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男友達と彼氏の違いってなんなんだろう

モヤモヤと、ここ数日いろいろなことを考えていた。

睡眠の質が落ちていて、子どもとの時間で無理をすることも少し多かったからか、メンタルが落ちてきていてネガティブな方へと思考が流れていく。


モヤモヤ考えるのは、いつもパートナーのことだ。
「納得した」と思ったら、翌日にはまた似たようなことで悩みだす。

めんどくさいなあ。
なんで悩まないといけないんだろう。
なにに悩んでるんだろう。
ていうか、悩んでる時点で合わないんじゃないの?
別れた方がいいんじゃないの?
それとも過去のトラウマの影響で感覚がおかしくなってるの?
そもそも、わたしは本当に彼のことが好きなんだろうか?
依存してるだけじゃない?
子育てや家族のこと、自分自身を立て直すことで精一杯の状態なのに、なんでこんなに頭を悩ませてくる存在が自分の人生の中にあるんだろうか。
これ、必要?付き合う必要ある?

そんなことまで考え出して、またモヤモヤと同じところを思考がぐるぐるする。


わたしは「恋愛」ってものが、未だによくわからないのだと気づいた。
一度結婚して、子どもまでいるのに。

自分で言うのもなんだけれど、わたしは愛の深い人間だ。
大人になってからは、愛を注ぐ対象を厳選するようになったけれど、それでもわたしにとって愛を注ぐ対象は家族や子どもだけではない。自分にとって身内枠に入った友達も、わたしは家族と同等にみなして深い愛を注ぐ。

「愛」の定義って人それぞれだと思うし、人生の中で流動的に変化していくものだと思うけれど。今現時点でのわたしにとっての「愛」とは、「自分の損得に関係なく、相手のしあわせのためになにかをしたいと思う強い気持ち」を指す。

この「愛」を、わたしは家族や子ども、身内枠に入っている親友たちに対して、男女問わず、結婚の有無を問わず、同じ熱量で降り注がせる。自然と対話を繰り返すし、連絡をとらない期間が半年や1年続いたとしても、「久しぶり。ごめん、ちょっと相談乗ってほしい」と言われたら、子どもを寝かしつけて深夜まで電話する。会える距離なら、会いにいく。見返りを求めているわけではない。ただ、身体が勝手に動く。自然とそうしたいと思う。そういうわたしのスタンスは、昔から変わらない。


でも、彼氏となると、なんだか話が変わってくるのだ。
彼氏とか、いわゆる "恋愛" になると、わたしは今まで周囲に降り注がせてきた愛の穴埋めを求めるかのように、相手に期待をし、見返りを求めて行動し始めてしまう。

「愛」とは、今現在の自分にとっては「自分の損得に関係なく、相手のしあわせのためになにかをしたいと思う強い気持ち」と先ほど書いたけれど。わたしはこれを親友や子どもから見返りとして期待しない。それは、そもそも、わたしと似たようなスタンスの人間だけがわたしの身内枠に昇格するため、期待しなくても相手が当たり前にそれを与えてくれているから満たされているというだけの話なのかもしれない。

でも、とりあえず、わたしは身内枠に入った親友や子どもに対して、わたしと同量の熱量を求めない。


…いや。書きながら気づいた。やっぱり、求めているところはあるかもしれない。うん。そうだな。わたしと同じスタンスや熱量を返してくれる人たちが、気づくと自然とわたしにとっての身内枠に入っていくし、その関係性が時の流れの中で淘汰されることなく残ったときに、わたしはその人たちを "心友" と呼んでいるのかも。ということは、やっぱり、求めているんだ。そして、求める前に既にその欲求を満たしてくれる人たちが、わたしにとっては "心友" なんだ。


今までの人生の中で、一時期だけ身内枠や "心友" に入っていたけれど、時の流れに淘汰され、互いに連絡をとらなくなった友人はたくさんいる。それは、別に自然なことなのだと思う。人は成長していくし、変化していく。その時々で、出会うべき必然の人に出会うし、本当にご縁がある人とは、なんだかんだで結局ずっと縁は続いていく。

そうやって縁が遠のいてしまうことをさみしいと思っていた時期もあった。でも、その時々でその人たちがわたしの人生において大切な位置付けにいて、わたしという人間を支え、気づきや学びを与えてくれたこと、共に過ごした時間や思い出は、どれだけ時が経っても消えないのだということ。もう連絡をとらなくなっていたり、もう友達ではなくなったとしても、その人たちの存在がわたしという一部を構成していることは、変わらないのだということに気づき始めてからは、さみしいと思うことも無くなった。


