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選ばれた支配層のごっこ遊びにつきあわされた気分(Joker感想)

ぼくは連日、映画ジョーカーについて考えてしまっていて今日もその続きです。ヘッダ画像をお借りしています。


ジョーカーはぼくであり、ぼくらであり

そして今日は、昨日の予告通り「ジョーカーが踏み外すべきでなかった選択肢」に立ち返るというアーサーに対する傷口のえぐり出しでもするかのような地獄な文を書くことについて考えていました。

この文を書いている時点で、本当にぼくはそんなカスみたなことをすべきなのだろうか?何を偉そうに反面教師にでもしようとしているのか、と思える。

そしてこの「思っている」のは、もうひとりのぼくなわけです。何を思っているのか?ジョーカーの傷をえぐるなと言っている。ジョーカーに対して何らかの愛があるのだろうか?いや、ぼくのなかに何かしらのジョーカー的素養があるからこそぼくは「やめろ」と言っているのかも知れません。

別に「初カキコ、ども……」的ふるまいがしたいわけじゃない。自分をして「アーサーの生き様を『反面教師化』して、清く正しく楽しく生きましょう」などという偽善に満ち溢れた生命体に位置づけたくないという思いがぼくをそうさせているのだろう。つまりジョーカーとはぼくらであり、ぼくなのですね。本当はこれを題名にしたかった。

ジョーカーを偉そうな消費層にお返ししますよ

映画としてのジョーカーがアーサーに対してひどすぎワロタであるのは、その背景にもあると以前述べたとおりです。つまりマーベル愛読者に対し、「飄々とした掴みどころのない、完全無欠な悪役」であるジョーカーのイメージを崩させたと思わせてはならない、と映画制作側が捉えたであろうという背景です。

映画ジョーカーとは、つまりアーサーの人生とは、「フィクション内ですらガチであったかどうかが不明」にさせられてしまいました。それは映画内の描写においてアーサーが下記の例から読み取れてしまうように「信頼するに足りないストーリーテラー」として徹底的に書かれてしまったからです。

・序盤のロバート・デ・ニーロと共演したのは嘘描写だった、
・本来いなかった愛人が描写された、
・なぜ職員がおっかけて来なかった(それぐらいゴッサムの治安が「諦めベース」であるのかも知れないが)、
・アーサーは何らかの罪(あるいは罪ですらないのかも)で収監された病棟的なものにはなっからおり、最後の部分に至るまでそこから出ることがなかったのかも知れないと思えてしまう描写つまり物語の大部分が映画ジョーカーというフィクション内にすら存在しないフィクション(そこまでくると、このいきなり真っ白い部屋・建物に収監されているアーサーとは何者なんだよとすらなる)だったのかも知れない可能性がある
最後の足が血まみれだった状態の時に初めてアーサーは覚醒し、ジョーカーとなって初めての殺人をして、病院内だか監獄内だかを追っかけまわるみたいなコメディタッチ(=マーブルの世界へ、「マーブルファンの素敵なお客様がた、私たちのやりたい表現はおわったので、お借りしていたジョーカーをようやくお返ししますよ。あなた方が大切にしていた消費エンタメとしての世界にね」と映画製作側がメッセージを発している)な終わり方以降だけがフィクション内における真実なのかも知れないという描写

というように、"信頼できないストーリーテラー" というのが文系用語とかなのかぼくはさっぱり知らないけど、とにかく世間にはそのような立場があるらしい。

この物語全体が嘘っぱちだったのかも知れないという立場に基づく上記の最後の例に注目してほしいんですが、つまり映画ジョーカーは「このホアキン・フェニックスが振る舞った男(最後アーサーって呼ばれてた描写ありましたっけ?←最後の白い部屋を見返したら笑いっぱなしになってしまう癖とかは健在なものの、呼ばれてはいなかった……)がこの直後、従来のファンも大満足のジョーカーになったんですよ、ヒース・レジャーなりジャック・ニコルソンなりのあの風貌にね」というトスだけが残り、「あとは好き勝手想像なさってね、あなたのジョーカー像を傷つけはしないのでご自由にね」という終わり方がなされているようにも見える。

つまり最後の白い部屋であったことだけが真実だと捉えるのであれば、両親がいきなり何者かに(ジョーカーであるとは読み取れなかったのでマジで何者かに)ぶっ殺されたブルース・ウェインがこの後バットマンとなり、このあと一生、いや観客という大衆を楽しますために消費され続けるのであればほぼ永遠にジョーカーと戦い続けることになる彼のことをこのホアキンが演じた男(便宜上アーサーアルファとかにしますか……)は思ったことになる。

ジョーカーがあの車のボンネットの上で目覚めた時にあった暴動が真実かどうかはわからないので、何らかの方法でゴッサムに起きた暴動?だか事件?による、あのブルース・ウェインの家族の顛末だけは知ったアーサーαが、俺はこの監獄だか病院でひとりぼっちだな、あのガキも同じだな……と憐憫……なのか同情……?なのかを思い、脱獄を決意したのだろうか。アーサーαが映画の中でやった想像がマジなんだとしたら、アーサーαとブルースは異母兄弟になるので、兄貴として庇護するかどうかはともかく、会いに行くべきだと思ったのだろうか。

選ばれた支配層のごっこ遊び

ぼくはこの通り「ジョーカーとは道を踏み外した(すべての選択肢をミスった)ぼくら」であり、「ぼくらとは道を踏み外さなかったジョーカー」であると思っているので、ずっとこの映画が頭から離れないわけです。

なんならこのサイトとかは何年のベスト映画という題目で文をかけ~だの今年を振り返れだの言っているけど、ぼくもそれにまんまと乗せられ純粋想起として2023年に一番良かった映画はなんだったのだろうと思ったけど、そもそも年数という単位を12個とかで区切る行為そのものが選ばれた支配層のごっこ遊びでしかなく、アーサーのように今を生きているぼくらにしてみれば昨日が12/31であり今日が1/1だったのだとしてそこになんの違いもない。

「今日」とは、昨日と地続きの単なる時間の連続体なわけです。

そんな数字の違いで人々を縛り付けることになんの意味があるのか、支配(したい)層の便益のためだけに割り振られた数値の上で好きなこと嫌いなことを話す行為になんのメリットも感じられない。向こうの便益とこちらのメリットつまり両者の便益が交わることなどないわけです。ゴッサムシティに生きたアーサーとそれを娯楽として消費する連中(皮肉なことにぼくらだ)のように。

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