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「悟り」「人という現象」に対する過大評価

「悟り」「人という現象」に対する過大評価について思ったことを書きます。

過大評価の類語を検索すると誇大妄想と書いてありました。
評価の過小・過大に関係なく、仏教ではこの世の全ては虚妄としていることを思いました。

「人という現象」において、日常の範囲で愛・幸せ・平和・精神的進化向上・栄枯盛衰の栄・盛だけを求める、このように自分にとって心地の良いコトモノを求めることは普通です。
私も、月は綺麗だと思います。健康でいたいと思います。金銭的に余裕だって欲しいです。願い事もあります。精神的に平穏でありたいです。
基本的に人は、心地よい価値観を善として求めます。

「悟り」を「善」として求めるべきこと、人の進化として求めるべきこととすると過大評価・誇大妄想となります。

補足:「悟り」に対してのあらゆる態度は平等で、本質的に優劣はありません。私は、「悟り」を「善」とすることは、過大評価・誇大妄想として思考します。
「悟り」など存在しないという思考、悟りは人にとって最善とする思考、「悟り」に全く関心が無い状態の人、「悟り」に関する思考の場で、相依相関して存在します。
自分の立ち位置とは違う思考が、考え抜かれたものであるほど、自分の立ち位置の思考が明確になります。


私は、「悟り」について考えるとき、冷徹な態度が求められると思います。
善悪ではなく、「悟り」が、ただ物理的に何なのか?という事実だけで考えることが大切だと思います。

「人という現象」(人間)が感じることは、どんなに素晴らしいことであっても生成消滅する現象で、「縁起の法・万物の理論」に従って展開し顕われるものにすぎません。
「悟り」を善とすること、「悟り」を有り難いと感じること、「悟り」を神秘的で素晴らしいものとすること、逆に「悟り」を否定すること、これらの現象も「縁起の法・万物の理論」に従って展開し顕われるものにすぎません。

神人合一、梵我一如、これらの概念は、“人間”が超越的なものと結びつく・一体である・同一である、という印象を与えます。
神・梵・仏・一者・真我・如来・法身・永遠の命、これらの概念は、究極の人型を思わせます。
「人という現象」を保持したまま悟ることは、不可能です。
「人という現象」が持ちうる、愛・真心・尊厳、素晴らしい感情・思考・行動、素晴らしい身体状態などを保持したまま悟ることは不可能です。

物質は、絶対零度(-273.15℃)にまで冷却しようとしても振動します。
「人という現象」をどんなに修行で煩悩を滅却しようとしても、『人』を保持したままゼロには至りません。悟りの物理状態の模倣です。瞑想は悟りの物理状態の模倣です。
悟りの物理状態の模倣によって、『人』という物質の振動がゼロに至ります。
『人』自体を滅することでゼロに至ります。

「人という現象」が滅した物理状態が悟りです。

「人という現象」が滅し、ありのままの認識の正体を知ります。
第三の眼です。本来名づけるなら、第一の眼、または唯一の眼です。さらに遍在する眼です。
「人という現象」が滅し、そこに対峙する時空も滅すると、【唯一・遍在する】眼という状態になります。遍在する眼の一部分の『人』という錯覚から反転して、唯一の眼という状態を知ります。“唯一”と“遍在”は表裏一体の関係です。どちらも平等で優劣はありません。
色即是空・空即是色、逆にして2度書くのは、空と色が平等だからです。
本当は、色即是空空即是色を何個か、円の紙に円形で書くと良いのかも。

究極の唯一とは、無次元の点です。宇宙が始まる無のことです。
(人にとっての“始まる”です。この世は、全て存在するか、無に潜在するかです。)
無次元の点には、「眼」という物理的性質が備わっています。
「眼」とは、人間の眼球のことではありません。「現象を確かに有と認める」物理作用です。
この「眼」が無ければ、この世は、無と同等です。
この「眼」が無ければ、人間は何も認識しません。認識・意識を持たないレベルのロボットと同じです。今まで通り生活し笑い泣いても認識は存在しません。眼に何か映し出されても何も見ていません。

「悟る」とは、この無次元の点の状態で、認識の正体を悟ることです。
【唯一・遍在する】眼そのものに成ることによって認識の正体を悟ります。

このことにより、物理的に何が突きつけられるのか?

⇒「全ては自分」(自他不二・三心平等)という物理構造を与えます。

同じ根っこから生えた兄弟ではなく、たった今、全部自分ということです。
誰かの前世、誰かの来世、ではなく“今”全部自分です。
時間、空間を超越する【唯一・遍在する】眼には、物理的に可能です。

「あ!私が全部の人に宿ってる!」ではなく×××××
人間的な何かが、宿るわけではありません。

【唯一・遍在する】眼が、全ての「人の現象」を確かに有と認識します。認識の質感を与えます。


「今だけ金だけ自分だけ」という価値観が色濃い時代です。
優しさ誠実さ思いやり共感力、これらが欠ける存在は、この世に必然で存在します。それが縁起縁滅の法です。善悪の善だけでこの世を構成することはできません。両極で存在を顕すことが、無限から有限を顕す方法です。

私にも卑怯な一面、思いやりがない一面があります。
「全ては自分」を了解していなければ、狂気じみた嫉妬でおかしくなっていたと思うような出来事もありました。嫌いな人もいます。
両極で存在を顕すので、遠ざけたい存在がいて、大切な存在もいます。

優しさや真心ではなく、「全ては自分」という物理構造から得られる損得で行動しても良いと思います。与えて損はないし、奪って得もありません。

ただ、難点は縁起縁滅の法の厳格さです。
善悪の両極があることが、存在を顕す条件です。
「人という現象」が発展するとき、「人という現象」を衰退させる働きも不可分に存在します。
恒久平和を実現した文明は、宇宙のどこにもありません。無理に平和に押し込めるともうそこには、理想の平和は存在しません。戦争が存在しなくても「人という現象」を衰退させる働きは、何らかの形で存在します。気づかないうちに戦争が仕掛けられていたりします。

縁起縁滅の法、万物の理論を知る宇宙のどこかの文明は、地球に何かして助けようとはしないでしょう。プラスのことだけをすることはできないからです。


それでも、「全ては自分」という概念が、数学的に真であるとする時代、「全ては自分」が常識になる時代、見てみたいです。

読んでくれた方、ありがとうございます。

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