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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(12)

厳島から見る毛利元就2

引き続き、『棚守房顕覚書』より、陶隆房の謀反のところから毛利との関わりを追ってみたい。

謀反到来ノ條、山口ノ事ハ申ス能ハザルニ毛利殿ヘ申シ談ズ、
一、然ル處ニ、佐東金山ノ事、城番タル麻生與太郎、福島、ソノ外ノ防州ノ給人衆五六十人アリケルヲ、吉田ヨリ出張アリ、福島ナド心寄セノ條、安々ト金山ヲ請ケ取ラル、ソノ外、伴、大場ニテハ吉田ヨリ存知ナリ、
陶一味ノ衆、申シ談ゼラル、此ノ如キ處ニ備後ノ江田玄蕃助、當家ニ對シ無沙汰ノ條、退治アルベシトテ、防州ヨリハ江良丹後守人躰トシテ出張ス、毛利元就自身出陣アリ、翌日幡返ノ要害ヲ切リ取ラルル處ニ、防州ヨリ此ノ城ヲ吉田ヘ渡サレタラバ然ルベカリシヲ、陶衆當座ヲ相守レドモ、後々ニハ毛利殿ノ知行ナリ、

どうも、祇園社から吉田を”當社”に寄進した毛利の力を用いて、大内が討たれたのを機に勢力を拡大しよう、という意図の元に話を進めているように感じられる。

吉見ト陶トノ中ハ、前々ヨリヨカラヌ間、コノ度吉見ニ防州ノ衆ハ取リ懸カラルルニ、カゝル處ニ陶方ヨリモ、毛利殿ハ自身御合力アルベシト、度々使者ヲ以テ催促アリケルニ、サハナクシテ、寅歳五月十二日、己斐、草津ノ城ヲ取リ、櫻尾ノ城ヲ取リ、神領ヘ發向ス、宮島ニハ、陶ノ内深野小右兵衛ガ番衆ナリシヲ追ヒ失フ、當島吉田ノ裁判トナリ、神領衆ハ悉ク吉見ニ在陣ノコトナレバ、神領ノ侍、給人衆、女子供ハ是非ニ及バザル有様ナリ、

大内を討った陶が元々仲のよくなかった吉見征伐に出かけ、毛利に助力の催促をしたが、そうはならずに己斐、草津、櫻尾の城をとって神領ヘ向かった、ということか。ここで宮島と當島が別に書かれていることには注目したい。 

そしていよいよ厳島合戦であるが、ここでは驚くほどに毛利の存在感は薄い。一応関連部分だけピックアップしてみると、

カゝル處ニ吉田ヨリハ、廿三日地御前ニ出張ス、
明ル二十九日ノ暮ニカゝリ、元就乗船アリテ、包ノ浦ヘ船ヲ付ケテ、バクチ尾ヘ上リ給フ、
小早川隆景ハ追ヒ懸ケ給ヒテ、西山ノ峠ニテ、陶ノ内ノ三浦ニ懸ケ合ヒ戰ヒ行ク、隆景ノ内ノ南ノ某、山縣勘次郎ソノ外五六人討タル、小早川殿ハ安穏ナリ、三浦越中ハ一所ノ者二十人バカリ、隆景ヘ打チ取ラレ給フ、

とあり、小早川隆景の戦ぶりの方が詳しく出ている。そんなことからも、やはり舞台は大三島だったのでは、という印象を受ける。なお、ここで出てくる三浦というのは相模国の武将として知られており、鎌倉時代もそうだが、後北条氏とも関わりがあるということで、ここで名前を出すことで、右田氏から吉川氏に引き継がれた『吾妻鏡』の解釈を関東方面に移すという下準備がなされていったのかもしれない。

カゝル處ニ、天野紀州隆重ヘ江田新五ノ討チ取リシ首到来スレバ、彌山ヲ下向アリ、頭ハトリ集メ八千バカリモアリ、然レバ地ニ首塚ヲツカセラルベシトアリケレドモ、元就ノ御思案アリトテ、首塚ハ造ラレズ、
サル程ニ、當社ニ萬部御經アリ、元就、房顕ニ仰セ渡サレケルハ、當社ノ御事ハ申スニ及バズ、従前ノ分アル領地等寄進申シ、灯篭ドモニ灯明料寄進申シ、外宮ニ置ク提灯ヲ参ラセ度キ由仰セ出ダサル、

いわゆる厳島合戦によって房顕が得たものの根拠を元就に求めるというのがこの本が書かれた理由であると言えそうか。

アル時、小早川殿、吉川殿ノ御祈念ノタメ黄金二枚、元就ヨリ下サル、一枚ハ舞楽料トス、一枚ハ外宮ノ長屋ヲ建テル、先年大般若經ヲ房顕寄進申ス、神輿ナドモ調ヘ申シ候ハ棚守房顕ナリ、御旅所、御供屋モ建テ置クナリ、

元就は敬称なしで小早川殿、吉川殿には敬称がついている。毛利を立てておいて、実は小早川、吉川でとってゆく、ということを示しているか。
この後、吉田がらみの話が多く出てくるが、どうも場所が変わっているような印象を受ける。しかし、それがどこを指しているのかは今の所よくわからない。

