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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(26)

藤原純友

過去の話は吉備国まで行ってしまって、少し範囲が広がり過ぎで戻れるかどうか不安になってきた一方で、未来について書くべき方でも、すっかり近代史の密林にはまり込んでしまったので、方向感を合わせながらなんとか収束を探らないといけなくなってきた。
そこで、前回たままた藤原純友の話が出てきたので、そこに繋げることで距離を縮めてみたい。前回の話では、住友家というのがもしかしたら藤原純友の文脈を引き継いでいるのでは、という趣旨で結構な冒険をしてしまったが、それを歴史的な面から少し補強することで方向感を合わせるよう試してみる。現在の歴史の話とはずいぶん異なった、まさにNonFictional-FIctionの典型のような話になるので、ご理解の程を。

承平・天慶の乱

藤原純友は、承平・天慶の乱で関東の平将門とともに中央に対して反乱を起こしたとされる。時期的には確かに重なってはいるのだろうが、短期間で収束した平将門の乱に対して、藤原純友の乱は二年間に亘り、そして将門が新皇と称して関東に独立勢力圏を築いたとされるが、それは同時代資料というよりも『将門記』という軍記物語によっている部分が大きいと思われ、それよりも同時代の実態としては藤原純友の方が存在感が大きかったのだと言える。後世に平将門の乱を大きく見せざるを得なくなればなるほどに、藤原純友という人物の存在感がどれだけ大きかったかを証明しているのだとも言える。

瀬戸内海の海賊

さて、その藤原純友だが、瀬戸内海で反乱を起こし、最終的には伊予の日振島を拠点にしたのだと言われている。現在日振島と呼ばれている島は宇和島の沖合、伊方半島よりも南にあるということで、確かに隠れ家としてはそれらしく感じるが、実際的な面においては、そのようないわば海の僻地を拠点にして瀬戸内海で暴れ回るというのはあまり現実的だとは思えない。つまり、日振島が本当に今の日振島と呼ばれている所であるか、というのは、疑問を持つべき理由があると言える。淡路島から太宰府にかけて暴れ回るには、瀬戸内海の真ん中、伊予ということを考えれば、芸予諸島に本拠があったと考えるのが現実的ではないかと考えられ、そうなると、のちに芸予諸島を中心に水軍を展開した村上水軍というのは、この藤原純友の後裔であると考えられるのかもしれない。なお、純友の乱が収束した五年後に即位したのが村上天皇で、摂関政治をせずに親政を行い、倹約に努め、乱の元となったとも言える政治の乱れをただし、「天暦の治」と呼ばれる治世をもたらした。

広島との関わり

ここで伊予の対岸にある広島に目を移してみると、のちの院政期に備後国世羅郡には太田庄が、安芸国加茂郡には竹原庄など、あちこちに荘園が開かれる。太田庄は橘氏が開いたと見られるが、その後平家に寄進されたという。それは二百年も降った永万年間に平重衡が後白河院に寄進したことが記録に残っているのだが、当時重衡がわずか十歳程度であったことを考えると、それ以前から橘氏が荘園化の動きをしており、それはもしかしたら二百年も前の藤原純友の時代に遡るかも知れず、その荘園化の動きに対して純友が平家である平貞盛らとともに荘園化を進める橘氏を討ったという可能性もあるのではないか。貞盛の子孫の伊勢平氏がその後瀬戸内海を中心に活躍することを考えると、純友とともに橘氏を討ち、その後純友没後にその指揮下にあった水軍を手中に収めてそれで大陸との交易にも乗り出して平氏の財政的基盤を打ち立てたということは考えられないだろうか。その話がどこかで捻じ曲げられて、反乱を起こしたのが平将門で、それを討ったのが平貞盛と藤原秀郷、そして藤原純友は橘遠保に討たれた、というふうに変わってゆくことで、最初海賊討伐側にいた純友がいつの間にか海賊側に変わって討たれた、という話にすり替えられ、純友は朝廷に逆らった敵だ、という扱いになっていき、一方太田庄自体はその後勢力を盛り返した橘氏が再度手を伸ばし、永万年間の寄進の話となったのではないか。のちの戦国大名である有馬氏や大村氏が純友の子孫を名乗っているということは、純友は逆賊などではなかったと考えている人々が五百年を経てもかなりの力を持っていたということを示しているのではないか。

