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花びら餅&Guitar0117

年末、特に何も起こっていなくてもやって来て引き摺り込もうとしてくる底無し沼の気配をかき消すため、また、そこを越えた後のご褒美的位置付けとして、年始はいつも京都に宿をとり、のんびり過ごしてきた。
(働いていた間は、業務や特に向き合う相手、周囲への影響があるから、突然消えるわけにもいかなくてね。それを理由に何とか自分を維持できるように持ち上げてくれるあれこれを、特に危ない時期はマストで、そうでないところにも置けるだけ置いてバランスをとっていた。)

観光や近現代的商業エリアを別にすると、年始の京都の街が動き出すタイミングはずいぶんゆったりペースで、そこもなんとなくヨーロッパの不便さと似ていて好きだったし、何より私は自分の生まれ育った東京からは離れていたかった。一般的な人々が帰省し集まる時期であるからこそ。

初詣に行くことも観光をすることもない私は、店の閉まっている商店街にほくそ笑んだり、商業エリア以外のしんと静かな街並みを眺めつつ、その壁を隔てた先にはどんな場や暮らしがあるんだろうかと考えたりしながら、とにかく歩いていた。住宅地以外にも、哲学の道(今出川側)〜南禅寺経由の街中復帰(そのまま疏水記念館脇の川沿いを神宮道まで歩く、そこからはコロナ前は市バスに乗って四条等に戻っていたけどパンデミック中は街中というかさらに宿までひたすら徒歩)やきぬかけの道(金閣寺立命館龍安寺仁和寺前)等のお気に入りの散歩ルートがあって、だいたい哲学の道は南禅寺側、きぬかけの道は仁和寺前でぼんやり夕陽を眺めることにしていた。
あとのこの時期の定番はやっぱり花びら餅収集(?)と梅巡り(御苑、北野天満宮、梅小路公園)。花びら餅は東だと(特にお茶をしていない場合に)馴染みが薄いお菓子だと思うんだけれども、そうだからこそ私には憧れがあって、滞在中、食べられるだけ、色々なお店のものを買っていた。梅は御苑の南側に早咲きの木があって、その様子や滞在中の変化をちょくちょく確認しに行きつつ、他の梅スポットと比べてみるということをよくしていた。

もう来ないはずの年始だった。電車も山へ行く片道列車が最後になるはずだった。けれどもその日から物理的な異変が色々生じ、年を越さざるをえなくなってしまったあげく、2日にまた右耳が聞こえなくなり、もう何がなんだか状態で、とにかく、突如旅立つことになった。
京都なら、宿さえあれば、いくらでも過ごせるし、実は年始の京都は(初詣関連の場所以外)意外に外からの人流が少なく(初詣も市や府外からの人も大半は近府県からで泊まりは少ない印象)、観光目的でない滞在にはわりと穴場だったりする。お抹茶セットが置いてあるのが気に入ってちょくちょく使っているホテルに宿をとり、真っ暗な中、家を出た(リスクが特に高い首都圏をできるだけ人が少ない早い時間に抜けるため、京都へは始発で向かうことにしている)。

ノーマスクだらけの中の電車移動には本当に辟易としたけれど、いざ京都に降り立ったら、自然といつもの京都モードになった。粛々と、私の年始の京都を味わえばそれでいいという気分になり、そのままそれを遂行した。(やはり重度のアダルトチルドレンの宿命か、私はどこまでも、無意識のうち、即座に目の前の現実や環境に合わせていってしまうんだよな。だから帰宅後は無事にまた終わらせるための日々を刻んでいる。)

今回、三日ちょっとの滞在中に買った花びら餅は計11個。現地でも日に2、3個食べ、日持ちするものや帰宅前に買ったものは自宅で食べた。(花びら餅はお店ごとに期限に大きく差があって、ボリュームゾーンはだいたい3日なんだけど、長いものは5日、6日だったりする。今年は買わなかったけど阿月さん、今年買ったものだと三條若狭屋さんが長かった。)
去年あたり(戦争よりもさらに前)からかなり顕著に和菓子の値上がりが続いているんだけど(確か小豆の不作もあった気がする)、花びら餅も例に漏れず、一年前にもあれ?大きく上がったなと思ったお店が多くあったところから、今回さらにまた上がっていた印象がある。去年はあらら百の桁が変わりました?と思ったことがわりとあった気がするんだけど、今年は500台半ば以上が標準になっていた。お値段お高めのところだと、末富さんは去年と変わらずで756円、去年は次点で並んでいたとらやさんと老松さんは、老松さんが上がって700円台に突入し、とらやさんは据え置きの648円だった。この価格だと一般はなかなか手が出ないだろう。

