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明日が最後の日だとしたら、どんな自分でありたいと望むのか

「自分が最後の日を迎えるとき、どんな自分になっていたいか」

最後の日は、不平等なこの世界において唯一平等に訪れるもの。
それが数十年後なのか、数日後なのか、数分後なのかさえ、実質わからない。

その瞬間が来たとき、そのときが訪れるまでに、わたしはどんな自分になっていたいだろうか。


わたしの子どもが、自分は強く深くママから愛されていたのだと確信していて、そして笑顔でのびやかに生きていけるようになっていたら。わたしはそれ以上、特になにも望まないのかもしれない。

結局のところ、すべてがそこに帰結する。
娘が、どれだけ愛されているのかを知っていてくれれば。
そして、あわよくば、涙を流す日や悲しみに打ちひしがれる日があったとしても、その苦しみや痛みを乗り越えて、また笑えるようなしなやかな強さを手にした女性になってくれれば。

それ以上、望むことはない。


わたしは、今の自分が好きだ。

うつになっていても、経済的に苦しくても、いろんな状況的に「完璧」とか「最高」とは程遠いかもしれなくても。

それでも、自分を含めた自分の大切な人たちから逃げることをせず、ちゃんと感情と理論のどちらも尊重しつつ、それを適宜ちゃんと分けて、最善に向けて動こうとしている自分。

この先になにがあるのか分からない。真っ暗闇の中の底なし沼に片足突っ込んでいる現状だけれど。このままその沼に両足突っ込んでズブズブ沈んでいく未来ではなくて。光に満ちあふれた森の中を、木漏れ日や鳥のさえずりを愛ながら歩いていく自分を想像できている自分。そのために、今こうして意味あってこの底なしの真っ黒な沼に片足突っ込ませていただいているんだ、と考えられている自分。

そんな自分のことを、わたしは、肯定するし、強く美しいと思うし、誇らしく思う。まわりがどう思おうとも関係ない。まわりの目にどう映っていようがどうでもいい。さっきまで鼻水たらして嗚咽してたことも、泣きすぎて目が腫れてヒリヒリしてることだって、どうでもいい。瑣末なことだ。そんなの、表面のことにすぎない。

少なくても、わたしは、泣きじゃくって腫れぼったい目をしていることも含めて、丸っと丸ごと、今のわたしが心底好きだ。


だから。
もし、明日がわたしの最後の日だったとしても。
わたしは、わたし自身に対しての後悔はない。
ただただ、娘が、どれだけ愛されていたのか、大切にされていたのかを、その小さな胸にちゃんと刻んで生きていってくれるのなら。それで十分。


結局のところ、最終的にたどり着く答えはいつもシンプル。
お金も、仕事も、生活も、環境も。
全部、付加価値でしかなくて。

本当に大切なことは、本当に大切に思っていることは、言葉になんかならない。数字や大きさでなんか表せない。そんなものじゃない。


生きてることに理由があるとするならば。
わたしは、わたしのために。そして、わたしの子どものために。愛を注ぐ。
その愛が、いつの日かふたりからあふれ出して、まわりの人にまで降り注いでいくようになれば、それもそれで素敵だな。

でも、それも、あくまでも付属して起こった現象。
そこを最初から追い求めようとは思わない。


いいんじゃない?

子どもなんて欲しくない。
子どもなんて産みたくない。

そんな風に思ってたわたしが、
ここまでひとつの命を大切に、
愛おしく、愛せるようになったよ。

それだけで、もう、最高じゃないか。

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