話のすり替え

このような大掛かりな話のすり替えはそんなに簡単にできるものではなく、その後の摂関政治全盛期、あるいは院政期を通じて徐々に話が変わってゆき、それが限界に達したことで起きたのが源平合戦だと言えるのかもしれない。それは非常に皮肉なことで、おそらく六国史が『日本三代実録』で完結した後、正史というものがあるからそれを書くための権力争いが激しくなり、そしてそのために六国史後には個別の日記などの記録を重視する折衷的な歴史記録が重視されるようになったのだと言えそう。しかし、そのやり方では、個別の記憶を他者と擦り合わせる機会が非常に限定的となり、そして書かれた日記も全てが即公開になるわけでもなく、だから、結局多くの情報にアクセスできるものがその解釈を思い通りに広げることができるようになり、その中で事実とは異なるような話が流布してもなかなかそれを止めることもできず、結局話の乱れが起こりやすい、ということになっていったのかもしれない。

受益者平氏から見る光景

それにしても、討伐側にいたものが討たれる側に替わるというのは大変なことであり、それを主導したと考えられるのが、一義的には、その水軍を得たとも考えられる平氏だと言えそう。それは、将門の乱平定の一番の功労者は藤原秀郷だったのにも関わらず、貞盛の功が大きく取り上げられていることをみても、おそらく京都にていくさの状況を報告したのは貞盛だったのではないかと疑われる。将門の乱の関係者は、貞盛の母方のいとことされる秀郷、おばのことされる藤原為憲、別の母方のおじとされる源護とその子供達といった具合に貞盛の母系での関係者が多い。そしてのちに為憲流として工藤氏や伊東氏が出ることを考えると、『曽我物語』のモデルになるような話が何かあったのかもしれない。備前太田庄が橘氏から平家へと寄進されたことを考えると、このいくさの結果として将門、あるいは橘氏の誰かが一時的にしろ支配していた土地が、貞盛に代表されるような平家を通じて荘園化が認められたというようなことがあったのかもしれない。

承和の変

今度はずっと遡って、橘氏、そして貞という字から連想される事件に、承和の変というものがある。仁明天皇の時代、嵯峨上皇が崩御された際に、伴健岑と橘逸勢が皇太子の恒貞親王を東国に移そうとしたとして逮捕され、逸勢は流罪となり、遠州板築において没し、事件とは無関係の恒貞親王も廃太子された事件だ。大伴親王を称した淳和天皇は、嵯峨天皇から位を譲られ、天皇の位についたが、そのあとは嵯峨天皇の子で橘嘉智子を母に持つ仁明天皇に位を譲っている。ここで、大伴、橘という古代から続くとされる二つの大族の名が挙がってくる。さらに仁明天皇の次々代は第一皇子の惟喬親王と清和天皇となる惟仁親王との間で皇位をめぐる争いがあり、外戚の紀名虎と真言僧真済の推す惟喬親王に対して、清和天皇は藤原良房と真言僧真雅に推され、即位することとなった。惟喬親王は平城天皇の孫にあたる在原業平とも深い関わりがあり、それによって嵯峨天皇への反発心を糾合したことになる。つまり、橘嘉智子への反対勢力が大伴親王なる淳和天皇から恒貞親王へ流れ、その恒貞親王に関わる陰謀で橘氏の一族である逸勢が流罪の上客死することで、仁明系に刃向かった橘氏や伴氏への評価がいわばロンダリングされ、さらに橘嘉智子系である仁明天皇系の後継として清和天皇に敗れた惟喬親王に紀氏と平城天皇系の在原業平の無念を込めることで、橘嘉智子への恨みをさらに薄めるということがなされたのではないかと疑われる。

橘と空海

橘というのは、聖徳太子ゆかりの橘寺があるように、仏教と関わりが深い姓だといえ、そして嘉智子も仏教に深く帰依していたと言われる。その仏教系の勢力による皇室への深い浸透がこの時期になされたのだと言えそうだ。そして、それは時期的には遣唐使に参加して二十年後に帰国する予定だったが、薬子の変に少し先立ってわずか二年で帰国しながら京都に入ることをしばらく認められなかった空海と深いつながりがあるように見受けられる。空海自身は大伴氏系の佐伯氏の出身だとされるが、同じ遣唐使で唐に渡った中には天台宗の開祖最澄とともに前述の橘逸勢(嵯峨天皇、空海とともに三筆の一人)がおり、ここで承和の変に関わった伴、橘両姓が揃うことになる。そして清和天皇の即位に関わったのが紀氏と空海の開いた真言宗の僧二人であり、つまりどちらも何らかの形で空海が影響を及ぼしていた可能性がある。