千本玉寿軒。540円。ちょっと違う感があるけど六波羅蜜寺の香服茶と食べてしまった。
俵屋吉富。486円。
とらや。660円。
これは洛外の花びら餅。岐阜大垣の金蝶園総本家。やっぱり味噌の感じなど、京のものとは違う。290円。
塩芳軒。594円。
二条若狭屋。594円。
老松。702円。
末富。756円。荷物をデスクに置いてしまったのでお行儀が悪い。
長久堂。600円。長久堂は今ほとんど生菓子を出していないので貴重。
笹屋春信。432円。
三條若狭屋。540円。


花びら餅はとてもシンプルなお菓子なんだけど、餅生地、味噌餡、牛蒡にお店の個性が出るので食べ比べてみると面白い。京菓子資料館や高島屋の和菓子コーナーの販売員さん等、上洛中に(きちんとマスクをしている)和菓子好きな方と話していると、それぞれに好みやお気に入りがあるのも聞けて楽しい。
私はやっぱり末富さんかな。全然日持ちしないんだけど、柔らかな餅生地、味噌餡、牛蒡の優しいコンビネーションに流石だ、これならこのお値段にも納得だとなる。ちなみに末富さんはデパートだと3個入りからしか買えないんだけど、松原の本店に行けば1個でも買えて、それをきれいに包んでいただける。
本店近く(同じく松原通りの烏丸と交差しているところ、大通りの北西側)には去年AoQ(末富さんプロデュースの洋菓子やドリンク等を扱うショップ)のスタンドもできたので、そちらを一緒に覗いてみてもいいかも(伊勢丹に入っているAoQだとあん塩バターパンがいつも売り切れているんだけど、路面店はアクセス的なこともあるのか、混雑していたことはこれまで見た中で一度も無い)。ただ、AoQは硬派な和菓子好きターゲットではなく、裾野を広げるためのだいぶ若向きな感じなので、合わない場合もあると思う。その場合は店舗やメニューだけチラ見してそのまま素通りで本店行けばいい。スタンドからは徒歩ほんの数分で着く。(松原通りを烏丸からスタンド前を通ってそのまま歩いていくと道の左側にひっそり本店がある)。支払いは、本店は現金とカードしか使えないんだけど、スタンドは各種QR決済にも対応している。

AoQ路面店はスタンド脇に買ったものをちょっと飲める感じのスペース(屋外)があるだけの簡素な店舗。

ちなみに、花びら餅はお茶席のお菓子ということもあるのか、街の人々のお菓子屋さんであるふたばさんには取り扱いが無い。加えて、よく行くところでは亀末廣さんにも、取り扱いが無い。
加えて、年始の開店は、ふたばさんは8日から、亀末廣さんは6日から。ふたばさんは年始から桜餅が始まる。亀末廣さんには桜餅の扱いは無い、はず(1月から4月に滞在した中で一度も見たことが無いから)。

休む時はしっかり休む。これ大事。

今回ふたばさんの開店まで滞在できなかったんだけど、デパートには年始以降の豆餅の価格変更の掲示が出ていた(ふたばさんは開店日に豆餅だけデパートにおろしている)。街のみんなのお餅屋さんであるふたばさんですら値上げせざるを得ないとは、元々人が離れている和菓子業界は今後ますます厳しくなるんだろうなとぼんやり思った。