一、聖護院殿御下向ナサル、吉田ヨリ御馳走ナリ、・・・
サル間、大内殿ノ重代ノ千鳥、荒波、乱髪、菊作、小林の長太刀ヲ思ヒ思ヒに取リ持チ、吉田ヘ進上ノ處、・・・
然ル處ニ、荒波ノ刀、上意ニ御覧アリタキノ由ニテ、御奉書度々アリ、此ノ由棚守ヘ吉田ヨリ仰セ聞カサルル處ニ、・・・
然レバ、吉田ニ此レ等ノ段、状ヲ以テ申ス可キ由ノ條、・・・
吉田ノ一乗院ヲ上野殿ニ相添ヘ渡海ノ條、・・・

吉田は報告を上げる先になっている感じか。

一、聖護院殿御下リ候、コレラノ段注進候處ニ、吉田ヨリ馳走致スベキノ由ニ候條、・・・
一、輝元御元服ニ付キ、細川是久ノ御息隆是下向ナサレ候、一段ト御意ヲ得候、吉田ニ御上リナサレ候テ、直チニ御上洛ナサレ候、・・・
一、當島ニ吉田ヨリ、千部經八ケ度、大元ニ二ケ度、萬部經二ケ度執行スベキ沙汰アリ、
一、観世大夫下向アリ、吉田ヨリ當島ニ参詣ノ條、・・・

やはり、吉田から命令が降る、ということになっていそう。八坂神社よりも明らかに厳島神社の方が歴史があるのにも関わらず、というかそうだからこそ、八坂神社から寄進先を振り替えた吉田に敬意を表しているということなのだろうか。それにしても歴史ある厳島神宮の奉行を司る棚守の行動としてはあまりに軽い、と感じる。

然レバ、遷宮ノ儀ハ、往古ハ當社ノ社家老者中ニテ調ヘ来ルト見エル、房顕ハ當社ノ事彌々太ヤカント存ズル故、元就公ト申シ談ジ、従前ノ神道傳授ナレバ、京都ノ吉田神主兼右ヲヨビクダサント申ス、
然レバ、未歳六月十四日、元就公死去ナレバ、萬事ニ相違ナレドモ、兼右ヲヨビ下シ申ス、十二月廿一日下向アリ、・・・

吉田兼右は、吉田神道の創始者兼倶の孫にあたり、清原家に養子に行った宣賢の子が再び吉田家に戻って跡を継いだことになっている。この時期は、その創設からまだ百年も経っていない、いわば新興宗教とも言って良いようなもので、そこに伝統ある厳島神社の遷宮について伺いを立てるなどということはとてもではないが考えがたい。あるいは吉田神道の権威自体、この書での吉田兼右の存在感によって強化されたという可能性も考えられそう。つまり、棚守房顕が吉田兼右という人物をうまく使って吉田という名を広めると同時に自らの権威の源泉に据えた、ということも考えられる、ということが言えそうだ。

サル程ニ兼右ニ寳蔵ノ太刀刀ヲ明神ヨリノ御引出モノニ参ラセラルベキノ由、元就ト御意ヲ得候間、菊作ノ太刀、ハセベノ國重ノ刀ヲ取リ出シ参ラセ候處、隆景ノ御奉納候ヒシ、来太郎両作ノ太刀ヲ所望ナサルルノ由ニテ両種ヲ御返シ候條、何レモ進ゼズ候、・・・

大事な宝刀を渡そうとしたら、隆景の奉納したものが良いと言われ、断られている。しかも先方から太刀を受け取っており、平家以来武家の信仰の厚い厳島神社をあまりにコケにしているとしか思えない。太刀の話が出ていたのは兼右の来訪よりも八年も前のことと見られ、にも関わらず元就の名を出してその御意があったし、かつそれが断られて隆景の奉納した太刀を渡したということで、元就の没後に隆景路線にあからさまに切り替えている様子がわかる。

一、アル時、隆元公、房顕ヲ召サレ、島中往古ノ社頭ノコト、ソノ外ノ神事祭禮等、近年断絶ノ所ヲ、言上致ス可キノ通リ仰セ出サルゝノ條、先例ノ儀ハ、年々神事ヲ定ムルコト、三百八十ケ度アリ、
當社ノ遷宮ヲ執行ノ間、・・・常榮ノ御事ハ、別シテ御奉公ト存ジ上ゲ、・・・

元就が没してから、それより先に死んでいるはずの隆元の話が出てくる。特に後者の文は遷宮が元亀年間で、常榮が注にある通り隆元のことならば、随分と時期がずれており、何かが違う話のようだ。

