都合がよいから信じているだけかもしれない
2024年4月3日(水)朝の6:00になりました。
都合のわるいことは、都合よく忘れるものである。
どうも、高倉大希です。
ひとつの意見があれば、どこかにはその反対の意見があります。
必ずしも二項対立だとは限らないので、正確には反対のように見える意見です。
たとえば、この世には「無理して頑張らなくてもいいよ」という意見があります。
一方で、その裏には「20代のうちは死ぬほど頑張れ」という意見があります。
たとえば、この世には「他者のことを優先的に考えよう」という意見があります。
一方で、その裏には「何よりも自分を大切にしよう」という意見があります。
校則を変えたいと願うとき、生徒たちは校則のおかしなところを指摘します。
その裏にある「なぜ校則が現存しているのか」を、考える気配はありません。
クリスマスプレゼントをもらうとき、子どもたちは嬉しい気持ちで満たされます。
その裏にある「なぜプレゼントをもらえるのか」を、考える気配はありません。
わたしたちが信じている意見の多くは、自分にとって都合がよい意見です。
その反対にも意見はあるはずなのに、まったく見ようとはしません。
「無理して頑張らなくてもいいよ」が響くのは、頑張りたくないからです。
「20代のうちは死ぬほど頑張れ」が響くのは、頑張っている自負があるからです。
「他者のことを優先的に考えよう」も、同じです。
「何よりも自分を大切にしよう」も、同じです。
ただ単純に、いまの自分に裏付けがほしいのです。
あの人も言っているから大丈夫だと、ただただ安心したいのです。
だからこそ何かを考えるときは、反対にある意見に思いを馳せねばなりません。
両側から見てみることで、はじめて本質に近づきます。
冒頭にも述べたとおり、必ずしも二項対立だとは限りません。
反対に位置するように見えるふたつが、同時に成り立つこともあります。
自分にとって都合がよいから、信じているだけかもしれない。
自分の思考は自動的に、都合がよい方へと流れます。
サポートしたあなたには幸せが訪れます。