私は残り短い間に資産を使い切らないといけないし、京都で街と和菓子業界にお金を使いたいという意思を持っているからとにかくノーカンであれこれ買っているけど、先に長い暮らしを想定していたら、例えばお餅ひとつに700円以上とか、一般にはなかなか考えられないのかもなと思ったりもする(前に周りと話をしていて「え、それ一個の値段なの?」と驚かれたことがある)。
残念ながらこの国は、ごく一部の、際限なく儲けて得をしている層、既得権益者以外にとっては、株高も景気回復しているという主張も全くの別次元で、「これまで通り」を維持できなくなっている。原材料光熱費輸送費など、全てが値上がりし、それでも客足が遠退くのを恐れて、あるいは馴染みのお客さんのことを想って、内部に赤を作りながらも何とか耐えてきたところが次々に限界を迎えている。
私はせめて、地に足をつけ実直に手を動かし続けてきたふたばさんのようなお店は、値上げしてもいいから皆さんに無理がない形で良い品を維持していただければとも思うけど、一般的にはどうなんだろうか。ふたばさんのような超人気店ですらきっと、値上げによって遠退く層は出てくるだろう。特に、観光などその場限りの出費として消費する一見さんではなく、日常の中で定期利用していた街の人々の中に。完全に切れることはなくとも来店頻度や一回の購入量が変わったりしてね(予算が同じ場合、値段が上がれば買える量は減る)。

残念ながら日本はもうお金の無い、貧しい国なんだ。「美しい国」幻想を吹聴している、あるいはそれに染められ浸っている層が認めることなんて無いけれど、かつて経済大国と呼ばれた時期の過ぎ去った栄光にすがりつつ、これまで散々馬鹿にしていたエリアにも媚びを売っていくしかない。国や自治体がインバウンドインバウンド言うのも、周辺利権に加え、国内で自分達で生産発展していく力が無く、外からのお金のある方々に安くお得に「消費していただく」しかないと、とっくに日本を見限っているから。経済指標、順位が下がっているのはドルベースだからではない。「である」の世界の一部の既得権益者とそのお友達だけに優しい利権不正中抜き天国の中で、そうではない、社会の大半の人々の仕事や富、生活が吸われ尽くして死に絶えたから。

もはや海外からの奴隷も呼び込めない。元々の人権的な悪評に加え、国力の低下や円安もあって、わざわざ何のメリットもない、デメリットやリスクばかりの国へ行こうなんて、特に「高度人材」は絶対に思わないし、単純労働者だって、他の少しでもましな国へ行くよ。

国内「人材」も含め、散々言われている各所の人手不足は既得権益者が単に「何の権利も保証も与えず、責任も持たず、安くこき使えて使い潰したらポイ捨てできる奴隷」が足りないと言っているだけに過ぎない。
まともな待遇、環境があれば、いくらでも人は集まるのにね。生まれた時期まで「自己責任」にして切り捨てた氷河期とかさ、見ていて本当に居た堪れない。
目の前の可能性あるものを見ようともせず、ちょっと頭を捻って工夫すればいいことも何の配慮もせずにあんぐり口を開けて奴隷を待ち構えていたってね、そりゃあ無理ってもんでしょう。マゾヒストでも無ければ奴隷になんてなりたくないよ。少なくとも私は、死んでもお断り。

私ももう少し若くてコロナが無かったら、それこそワーホリにでも出ていたろうな。むしろそのほうが収入が上がったりしてね。
今後はこれまでみたいなホワイトカラーの駐在以外、職人やいわゆるブルーカラーの海外移住も増えるだろうから、海外子女教育のニーズはだいぶ変わっていく(これまでの形では対応しきれなくなる)だろうと私は読んでいる。もうそこに関わることもないけれど。

私は現実に合わせ、組織と同じ意味での「合理的」な解決をはかる。
粛々とすべきこと、準備をしよう。できるところまではする。


指を負傷してビートが速かったり高音を使ったりと弦の刺激が強くなる曲を弾けなくなったから、年末最後に思い出した"Dublin sky"に出てきた"Amazing grace"を歌ってみることにした。オリジナルがよくわからないので歌詞だけ調べてベースを適当につけた形。4番以降は信仰絡みがより強くなるので割愛した。
歌うことも減りブレスがまただいぶ安定しない感じなので、こういうゆっくりソングは特に荒が出やすい。そしてその下手を残す。「ラーソファ」とか「シーラソ」が全然ピシッとできないところも含めてね。私はサボるとすぐに忘れるし衰えるんだよ。認めるって大切。
決して楽しいことばかりじゃないよ。でもちゃんと見て気付いて認めれば、対策できるし変わっていける、可能性がある。「無知の知」と一緒。見たくないものに目を塞ぐ、見ない、あるいは気付けるだけの目や知見を持たない、ましてや(自ら気付けないだけでなく)他の見えている人から語りかけられているものにも頑なに耳を塞ぐだけの、人間にも世界にも、一切何の可能性も無い。不毛。



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