アル時、又隆元公ハ房顕ヲ岩國ヘ召シ寄セラレ、社頭近邉ノ在家ヲ退ケ、厳島ノ法度ヲ舊例ノ如クセヨト仰ラレル、・・・

吉田神道の導入を図った元就に対して、隆元が旧例を重んじていると協調することで、吉田一本からのリスクヘッジを図っているようにも見える。

隆元公遠行ノ巳後、元就公、元春、隆景、元秋、元清、ソノ外藝・石・出雲・伯州・備後・備中・防長の十ケ国ノ衆ハ各々筑前橘ニ下向アリ、・・・

やはり隆元はこのリスクヘッジのためだけに出てきたか。早速亡くなって九州出兵の話になっている。
十ケ国とあるが、八カ国しか挙がっていない。

然レバ、元就公、輝元公、隆景、元秋、元清、御社参ナリ、五日在島アリ、御兄弟衆ハ何レモ棚守ノ所御宿ナリ、小早川殿ハ竹林ガ御宿ナリ、吉川殿ハ陸路ヲ直チニ御歸陣ナリ、・・・

御兄弟衆はいずれも棚守のところを宿にしたとありながら、小早川と吉川を省いている。

一、参詣御宿ノ事
屋形ヲ始メ元春様ノ御家中各々ノ御宿ナリ、天野殿、元清様ノ御家来、雲州ノ元秋様、元泰様、何レモ御旦那ナレバ御宿ナリ、隆景様御一人ハ往古ヨリ竹林内侍ノ御宿ナレバ、別宿ヲ召サル、然リトイヘドモ、御社参ノ時ハ何方ヘモ御座ナクトモ、棚守ノ宿所ヘ小早川殿御出ナサル、棚守房顕ニ隠居ノ御合力ノタメ、毎年米廿荷宛下サルナリ、
上様ヨリ御寄進ノ地、元春様、元清様、ソノ外、銘々ノ御寄進ノ地ハ書記ニ及バズ、御寄進状、目録等ハ、左近大夫元行ニ渡シ遣ハス處ナリ、御神事、祭禮、油断ナク馳走スベキモノナリ、

元就後に、屋形、上様、と主語をぼかすことによって誰が一番偉いのかが曖昧になっている。上の段で小早川隆景だけ特別扱いにしているところから、ここで隆景が棚守房顕によって毛利家中で一番偉い、というポジションに立ったのかもしれない。それが前にも述べた朝鮮出兵に絡んだクーデター含み
の動きを可能にすることになったのかもしれない。

少し端折ったが、これで『棚守房顕覚書』の中に出てくる吉田と毛利絡みの部分はだいたい拾った。全体として、すでに何度か書いているように、この書は、実は大三島の大山祇神社の所属であったかもしれない棚守房顕が、吉田と毛利の名をうまく使って社領を広げたり、権威を拡大したりし、その上に吉田の地名を少しずつずらしたり、毛利の話もうまく作ったりしてゆくために書かれたものだと考えられそう。
それは、四国系の勢力が本州に進出してくる様子を示しているのかもしれない。おそらくそんなことがあったがゆえに、その時期の四国の強者であった長宗我部元親という人物が形成されたのではないかと疑われる。元は毛利家の通字、一方親は厳島宮司家の通字であり、もっと言えば、元親の後を継ぐ盛親の盛は平家の通字から来ている可能性も考えられ、そうなると広島周辺の歴史的文脈を随分集めて長宗我部氏という士族を作り上げた可能性もありそう。
一方、毛利氏の話も、この文献が起点となって始まったものもかなりありそう。毛利元就の絡む戦として、郡山合戦と厳島合戦がよく知られるが、この本では、郡山合戦での毛利の活躍はよく描かれている一方で、厳島合戦では、小早川隆景の活躍は多少触れられているが、毛利本体の話はほとんど出てこない。郡山合戦では棚守房顕が寄進を受けてその立場を強くしており、毛利というよりも吉田あるいは元就という名でかなりその動きを追っている。この戦いによって吉田を寄進した元就という人物像が形成され、それがこの本における毛利元就という人物像の軸になっていると言える。毛利自体、いわゆる吉田が本拠だったかと言えば、もしかしたら備後が本拠だったのでは、というような記述もあり、要するに吉田をどこにするかによって、かなり幅広く毛利の拠点の可能性も広げてあったのだと言えそう。
厳島合戦の方では、元就が博打尾に上り、そこで小早川の活躍が描かれることで、その存在を引き上げ、本家を少しずつ弱体化させようという戦略があったか。もともと山の方では吉田の名をなるべく東に移すために、毛利の存在感を広くとっておく必要があったが、海の側では四国の水軍勢が本州に進出している過程であると言えそうで、それならば水軍のボスである小早川の存在感を引き上げた方が有利であるという判断が働いたのだとも考えられそう。
このようにして、山の顔と海の顔が全く違う理由によって描き分けられたために、毛利の活躍というのはどうにも掴みづらい、その特徴がはっきりしないものになっていったのだと言えそう。つまり、毛利の基礎資料だと言えるこの『棚守房顕覚書』での元々の記述が、房顕の都合の良いように書かれているので、毛利氏という存在の有無に関わらず、その記述についてはほとんど信用ができない、という状況になっていったのではないだろうか。

なお、この本では、地理的に考えれば広島も何らかの存在感があっても良いはずだが、その言葉は一つも出てこなかった。そのように存在感の薄い広島に、この書が書かれて十年もしない間に輝元が城を築き、広島と名付けるその必然性は、この書からは全く読み取れなかった。

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