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ミウラジュンの猛講義

みうらじゅんの最後の講義を見ました。ヘッダ画像をお借りしています。

全部面白え~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~と思った。中でも比較三原則の話はぼくの生き方は正しかったんだという確かめができたことで救われた。比べちゃいけない対象とは、他人、親、過去の自分である。他人がいる時点でもう全員なわけです。

三浦については以前も触れた。その時から、いやその以前から彼に対する情動はとくに変わっていないことも面白い。

あとボブ・ディランとディープ・パープルはロックの中でもやれ女を乗せてハイウェイを飛ばすぜ然とした「本来見せたい自分」ではない見せるべきではない自分、隠すべき自分を歌ったロックであるという話に驚かされたことも書きたかったんだけど、三浦がゆるきゃらという文化を20年?ぐらい前に作り出して猛抗議を受けたという話がどうにも印象に残る。

いや結局はぼくがいつも言っている、(多分現代的な言い方をすれば老害という言い方になるんだろうが、老害の本来の意味は違うことをぼくはどうしても気になるので安易に使いたくはない)上の世代のホメオスタシスが働き、新しい文化など絶対に受け入れてやるわけなかろう、然とした肥大化した自意識がカスですねってことだけなんだけど、

どうしても三浦も上の世代からくそみてえな言いがかりをつけられたのか~~~~~~~~~~~~~~~~~ってことに目が言ってしまうわけです。

つまりなんかのイベントでゆるきゃらを使いたいから地方自治体にオファーすんだけど、「うちはゆるくなくガチでやっている」と断られる。そして本当かどうかは知らないが「あ、ゆるのカテゴリじゃなくてユニークキャラの方でした!💦ならいいっすか?💦」と弁明したりした。

なんといいますか新しい文化を受け入れたくないこのプライド、マーケティングの下手さから高齢者がその年齢層と手取りの9割を占める地方自治体とは永続的に現代にそぐわないままいつまでも生きていくのだろうか?と思わされる。まるで遠浅の海岸を浮き輪を使って泳ぐかのようである。

それにしても、わからんとすることはその境界を曖昧にすることだからSNSの誕生で当たり前となってしまった分断を防ぐという考えも再度喚起された。また、わからん=つまり諦める=諦めるとは仏教用語で明らかにする、といわれてしまうとちょっと内部矛盾して崩壊してしまうんだけど、「わからん」という現状だけははっきり(=諦めることをはっきり=明らかに)させ、つまりわからんという決定を下したことにより、他人との分断の境界が曖昧にできたことをはっきりさせたのだ、という生き様を表しているのだとぼくは学ぶことに成功した。これは結構でかいことじゃないだろうか。

三浦もここで笑い話にできたんだったら、そういうおっさんの相手をした意味があったというものだろうか。

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