロバート・デ・ニーロやブラッド・ピット、ダスティン・ホフマンみたいなぼくみたいな映画おんちでも知っている人々が出ているんだけど、話の重さや接合性を重要視した結果なのかその俳優たちが端役みたいに扱われてしまっているように視えることがあるぐらい、話のメインテーマが重すぎる。
果たしてロバート・デ・ニーロのした選択は正しかったのか、ロバート・デ・ニーロにしては珍しく人を殺さないなとか、この年令の時のブラッド・ピットが起用されたということは悪と戦う正義の好青年として象徴的に描かれようものなんだろうけど、ブラッド・ピットのキャタクタにとっておそらく信じられないほどの苦労による準備があっただろう描写がほとんどなかったり(そんなところ書いてたら確かに2.5hある映画が3hにはなっちまうだろう。でも世の中にはそういうことをしているアイリッシュマンみたいな映画もある)、ダスティン・ホフマンの顔をよく知らないぼくは、最後まで一体誰がダスティン・ホフマンなのかわからなかったり……枚挙に暇がない。
ろくでもなくカス以下の犯罪した子供たちにはもちろん救いなど与えられない。だがそれでもホットドッグ屋は底辺などではないし、ホットドッグ屋の台車で老人を半殺しにした子供たちを社会のド底辺だとみなして一年以上の間レイプし続けた牢屋番たちの人生はことごとく終わらされなければならない。そこには本来、底辺だの上底だのというものさしは介在しないのだ。
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