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■信長公忌に巡る旅④―建勲神社で京を眺める

さて、今年の6月2日、いわゆる「信長公忌」に京を旅してきました。天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変により、炎のなかに消えた信長公に思いを馳せ、公にまつわる場所を歩きたかったのです。

この日は朝からあちこち歩き回り、本能寺→今宮神社→大徳寺と廻ったのち、私は建勲神社に参拝しました。今回はそのときのお話です。

これまでのお話は、記事の最後にリンクが張ってありますので、よろしければご覧になってみてください。


■建勲神社について

「建勲神社」さん、私たちは「けんくんじんじゃ」と呼んでしまいますが、正式には「たけいさおじんじゃ」というお名前です。

御祭神はもちろん「織田信長公」。明治2年(1869)に明治天皇の神社創立の宣下があり、船岡山に社地を賜りました。

現代からすると驚いてしまう話なのですが。

江戸幕府を開いた徳川家康公は、江戸時代を通じて「権現さま」と神格化されていました。一方、現代からすれば「苛烈」と形容できるほど一気呵成に時代を駆け抜けた織田信長公は、江戸時代にはその存在を忘れ去られていたのです。

その理由は、一説には、信長公は家康公と「清須同盟」を結んでいたことがあるとか。この「清須同盟」は、実質はどうあれ、名目上は信長公と家康公は同等の立場で結ばれたものです。

だからこそ、江戸幕府としては、神格化された家康公と同等の存在のあることを公に認めることはできませんでした。それを認めてしまえば、家康公の権威が絶対的なものから相対的なものになってしまいます。それでは、統治をするにあたり、何らかの差し障りの出る可能性がある。

そのため、信長公について、その存在を不問に付したまま、260年という時間が流れたとも言われているのです。

しかし、明治時代に入り、「江戸時代」をまとうありとあらゆる空気を払拭したかった明治政府は、逆に、江戸幕府を開いた家康公と同等の存在である信長公に目を付けるのです。

そうして、信長公の偉業をたたえ、神として祀ることで新たな視点―江戸幕府のあった頃とは異なる眼差し―を社会に提示しようと。その一環として建立されたのが「建勲神社」でした。

■なぜ山頂に…(ノд-。)クスン

現在の建勲神社は、船岡山の山頂にあります。明治13年(1880)に社殿が造営されたときには山麓にありましたが、明治43年(1910)には山上の現在地に移されたそうです。

…おかげさまで、現在建勲神社にお参りしようとすると、最後の最後でものっそい階段上り運動を行う羽目に陥ります。

この日の参拝は、今年2回目でした。実は、ワタクシ、4月に京都旅をしたときにも、この建勲神社にお参りしていたのです。

その後、4月にうちのとの(名古屋おもてなし武将隊 織田信長さま)とお話したときに、「少し回り道にはなるが、あの急な階段を上らないでも行ける道があるぞ」と教えていただきました。それを伺った私は「んじゃ、今度行くときはそこから行きます!」と勇んで宣言したのです。

駄菓子菓子。

そこは迷子癖を標準装備しているワタクシ。この日は、大徳寺から建勲神社までつらつらと歩いて行ったのです。が、とののおっしゃるその回り道を見つけることはできず( ノД`)シクシク… 

結果、相変わらず容赦のない階段運動を這這の体で実践したのでした。

■船岡山から望む景色は

とはいえ、山頂ですから眺めがとても良いです。境内に入る手前のところからは比叡山も見えます。

この遥かな眺めは、ここまで上ってきたしんどさを一瞬忘れさせてくれます。

また、この船岡山は、「信長公忌に巡る旅②」でお話した、一条天皇が疫神を奉安した場所でもあります。道兼どんたちの命を奪ったあの頃のお話ですから、この眺めは平安時代の人たちも見たものでもあるのです。

そう考えると、ことばにならないナニカが胸の奥から込みあげてきます。

この日は信長公忌でしたが、建勲神社にはさほど人もいらっしゃらず。この景色を心ゆくまで、のんびりと楽しむことができました。

風に吹かれながら、階段を上るうちに心にあるさまざまな澱みも流れ、ちょっと「無」に近い状態にもなりつつ。大きな景色に背筋を伸ばして。息をひとつ大きくついて。本殿へ、信長公にご挨拶をしに、参る心を整えたのでした。

