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「自分探し」の到達点

SNSに「股間」を晒そうとした。
違う。趣味で、ではない。

隠す事より、全て見てもらう方が、楽だと思ったからだ。あまりにも真剣な眼差しで、相談するものだから、嫁は「流石にキモい」と言っていた。


時々、自分の言いたいことが、分からなくなる。

自分の本心を隠して生きて来たので、今更、出そうにも、出てこない。「本心って何だ?」「自分って何だ?」答えを、考えて考えて、出そうとするが、よく、分からない。

必死になって探すのは、面倒で、諦めようとするが、憧れた表現者たちは、答えを知っているように見える。

僕も、知りたい。

答えを求めて、京都の寺に行った。有名な寺、そこの偉い住職に「自分って何ですか?」と尋ねた。すると彼は、穏やかな笑顔で、僕の質問を受け入れた。欲がでる。「自分が分かったとして、それが嫌な自分だったとして、何度も押さえつけたのに、まだ上がってくる自分が、本当の自分なんですか?」マシンガンのように、質問をした。

結果、嫌気がさしたのか「観察、足りないんじゃない?」と、適当にあしらわれた。もう、教えてくれよ。

また、コメダ珈琲に行き「たっぷりアイスコーヒー」を注文し、エッセイを書く。昨日、書いたエッセイを推敲する。「なんだこのエッセイ」誰でも書けるような内容に、昨日の自分を疑う。肩を落とす。

文章の中に、自分を探す。自分にしか書けない文章を探す。どこだ。自分にしか書けない物、自分にしか書けないもの。

人の作品を読む。比べる。やっぱり、僕の表現には「自分」が「オリジナリティ」が、足りない。

もっと、自分を知りたい。もっと、自分を出したい。自分と向き合う。来る日も、来る日も、自分の感情と向き合う。毎日、何時間もかけて、壁や天井の一点だけを見つめ、自分の意識に潜る。発見した自分を分解する。新しい自分に気付く。引き出す。言葉にする。書く。曝け出す。心とブルーライトだけの世界になる。毎日、毎日、繰り返す。その世界に没頭する。

「たっぷり」の時間と、「たっぷり」のコーヒー代を掛けて書いた自分を、人に読んで貰う。答えは見つからないまま。だけど、悪くない気分。次を、始める。潜る。分解する。気付く。引き出す。言葉にする。書く。曝け出す。心とブルーライトだけの世界になる。

やがてハイになり「股間を晒そう」とする。

という訳だ。だから、趣味で、ではない。



意識に潜っている最中、過去に、嫌で嫌で仕方ないから、片付けた「本心」に触れる。

「勇気のない自分」「迷う自分」「人に流される自分」「誤解を恐れ、躊躇する自分」「咄嗟に自分を守りたいだけの発言をする、ズルい自分」「ガキ大将に嫌われないように、迎合する自分」「好きな子に気に入られようと、嘘をついてまで、気に入られようとした自分」「フォロワーや数字欲しさに信念を曲げて、創作を汚した自分」「人に嫌われたくない自分」

汚い、臭い、自分。コイツらは、長い時間をかけても、消化しなかった。それを無理やり、この世に引き摺り出して来る。なので、ゲロのような形状をしている。いわば、エッセイとは「ゲロを出す作業」なのかもしれない。

表現なんて、文章なんて、憧れなければ、始めなければ、触れずに、悩まずに、済んだのかな?と、考える。自問自答なんてせず、何も考えず、この先の人生、田舎で余った同級生と結婚し、早めに子供を生み、夢に挑戦しない事への言い訳に、嫁子供を使い、故郷を出ようともせず「今の生活?満足してるよ」などと、己にウソを吐く、みっともない人間のままでいれば、楽だったのかな?と、考える。

年間200日、コメダでたっぷりアイスコーヒーを頼まずに済んで、若くて可愛い女性店員に「来すぎだろ」と思われずに済んで、隣の席の男女が始めた話に聞き耳を立てているところを、若くて可愛い女性店員に見られ、奇妙に思われずに済んだのかな?と、考える。

憧れは、嫌な思いだ。

でも、本当は見られたくない自分を、見てくれる人がいる。

それは、生きて行く上で、不要になって捨てたはずの自分が、生き帰る事のような気がする。嬉しい。「もっともっと」と、心の奥へ奥へと潜り、曝け出す。

また、書かないと。筆を握る。


意識の奥底を探索していると、声が聞こえてくる。「ここ、ここ」本心が、みつけて欲しそうにしている。でも、暗くて、よく見えない。この声、本当に本心か?疑わしい。近づいてみると、本心の周りには「立場」や「覚悟」が、覆い被さっている。声が籠って、聞こえにくい。

僕が、誰かの「友人という立場」にいる時、彼に「嫌われたくないな」と思ってしまう。「嫌われたくない」と思う本心が、演出し「嫌われない為の姿」という「像」を作り出す。