でも、"恋愛対象" となると、話が変わってくる。同量の愛を求めているだけではない。その強い「愛」の関係性がいつまでも続くことを強く望み、それにしがみついてしようとしてしまうのだ。時の流れの中で淘汰される可能性を、"恋愛対象" に対しては拒んでしまう自分がいる。それはつまり、依存であり、固執であり、執着なんだと思う。

なんでなんだろう。

わたしには男友達も多い。わたしの "心友" の半分は、男友達で構成されている。でも、その人たちに対して、わたしは固執をしない。固執や執着する必要性、つまり、いなくなってしまうかもしれない可能性に対する不安を感じないからだろうか?

ということは、今のパートナーを含む今までの "恋愛対象" たちは、わたしを不安にさせていたのだろうか?わたしにとっての「愛」のスタンスと違っていて、だから噛み合わなくなっていって、でも付き合っているから「好き」だから、離れることができなくっていって、固執や執着や依存になっていき、どんどん自分らしさが消えていって、相手の顔色を伺って言葉を選ぶようになってしまうのだろうか?

それも一理。

あと、今思いつた理由は、"心友" と "恋愛対象" にわたしが求める「一緒にいる時間」と「連絡をとらない時間」の差だ。いくら身内枠や "心友" だからといって、毎日四六時中連絡をとり続けたり、会い続けることはほぼない。それだけの熱量と頻度で会い続けていたのは、高校生くらいまでだ。それをきっと人は「青春」と呼ぶ。でも、大人になったら、毎日会ったりするのはハウスシェアとかしてない限り不可能だし、毎日連絡をとり続ける必要性もない。男女問わず、一時的に毎日「カレカノかよ!」ってくらい連絡とりあうこともあるけれど。

その距離感に不安を感じないのは、それをそもそも求めていないからだろうか。自分の人生があるし、自分の仕事があるし、自分の家庭や日常がある。お互いにそうだ。だから、別に、気にならない。連絡の頻度や会う回数で、わたしたちの友情の深さやその真意を疑ったりはしない。

結婚していた当時、元旦那の嫉妬や疑いがすごくて、身内枠の男友達全員をブロックせざるを得なくなったことがあった。理由も説明もなしに、急に2年間、ブロックしたのだ。離婚後、ブロックを解除して、彼らに連絡をとった。わたしが釈明と謝罪をしようとする前に「いや、大体察してたから大丈夫だよ。つむがどういう人間か分かってるから」と言ってくれた。彼らは青春時代を共にしてきていたから、わたしという人間を本当に深く理解してくれている。だからこそ、今も、そしておそらくこれから先も彼らはずっと "心友" でい続けるだろうなって、確信に近い想いを抱いているのだ。

同じことをわたしがされたとしても、同じ反応をすると思う。それだけの信頼と理解が、15年という歳月によって、わたしたちの間には構築されている。


でも。彼氏に対しては、「もっと」を求める。
叶うことならば、毎日会いたい。もはや、一心同体くらいにずっと一緒にいたい。(ひとりの時間も欲しいけれど)それが現実的に無理だとしても、同量の「愛」を毎日LINEや電話なりの手段を使って、降り注がせて安心させ続けてほしい。

「その安心感を毎日与え続けてくれる人=彼氏=恋愛対象」っていうのが、自分の中に学生時代から今までずっと、なんかあったんだなあ。今、はじめて認識しました。

それはなぜなのか、と問うてみると。
「その "特別感" がなかったら、男友達("心友"たち)と変わらないじゃんって思ってしまうから。だったら付き合う必要ってあるの?って思っちゃう。"心友" なのであれば、彼氏である必要はない。」と答えが返ってきた。

ん?笑


そうだった。思い出した。

学生時代、わたしは「好き」の違いというか、境界線がわからなかった。
友達に対する「好き」と、彼氏に対する「好き」ってなにが違うの?と友達にいつも聞いていた。「キスできるかどうか」と高校生のときは友達に返事されたけれど。別に女友達にだって、しようと思えばキスくらいできる。「じゃあ、肉体関係を持てるかどうか」と言われても。「好き」じゃなくても肉体関係をもつ、割り切った関係性だって存在するわけで。

