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広島から臨む未来、広島から振り返る歴史(1)

広島を訪れて

散々サミットについて色々書いてきた(煽ってきた?)のに、その現場に行かないのもいかがなものか、と考えて、サミットから20日間余りの間、広島とその周辺を訪れてきた。もちろんサミット自体に何らかの直接的関与をしたか、と言えばそんなことはないわけだが、その雰囲気を感じられただけでも大きな成果だった。そしてそれ以上に、広島(市というよりもその周辺を中心とした県全体ーもちろん全てを訪れたわけではないが)という場所の非常に重層的な歴史的な蓄積を感じられたことがさらに大きな成果だった。それについてすぐにまとめてここで公開するというのは少し難しいので、時間をかけるか、他の方法を取るか、何にしてもすぐにその成果を具体化することはできないが、その周辺から得られたことだけでも、非常に芳醇な風味を感じられることが多くあったので、そんなことを少しずつ書いてゆきたい。

デリバティブ問題の行方

まずそもそも、私のサミットに向けた主要な関心は金融商品、いわゆるデリバティブの廃止であったわけで、それに関してどう考えるのか、ということを整理しておく必要がありそう。今回のサミットは、ウクライナ問題があったということもあり、例年にもまして政治がクローズアップされたものとなったと言えそう。例年ならば、政治の動きの底流には経済があるということで、経済問題についても当然議論のテーマとしては上がってきていたが、今回は、政治の中でもウクライナ問題とも経済とも関わりの薄い核廃絶ということが主要テーマとなったということで、その意味では主催国の意向が強く反映されたといえ、外交的には大成果だったと言えるのかもしれないが、それが年に一度の持ち回り開催で時宜の認識交換を主として行うサミットの場で取り上げられるべきテーマであったのか、ということには個人的には大いに疑問が残る。特にそこには核の大保有国であるロシアも中国も参加していないわけであり、そしてロシアと敵対しているウクライナ大統領を招きながらそのようなテーマを取り上げるということに、パフォーマンスは別として、政治的に実際的な意味があったのかというのは問われるべきことであり、サミット開催国というカードをパフォーマンスに利用しただけだとの批判は避けられないのではないだろうか。

ウクライナ戦争の性質解釈

本来的に言えば、ウクライナの戦争というのは、少なくとも私にとってはウクライナとロシアの民族紛争というのは人為的に作られた虚構であるとの感覚は避け難く、その意味でサミットの観点から言えばもとよりこの戦争は経済戦争であると位置付けて良かったのではないかと感じる。もちろん、NATOの東方進出の帰結であるという大きな政治的要因はあるのだが、そこでサミットをNATOの政治部門だと位置付けてウクライナに強く肩入れするよりも、先進国の首脳会談として経済問題に特化して関与を探った方が遥かに有意義な成果を得られたのではないかと感じる。実際問題、仮想通貨がウクライナ支援に流れるといった、経済問題として非常に興味深い動きもあったわけであり、中央銀行がデジタル通貨の導入を議論している時にそのような動きを主要なテーマから外すというのはあまりに時宜を外していたのではないか。

仮想通貨のもたらす経済学の危機

この仮想通貨は、金融商品からの直接的派生ではないという意味で、デリバティブすら通り越した新たな金融商品世界を築き上げる可能性を持つもので、その管理の是非、方法論、実効性などさまざまな議論を行う必要がある。特に、この仮想通貨を利用して直接為替取引なしに大規模外国取引が行われるようになると、金融・為替政策の実効性がほぼ失われるという経済政策にとっては重大な転機となる可能性を持っている。それを考えると、デリバティブが資本主義の悪い側面を煮詰めてその速度を上げている一方で、その資本主義は通貨による一国閉鎖経済の分析枠組みから外れるような動きを始めており、経済を分析する経済学という学問のスコープがずいぶん時代から遅れた状態のまま資本主義の力が増してゆく、というその状態が現実と交差したウクライナ危機において、それをまんまと見過ごして是認したのが今回の広島サミットであったという、再び広島が世界の曲がり角に名前を残すことになったその舞台にわたしは出会したことになるのかもしれない。

広島での二度目の核危機

経済学は国という閉鎖経済が為替によって仮想の開放経済を形成した時代から、仮想通貨という閉鎖経済自体に風穴をあける存在によって閉鎖経済が想定し得なくなるという、少なくとも計量経済学にとっては死活に関わる問題に直面することになりつつある。それは、閉鎖経済を守るために贋金造を徹底的に締め上げてきたこれまでの経済のあり方とは全く違った風景が現れることになり、むしろ国家貨幣が必要なのか、ということすら問われかねない状況にもなりかねない。そんな、計量経済学のスコープの外を走り始めた経済で、打算によってうまく進む、経済は功利主義計算で成り立つ、といったこれまでのミクロの功利主義追求正当化の理屈は果たしてうまく生き続けるのだろうか。そこに何の理論的収束条件がないまま今までのペースで走り続けるという恐ろしい世界がまさに始まりつつあるのかもしれない。金融商品を経済的核反応に準えたこともあったが、まさにその核反応が臨界を迎えて人の手に負えなくなりつつあるのかもしれない。
『核危機は二度広島から起きる。一度目は原爆として、二度目は経済的核反応として』などということにならなければ良いのだが、という杞憂が頭をよぎった、少なくともサミット直後の広島における感慨であった。

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