■そして、本殿へ

■人間五十年

景色を堪能したのち、うしろの小さな階段を上るとすぐに、「敦盛」の歌碑があります。

人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢まぼろしの如くなり
ひとたび生を得て
滅せぬ者のあるべきか

桶狭間の戦いに出陣する前に舞ったと言われています。私はこの歌について、ずっと「自分の好きな歌を歌いながら踊ることで、テンションをあげていたのかな」と思っていたのですが。

桶狭間の戦いって、信長公にとっては、いくら勝算があろうとも、ものっそい無謀な戦いであることには変わらず。しかも、信長公は自らも戦場に突っ込んでいくスタイルでしたから、もしかすると、これで命運のみならず、命さえも終わってしまうかもしれないと。

そして、そのことを自分の腑に落とすために、出陣前に舞ったのかもしれないと。このとき、そんなことを思っていました。

■拝殿とは

そのまま少し行くと、すぐに拝殿があります。

拝殿って何だろう? と思っていましたが、調べてみると、字面そのままに「拝むために、本殿の前に建てた建物」でした。

本殿は神様のいらっしゃる場所ですから、一般の方は立ち入り禁止です。そのため、本殿の前にある拝殿で参拝します。拝殿では祭事を行うこともあり、本殿よりも大きくつくられるとか。

また、建勲神社の拝殿には、内側に信長公の家臣の方々の絵が祀られています。著名な方の絵がどどんっと12枚。なかなか壮観です。

私は織田信長さまの家臣を長いことしていますので、織田木瓜を見るだけで、少なからず高揚してきます。で、高揚しすぎて、拝殿の外観全体を写真に収めることを忘れてきたあんぽんたん……今カメラロールを見て、「あ、ない💦」ってなっていたのでした(ノд-。)クスン

■本殿にて

拝殿の周りをぐるぐるした後(…不審者?)、いよいよ本殿へGOです。

御祭神である織田信長公が祀られている場所です。

ここのしんとした感じ、自然の音以外聞こえなくなり、身体のなかに涼やかに風が通りぬけるような感じがものすごく心地よくて。

もちろん、それはどの寺社に行っても感じるものではあるのですが、やはり「信長公が祀られている」という文字は気持ちのなかに、ひとつ熱く太い芯を通してきて。私のなかの「特別」がここにあるように感じるのです。

ここに来て、信長公の前で唱える言葉はいつも同じだったりします。そうして、その言葉を心のなかで明確に唱えることで、私自身のなかにもにょっているモノたちをとんとんっと整理しているような、そんな気持ちがするのです。

今回もきちんと唱えてきました。

その言葉が祈りなのか、願いなのか、決意表明なのか。実は、自分でもよく分かっていません。でも、この場所に来て、ちゃんと「信長公」に向かい誓うという儀式を踏むことが、いちばんたいせつなのだろうと……今はそんなことを思っています。


■帰り道に見つけた…はず…?―まとめにかえて

お参りをしたあと、御朱印をいただき、次の場所へ移動を始めました。

御朱印、不意に「薬研藤四郎」のものをいただきたくなったのはココだけの話……いや、信長公と最期を共にした刀ですから、この日が「信長公忌」であることも手伝い、ふいに思いがふつふつと……えぇ、超我慢しましたけどね💦

というわけで、来た道を引き返そうとしたのですが。そのとき、ふとなだらかな道のあるのに気づいたのです。

「もしかして、これがとのの行ってた『急な階段のぼりをしなくてもよい道』…??」と思い、そのまま進むとほんとうになだらかで、最初の険しさは何だったの? という気持ちに。

のちに、我が殿に伺ったところ、とののおっしゃった入口はまた別のところにあったようですが、道自体は合っていたようで。今度こそ、とののおっしゃる道の完全版を行くのだと心にカタク近い、次の場所へ向かうのでした。

・ ・ ・

信長公忌に巡る旅、次回の記事が終着点です。

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