僕は、一時期、綺麗事に囚われた事があった。

誰にも嫌われたくないから、全員に理解できるような言葉を心掛け、誰も傷つけず、誰も取り残さず、優しさだけの言葉を使った。誰にも、孤独を与えないように立ち振る舞い、嫌われない為に学んだコミュニケーションをとった。

自分の本心は、二の次、どんどん奥に、追いやった。

ある日、GEOでAVを借りた。興味があったレズモノのAVを、隠れて借りた。周りに「エロい人間」と思われると、冷やかされそうで、むっつりと、スケベを味わった。

借りてきたAVは、絶対にバレない、鍵付きの引き出しに隠した。しかし、デリカシーのない友人が、部屋に来た。悪い予感は的中し、僕が部屋から離れた隙に、なぜか掘り当てた。友人はニヤニヤと、こちらを見ている。

終わった。本心を見られた。冷やかしが始まる。いずれ、イジメに繋がる。嫌われる。吐き気がする。気持ち悪い。必死に誤魔化す。悪循環を産む。どうしていいか、わからなくなり、視界が真っ白になった。終わった。

でも、友人はなぜか「今の遠藤、人間らしくて好きだ」と言った。

レズモノのAVを見られて「好き」と言われても、意味不明だった。でもなぜか、本心に、水が注がれた気がした。

保身の為に、本心を隠して、損をした。自分を守る為だけに、大切な信頼を、失いそうになった。


立場は、人を勘違いさせる。

同じように、僕たちが「社会の一員という立場」にいる時、コミュニティから「はみ出さない」ように、自分を演出し「像」を作り出す。

僕たちが「誰かの親という立場」にいる時、愛の名の元、自分の核より、他人を優先させる。

僕たちが「人間という立場」にいる時、生きる事をイージーにする為、環境や仕組みを作り、生まれたままの姿で居る事を、許さなくする。

本心が、それらの「立場」を煙たがっていても、はみ出す事に労力を割きたくないから、本心に気付かないフリをし、環境の「総意」を形どるように、己の形を変え、声が聞こえて来ないよう、蓋をする。


覚悟も、人を勘違いさせる。

「過去」という覚悟が、今までに受けた傷を避ける為に、自分とは別の「像」を作り出す。

「未来」という覚悟が「こう生きねば」と無理強いし、進むべき道を操作し、間違えたりする。

本心を蔑ろにし続けると、知らず知らずのうちに、立場や覚悟が覆い被さった状態を、本心だと思い込む。知らず知らずのうちに、本心は、深く暗い場所に追いやられている。

だから、プライドが高く、保身ばかりするような、人間の部分で戦ってこなかった弱い人間は、正論で武装し、常識をほざく。本心が見えていない証拠。




「本心に触れた」と思っても、更に奥にあったりもする。本心は、梅干しの種の中にある「仁(じん)」のようなもの、なんだと思う。

立場や覚悟を纏った本心は、梅干しの種のように硬い。中の「仁」に触れる為には、種を割る必要がある。僕は、仁に触れる為、種の部分を、めちゃくちゃに攻撃してみた。ぶっ叩いてみたり、削ってみたりしたが、なかなか姿を現してくれない。

この硬い部分が、生まれてから今までに培って来た「性格」であり「業」であり「信念」だ。そう簡単に壊れても、困る。

吐きそうになりながらも、あの手この手で割ろうとしたが、にっちもさっちも行かない。考え方を変えて、割ることが出来ないのならば、服のように、誰にも見られない場所で「脱ぐ」事なら出来るんじゃないか、と思った。

意外と簡単に脱げた。あんなに固かった種の部分は、誰もいない部屋の中でなら、脱いでも恥ずかしくなかった。電気をつけて、裸になった姿を、まじまじと見た。それは、まだ怖かった。電気を消して、月明かりだけにした。また「着る」事が出来ると思いながら、向き合った。

僕は「仁」に触れる事が出来るようになった。自分の本当の声を、聞き取れるようになった。


僕たちは「服」を着る。僕たちは「服」で着飾った自分を「本当の自分」であると、勘違いする。僕たちは、理想の形じゃない自分を「服」で誤魔化し「本当の自分」を奥に仕舞い込む。

なりたい自分の前に、生まれたままの姿の自分が居るはずなのに、コミュニティの形に合わせるように「服」で自分の姿を隠し、環境の総意に「迎合」する。気づかないうちに。

だから、多くの人が「世間一般」に迎合する為に着飾った自分と、「世間一般」とズレた本当の自分の「差」に苦しむ。

立場は、生きていくうえで欠かせないもの。覚悟もそう。過去の自分を慰める為に必要だし、未来を色付かせる為に必要。立場や覚悟は「仁」を守る為に、上に成り立つ。だからこそ、僕たちを奮い立たせ、僕たちを導いてくれる。