「じゃあ、一緒にいたらドキドキしたり、キュンってなることじゃない?」と言われて、わたしはなんとなく納得したのだ。その対象が、ひとりとは限らないというトラップが存在していたけれども。だから、わたしは今でも無意識に「彼氏は、わたしをドキドキ、キュンキュンさせ続けてくれる人」じゃないといけないと思い続けていたのかもしれない。だったら、「わたしと同量の愛を毎日降り注ぎ続けてくれて、安心させ続けてくれること」を "恋愛対象" に求めることも、なんか理解できるぞ。なるほど。そういうことだったのか。

10代の頃、わたしの恋愛スタンスがそんな感じだったから、わたしも周りも、わたしの恋愛観を「不思議」「なんか普通じゃない」と漠然と捉えてはいた。ポリアモリーという言葉を知ったのは、大学卒業間際だった。でも、当時、自分がポリアモリーなのかどうか、ハッキリとはわからなかった。なぜなら、複数の男性にドキドキしたりキュンってすることはあっても、付き合う対象はひとりだったし、相手が別の人と出かけたりしたら嫉妬心は芽生えていたからだ。ポリアモリーは、嫉妬心がないものだと思っていた。だから、わたしはただ自己中な恋愛依存なだけなのかもしれない、生粋のポリアモリーではないのかもしれない、と。

そんな葛藤を抱えていたことすら、今日この記事を書くまで忘れていた。書くって、本当にすごいな。

わたしと話をする女友達は、ほとんど皆、わたしの感覚を理解できないと言うので、やっぱりわたしの感覚は今でも少し、みんなの「普通」とはズレているのかもしれない。でも、歳を重ねる中でわたしの「愛」の定義も変化し、「大切な人を大切にする方法」も変化していった。だから、今は、自分がポリかどうかは、どっちゃでもいいと思っている。なにより、今のパートナーと、この点において(完全にかどうかはわからないけれど)分かり合えているし、共通理解をえられている。今のわたしにとって、それで十分。


30代になり、子どもも産んで、離婚も経験した今。わたしが "恋愛対象" に求めるものは変化してきている。というか、今まさに、その変化の途中にいるんだろうな。だから、こうやって恋愛やパートナーシップについて、悶々と悩み続けているんだろう。悩むということは、考えているということだ。思索し続けているということだ。

"今" と "これから" のわたしにとって、"男友達" と "パートナー" の違いはなんなのだろうか、パートナーに対して感じる「好き」や「愛」は、それ以外に対して感じる「好き」や「愛」となにが違うのだろうか、なぜ "彼がいい" と思うのか、と。

守るべき子どもがいるわたしにとって、支え守っていくべき家族と子どもが一番大切だ。そして、もともと結婚願望が薄かったタイプな上、前の結婚生活が散々で、離婚手続きも本当に大変だったので、結婚に対する熱量みたいなものが今のわたしにはない。子どもも既にひとりいるから、「子どもが欲しいから、何歳までに結婚したい!」みたいなデッドラインもない。

そんなわたしにとって、恋愛はわたしの人生における+αの要素でしかない。とはいえ、重要な要素なんだけれども。

「この人がいなくなったとしても、わたしの生活は変わらないけれど。それでも、この人とずっと一緒に居続けられたら嬉しいな」と思う、わたしにとっての "特別" の理由、想い。それを、ゆっくり時間をかけて、今、自分の中で見つけていこうとしているのかもしれない。

「つむちゃんは、彼氏に対してきっと "恋" を求めているんだね。でも彼はもう "愛" なんだろうね。つむちゃんの "恋" が冷めて、それが "愛" になって、そうして改めてお互いに "恋" に落ちられるといいね」

わたしが大人になってから出会った "心友" が少し前、わたしの話を聞いてくれた後、こんな言葉を送ってくれた。なぜか、彼女のその言葉が深くこころに響いていた。とても大切なヒントをもらった気がしていた。

その理由が、この記事を書くなかで、なんとなく見えてきたように思う。書くって本当にすごいことだ。少なくとも、わたしにとっては。

きっと、こうやって書き続けること、悩んだり考えたり、考えることを放棄してみたり、ちょっと距離をとってみたり、時間をとって話し合ってみたり、自分自身と向き合っていったり。

そんな試行錯誤を繰り返しながら、時間が、きっとこの関係性と問いに対して、答えを出してくれるのだろう。今日は、ほんの少し、その答えに近づけた気がしたよ。





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