橘氏の来歴

橘氏は『続日本紀』、聖武天皇の時代の、光明子の母でもある県犬養三千代と美努王との間に生まれた橘諸兄、佐為兄弟から始まるとされ、橘諸兄は東大寺大仏開眼会で和語による宣命を読み上げたとされ、一方で大和の国名を大養徳と変えた時の大納言であり、仏教との関わりというよりも和的な文化との関わりが深いように描かれている。そして諸兄の子の橘奈良麻呂は奈良麻呂の変を起こして討たれ、のちにその保持していた蔵書四百八十余巻が橘嘉智子所生の秀良親王にわたっているが、それは『続日本紀』編纂の重要資料だったと考えられる。なお、秀良親王は長命を保ったが、記事は大変少なく、そして後継についても記されておらず、他にも没官書千六百九十三巻を与えられたというその蔵書がどこへ行ったかはわからない。つまり、『続日本紀』は、その写本成立時期の問題もさることながら、そもそもが橘氏の強い影響下で編纂されたのだといえ、橘嘉智子は(本当に橘氏の出身であったかは個人的には大いに疑問に思っているが、)その橘氏の影響力を持って嵯峨天皇の妃となったのだと言える。和の色彩が強かったはずの橘氏が、嘉智子によって急激に仏教系に振れたということで、そこに唐から帰国したばかりの空海という僧の影響を見て取るのは穿ち過ぎなのであろうか。

純友の乱の実態は?

このような話があって、そして橘遠保が藤原純友を討ったとされ、一方で備後太田庄は橘氏から平氏へ寄進されたとされるという話につながることになる。そして備後太田庄には今高野山と呼ばれる真言宗醍醐派の龍華寺があり、さらにはその外港として倉敷地となった尾道という街があり、そこには真言宗系の寺院が数多くある。いったいなぜ海とは関わりが薄そうに見える橘氏の一族が、海を棲家としていたような純友を討つことができたのか。そこには、尾道という港からどこに、いかにして荷を運んだか、という、瀬戸内の制海権をめぐる争いがあったのではないだろうか。もっとも、尾道が倉敷地となったのは、純友の乱から一世紀もたった後のことであり、そこには直接のつながりはない。では何があったか、と考えると、すでに書いたことの翻案にすぎないが、橘氏に代表される新興の仏教勢力が備後あたりで土地を勝手に占有し、そこを荘園化しようとしたという動きがあり、それを藤原純友が討伐し、瀬戸内方面に追い出した、ということがあったのでは、と想像する。そして仏教勢力が逃れた先は作物を積み出して送っていた四国や九州、可能性としては(今の日振島にもほど近い)伊予八幡浜や宇佐八幡が考えられるのではないかと思うが、そこまで追い出して、そこに封じ込めた、というのがいわゆる承平・天慶の乱だった、つまり、平将門の乱などはなく、純友が私的荘園化した仏教勢力を駆逐した、ということだったのではないか。純友は瀬戸内制海権を確保し、そこに平和をもたらしたのだろうが、京都方面で情報を握っていたのは、宇多天皇の帰依以来勢力を増していた真言系の勢力であった可能性があり、そこが発信元となっている情報が現在まで残っているから、橘遠保が純友を討った、というような歪んだ話が残ったのではないだろうか。尾道の醍醐派西國寺は大寺院であったと伝わっており、もしかしたらこちらが醍醐寺と呼ばれる寺院の元々のものだったのではないだろうか。そうだとすると、まだ倉敷地となる以前から尾道では新興の仏教的勢力が勢力を持っていた可能性がありそう。

ここまで違う話だとすると、平安時代の風景というものが一変してしまう。藤原純友という名にそれだけの重要な秘密が隠されているのならば、その名前をめぐって会社法の成立の行方を左右したとしても十分に納得がゆく。

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