だから「裸で生きるべき」と言っている訳ではない。裸になったところで、バカを見る。リアルな本心というのは、自分の首を絞める。

試しにやってみる。




僕の中には、どうしようもないほどの、自己愛、過剰な自意識、承認欲求など、発表するのは気が引ける程の、醜い欲がある。

普通は出さない。出せば「キツ」で一蹴されるから。

自分自身を表現する事は、怖い。嫌われたら、終わり。目下が崖過ぎる。でもそれが、僕という動物の「仁」で、リアル。裸。それがオリジナリティであり、誰にも真似できない個性。誰も言わない、本当の汚い自分こそ、そこい悩む不安定さこそ、僕のアイデンティティ。

こんな事ばかり考えていると、出来る事は増えないのに、したくない事だけ増えて行く。

僕は、誰に何かを教えるという、知的好奇心を刺激するだけの情報教材マウンティングに落ちたくない。

僕は、自分自身に何かが足りなくて焦り、分かりやすい情報に手を伸ばした人たちをカモにし、売上を立て、あぐらをかくような真似はしたくない。

僕は、分かりやすいだけの表現になりたくない。毒にも薬にもならない表現はしたくない。


こんな我儘「売れる覚悟がない」と言われた。「餓鬼みたいだ」と言われた。だけど、僕が救われてきた表現は、僕が心の底から「面白い」と信じてる表現者たちは、そんな安い所にいない。もっと自分を削って、消耗戦と分かりながらも挑み、やっとの思いで絞り出した「カス」みたいな一言に「命」を掛けていた。

その「金言」に勝てる表現は存在しない。それを欲し続けたい。

金言を取りに行くがあまり、人を腐すことや、スカす事で安易にできる表現を何度もした。何度も失敗した。それで嫌われてきた。それしか出来ない、出てこない自分を、何度も軽蔑した。「出来っこない」「口先だけ」と言われて来た。何度も日和ったし、腐りもした。生活は崩れるし、人格も歪んだ。共感してもらえる機会が消え、どんどん社会から遠ざかっている気にもなった。

でも、これが、割り切れない、僕のリアルで、僕の仁。

こんなの、言っても何にもならない。何も起こらない。嫌われるだけ。追い込まれるだけ。だから、裸すぎると、バカを見る。

しかし、本心との区別は出来ている。




立場は上着で、覚悟は下着のなのかもしれない。

立場を厚着し過ぎてしまうと、仁は息苦しくなり、覚悟は薄く、仁の形に纏わり付き、境目を見い失う。

立場はスーツであり、ダウンであり、無菌の防護服かもしれない。覚悟はパンツであり、ストッキングであり、はたまたタトゥーかもしれない。

だからこそ必要なのは、服を脱げるようにする事。このダウンは、いつ手に入れたのか。このストッキングは、いつから履いているのか。思い出しながら脱ぐ。なぜ、着る必要があったのか、誰かに貰ったのか、誰に借りたのか、思い出しながら脱ぐ。それを洗濯する。これだけ汚れた世界、服も汚れている。

それが出来るようになると、驚く程、風通しが良くなり、自分は何が好きで、何が嫌いなのか、なにが楽しいのか、分かるようになってきた。




自分が「死」に直面した時ですら「これは誰かが生きたかった命だから生きなければ」と言う人がいる。その正論を聞くと、悲しくなる。

それはそうだが、決してそうじゃない。命を全うする責任と、醜くても生きたいとういう願いを、混ぜてはいけない。

その言葉は「立場」が言わせて無いか?
その言葉は「覚悟」が言わせて無いか?

自分の中で生きる自分は、いつも「美しく」なきゃいけないのか?誰かを蹴落としてでも「生きたい」と願う事は、本当に醜い事なのか?自分だけでも「生きていたい」と思うことは、卑怯な事なのか?死が目の前にある状況で、ただ「生きたい」と思うことは、ダメなことなのか?

生きる事は、権利だ。



立場や覚悟は、人を勘違いさせる。

立場や覚悟は、時に「誹謗中傷」という形で、人を殺す。
立場や覚悟は、時に「戦争」という形で、人を殺す。

でも、引き起こした人も立場や覚悟という服を脱げば「ただの人」。全裸で鏡の前に立ち「よし、人を殺そう」とは思わないはずだ。

結局のところ「あなたは醜くないよ」と言って欲しいだけだ。
「洒落てるね」と言って欲しいだけだ。

自分の中にある「醜さ」は、今生きている環境の中で「醜い」とされているだけで、意識の底からくる本当の自分が「醜い」わけがない。「立場や覚悟」で守られて来たのだから、「醜い」わけがない。

今いる世界で「醜さ」を覚えた自分は、自分の中で大切にしてほしい。総意の「美しさ」に死ななければならないくらいなら、1人で「醜く」生た方が、遥かに格好いい。




と、言いはしたが、どれだけやっても、まだまだ「自分」は、分からないまま。でも、不思議なのは、自分を曝け出せば出す程、この世界の解釈の「自由さ」に気付かされる。そして、なぜか穏やかになる。

という事で、もう一度言う。だから「股間」を晒そうと思った、という事だ。

納得、頂けただろうか?

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