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■信長公忌に巡る旅③―大徳寺総見院

6月2日は本能寺の変が起きた日であり、信長公忌にあたります。今年は思い立ったら吉日的に、当日に京都へ参りました。信長公にまつわる場所を巡ろうと思ったのです。

まず初めに、6月2日だし♬と思い、「本能寺」へ参りました。

この日限定の御朱印をいただいたり、信長公の墓所に参拝したりしました。

またこの日、本能寺では、さまざまなイベントが予定されていました。ですが、それには参加せず、私が次に伺ったのは、我が推しさまに教えていただいた「今宮神社」でした。

推しさまおすすめの「阿ぶり餅」を食べ、神社でも静かな時間を過ごし、大変にご満悦。そうして、そこから歩いて行ける「大徳寺」へと向かったのです。

「信長公忌に巡る旅」3回目の今回は、この「大徳寺」のお話です。


■大徳寺について

そもそも「大徳寺」へ行こうと思ったのも、推しさまである織田信長さまの言葉がきっかけでした。

今年四月に建勲神社へ参ったとき、名古屋に帰ってきてから、推しさまにその報告をしました。すると、推しさまが「大徳寺は行ったのか?」とお尋ねになったのです。それに対して、私は「今回は体力がなくて断念したですよ(ノд-。)クスン」とお答えしました。

体力の問題で仕方なかったとはいえ、私はずっとそのことがアタマの片隅に引っ掛かっていました。ここで「行きましたとも!」って言いたかったなぁって。

そこで、今回はせっかく「信長公忌に京都へ行くのだし♬」と大徳寺への参拝を決めたのでした。

・ ・ ・

そんな大徳寺

鎌倉末期、宗峰妙超(大燈国師)が紫草の繁る洛北の野原に大徳という小庵を開創した。厳しい宗風をもった宗峰の学徳は次第に世に知られ、この小庵は、花園・後醍醐両天皇の帰依をうけ勅願所となり、嘉暦元年(1326)の法堂完成と同時に現在の龍宝山大徳寺と命名された。

リーフレットより引用

という沿革を持つお寺です。長い歴史を持ち、この後もなかなか波乱万丈です。

室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。
桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提をとむらうために総見院を建立併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。

大徳寺HPより引用/太字は引用者

そうなんです。ここで織田信長公が出てくるのです。そりゃ、信長さまも「行ったか?」とお尋ねになるというもの(笑)今回こそ「行きましたよぉ!」と胸を張ってご報告するのだ! と、ワタクシったら、超張り切って歩いたのでした。

■総見院―信長公廟所

もともと信長公は、阿弥陀寺に埋葬されていました。親交のあった清玉上人が明智光秀急襲の報を受けて、焼け落ちつつある本能寺から信長公の亡骸を連れ出し、埋葬したとの逸話が残っています。また、実際、阿弥陀寺には信長公のお墓があります。

ですが、その後。

信長公の後継者として名乗りを上げた豊臣秀吉公が、信長公の一周忌に、大徳寺の境内へ寺を建立しました。寺の名も、信長公の戒名である「揔見院殿贈大相國一品泰巖大居士」から採り、「揔見院」と号して、盛大に法事を執り行ったのです。

現在、総見院には織田信長公の木造坐像が安置されています。また、信長公の御一族の墓所もあります。

駄菓子菓子。

私が馳せ参じた日、総見院の春の拝観期間は終わっており( ノД`)シクシク… せっかく来たもののなかに入ることはできなかったのです。仕方ないので、扉の外から、そっと手を合わせたのでした。

おかげで、後日。信長さまに「大徳寺も行ってきました♪」とご報告したら、「総見院、開いとったのか?」と訊かれ、「しまってたから、扉の外から『やっほぉ♬』ってしてきたです」と答える羽目に(´Д⊂グスン

今年も、秋の拝観期間が設けられていますし、そのときには信長公の坐像と対面して、今度こそ満を持して「大徳寺に行ってきました!」と胸を張って報告したいと思ってます。

■お釈迦様に呼ばれた

さて、総見院の前で手を合わせたのち、順路を逆に行く形で、総門へ向かいました。その間にも、さまざまに建物が建っており、あっちへふらふら、こっちへふらふらしながら、歩いていたのです。

そのとき、ふと気になる建物がありました。

大徳寺の仏殿です。

仏殿の創建当初の建物は応仁の乱で焼失したそうです。ですが、一休和尚によって復興されました。その後、もろもろとあり、現在の建物は、寛文5年(1665)に、京の豪商である那波常有の寄進によって建造されたものだとのこと。国の重要文化財に指定されています。

始めは、拝観ツアーに申し込まないと、中は見られないのかと思ったのです。でも、諦めきれずに周りをうろうろしていると、フツーに手を合わせにきた方がいらっしゃって。「あ、大丈夫だ」と。

そうして、そのまま階段をあがり、柵越しに中を見ると釈迦如来像がいらっしゃいました。

このとき、ふしぎと泣きたいような気持ちになったのです。

すっごい泣きたくて。実は、ほぼ泣きかけていて。そのまま、私は頭を垂れました。そうして、お釈迦様の存在をそっと感じながら、時を過ごすうちに、言葉にならないナニカがぶわっと胸の奥から湧いてきたのです。そして、ふと顔を上げ、手を合わせました。

以前、違うお寺でもこういう状態になったことがあります。そのとき、それをお寺の方に伝えたら「仏さんが降りてきはったんやねぇ…」と言われました。だからきっと、このときも、お釈迦様が降りてきてくださったのだろうと……

私自身、ちょうどごりごりとメンタルが削れているときでした。何かの誰かの所為というのではなく、どうしようもない状況がしんどくて、何もできない自分が無力で。毎日毎日ちょっとずつ削られていたんです。

でも、このとき。お釈迦様の前に佇んで、静かに手を合わせる時間を持つことで、気持ちのどこかが軽くなるのを感じました。

もちろん、気の所為でしょう。でも、その「気の所為」が超大切なんじゃないかなと最近は思っています。それが人の心のどこかを救い上げてくれるなら、それでいいんじゃないかなと……そんなことを思うのです。

この瞬間があっただけでも、大徳寺へ足を運んでよかったなと思えたでした。

こちらは仏殿前に植わっているイブキです。こちらは仏殿再建のときに植えられたものだとのこと。ずっとこうして、ここに佇んでいたのだなと思うと、慕わしさと共に、尊いなぁと無条件に感じます。


■まとめ

信長公忌に巡る旅、3か所めは「大徳寺」でした。この日は、廟所である総見院が閉まっていたこともあり、人少なでした。ツアーでいらっしゃった方くらい。

おかげで、のんびりと「ザッツ・お寺」な空気を全身に浴びることができたました。こういう時間が持てたのも、推しさまがこちらのことを教えてくださったからこそ。ありがたいことだなぁと思いつつ。

今度は絶対に、総見院に入って坐像にご挨拶するぞと心に決めながら。信長公忌に、京都で信長公を巡る旅はまだまだ続きます。


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