うつの回復期こそ、継続が大切っていう話
10月のはじめの方に、「9月を振り返り返りながら、10月を決めてみる」という記事を書いていた。
その中で、10月に継続してやりたいことと、追加してやりたいことを以下のように書き出していた。
まだ10月は終わっていないので、改めて11月になってからこの1ヶ月の振り返りと11月をどういう風に過ごしていきたいかは記事にしようと思っているんだけれど。
現状、
・モーニングノート
・毎日note
・この数年で経験したことを発信したい想い(起業とか?)に向き合ってみる
この3つ以外は、「やりたくないな」とか、「気分が乗らないな」と思って、やらない日も少しずつ増えてきている。
それってどうしてだろう?って考えていて。
シンプルに、一番つらかった時期を少しずつ抜けてきているからかもしれない。
一番つらかった時期っていうのは、ガクッと下がる鬱状態やフラッシュバックやパニック発作が週の中で連発していたから、そのときに比べるとマシにはなっていると感じているのかな?
そのほんの些細な、カタツムリのようなゆっくりとした歩みは、noteに8月くらいからしたため続けた内容の変化からも、なんとなく見てとれる。
でも、カレンダーを見てみると、普通にまだまだ週に少なくても1回くらいはガクッと鬱状態(もしくはそこに限りなく近い状態)に陥ってはいる。(わたしはカレンダーアプリに毎日の自分の精神状態を4段階で記録している)
だから、完全に回復したっていうわけでも、つらい時期を抜けきって、抱えていた問題や課題が解決したっていうわけではなさそうだ。
じゃあ、なにが変わったのか?
子育てに対する葛藤や、今の自分の家族との距離感や対処法についても、いい意味での諦めというか「なるようにしかならないよね」という感覚が出てきたこと。
パートナーシップが劇的に好転していること。
そして、自分自身の今までの事業について、新しい方法を模索したり、未来のことを考えて少しずつ動きはじめることができていること。
そういったことの積み重ねが、いい意味でわたしのつらさやしんどさを少し軽減してくれているのかもしれない。
でも、それは本当に「回復した」「トンネルを抜けた」と言ってしまって良いんだろうか?
そう言ってしまいたい自分が確かにいるんだけれど、こころの中のもう一人の自分が「ちょっと待って」と小さな声でささやいているのも感じる。
改善してきている、マシになってきている、と感じる理由の大きな部分は「この状態(メンタル、環境、etc.)に慣れてきた」こともあると思う。
人は、良い意味でも悪い意味でも、環境の変化に慣れ、適応していく生き物だ。
渦中だった8月から9月にかけては、変化の連続、決断の連続だった。そして、その変化や決断が、正しいことなのか、それが本当に解決策となりえるのか、まったく分からない暗中模索の状態でつき進んでいた。
でも、そこから1〜2ヶ月が経ち、この選択や環境、状態に、わたしを含めて家族や周囲の人も、慣れてきたんだと思う。
だから、「大丈夫だ」って感じるようになっているだけなのかもしれない。
そう、思いたいのかもしれない。
もういい加減、走り出したいと思っている自分がいるのかもしれない(そういうところが、ほんとHSSだよなって思う)
「でも」
と、こころの中で小さな警鐘が鳴っている。
「現状に『慣れた』ことは、『治った』『解決した』とイコールではないよ」と、こころの中の声が、小さくつぶやく。
少し前、わたしの心友 of 心友に会ってきた。
(少し前といっても、2週間前、か)
そのとき、わたしのカレンダーを見せて、彼女にわたしのメンタル状態を見てもらった。
そのとき、彼女に言われた言葉。
「まだ、全然だよ。
確かに最悪なときよりは良くなってる日も多い。でも、それはあくまでも『最悪な状態(=鬱状態)』じゃないだけであって、『良い状態』ではないよね?
わたしはつむの親友として、せめて少なくても月の半分くらい、2週間〜3週間くらいは『良い状態』が恒常化するときまでは、今の環境や状態は変えないでほしいと思う。
本当だったら、1ヶ月くらいは『良い状態』が普通に続いていて、たまに生理とかで『あまり良くない』状態があったとしても、『最悪な状態』はほとんどないってくらいまでなってもらってからじゃないと、『ああ、もう大丈夫だな。乗り越えたんだな』って安心はできないよ」
わたしのこころの中で小さく「ちょっと待って」とささやく声も、きっと、同じことをわたしに伝えようとしているのだと思う。
抗鬱剤を飲んでいる患者さんが、回復期に入ってきたときに「もう治った」と思って、勝手に服薬をやめて、結局症状がさらに悪化して、今度はマイナスからのスタートになるっていうのは、よく聞く話だ。
わたしは抗鬱剤とかは処方されていないし、飲んでいないけれど。
「うつやPTSDから抜け出すためにやっていること」の記事の中で書いていたことたちが、いわばわたしにとっては抗鬱剤のような役割を果たしていた。
こういった行為を、最近のわたしはサボりがちだ。
「もう大丈夫でしょ」と思ってしまっているところがある。
でも。
この記事を書いていて改めて感じたけれど。
ここが肝心要の大事なふんばりどころなのかもしれないな。
少し回復してきたように思うときでも、ちゃんとコツコツと、一見地味で無意味に思える小さな行動たちを実践しつづけていけるかどうか。
結局、こういった小さな行動たちが日常の中に当たり前に組み込まれている状態の自分になっていかなければ、きっと、またわたしは気づかないうちに疲れやストレスを溜め込んで、またガクッと落ちてしまってっていうことを際限なく繰り返す。
実際、今までの数年間も、そうだったんじゃないの?
死ぬほど苦しいときは、必死になれる。
どんなことでもやろうと、藁にもすがる想いで真剣に実践していく。
でも、そうじゃないときの方が、きっと大切で。
普通の状態のときにも、どれだけ自分のこころのコップを満たしていく小さな習慣や行動をコツコツと、地道に、実践しつづけていくことができるかどうか。
そこがきっと、トンネルの向こう側で生きていくために、大切なことなんだよな。
ちゃんと、やろう。
コツコツと、少しずつ。
サポートしていただいた方のことは忘れません