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真剣に話しているからといって、真剣に聞いてくれるとは限らない


2024年4月2日(火)朝の6:00になりました。

真剣に考えるべきことを学んだら、残りは笑い飛ばせばいい。

どうも、高倉大希です。




真剣に話しているのに、どうして聞いてくれないの?

小学校で学級担任を務めていたころ、こう思うことがよくありました。


子どもたちは、とても正直です。

こいつの話は聞くに値するのかを、よく見て判断しています。


真剣に話しているのだから、真剣に聞いてほしい。

これは話し手の願いであって、聞き手からすれば知ったこっちゃありません。


人々が講演のほんとうの内容に興味を持つことはめったにない。彼らはただ、あなたの口調や身ぶりや表情から、あなたが正直者であるか否かを探りたがっているだけです。

古賀史健(2021)「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」ダイヤモンド社


SNS上でも、このような場面をよく見かけます。

議論を持ちかけたはいいものの、綺麗にかわされてしまった人がこう言います。


「あいつは議論から逃げやがった」

「意見を言っただけでブロックされた」


議論を持ちかけたのだから、議論に乗っかってきてほしい。

これは話し手の願いであって、聞き手からすれば知ったこっちゃありません。


どうして僕らは時に、喜ばれないプレゼントを贈ってしまうのでしょうか?プレゼントは嬉しいもの、良いものというイメージがあると思いますが、僕らの日常を考えると、貰って嬉しいプレゼントよりも、貰って困ってしまうプレゼントのほうがもしかしたら多いと言えるかもしれません。

近内悠太(2024)「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社


その点、文章ではあまりこのようなことが起こりません。

なぜなら、読んでいる人の姿が書き手からは見えないからです。


もちろん、真剣に読んでくれている人もいるのかもしれません。

一方で、鼻をほじりながら読んでいる人がいても何もおかしくはありません。


どう読むのかは、読む人の自由です。

書き手が真剣かどうかなんて、読み手からすれば知ったこっちゃありません。


読者は、あなたに興味がない。読者にとって、あなたの書こうとするテーマはどうでもいい。冷徹な現実だ。しかしこの現実を認めるところからしか、始まらない。

近藤康太郎(2023)「三行で撃つ」CCCメディアハウス


「この文章は正座して読め」と言うのは、あまりにも無茶な話です。

仮に言ったところで、本当に正座しているのかは確かめようがありません。


真剣に話しているのだから、真剣に聞いてほしい。

議論を持ちかけたのだから、議論に乗っかってきてほしい。


言っていることは、「この文章は正座して読め」とほぼ同じです。

相手からすれば、知ったこっちゃありません。






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