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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(16)

吉田の謎を追う ー 津和野

前回は吉田庄についてみた。その吉田という名が『棚守房顕覚書』の中でかなり恣意的に用いられているのでは、という感覚を受け、そのために吉田庄について調べることになったが、その吉田についてもう少し進めて調べてみたい。なお、今回の記事は、まだ訪れていないところのことに多く触れるので、これからの調査によっては、その感覚はまた変わることもあるかもしれないということを先に指摘しておきたい。

津和野と祇園

厳島神社から見る毛利元就1で、吉田が津和野かもしれないということを書いた。大内が防府から尼子の石州へ出張した、ということから、津和野の方がそれらしい、と感じたためだ。そして、津和野には弥栄神社があり、そこで舞われる鷺舞が京都の祇園社と共通であるということも書いた。そして、祇園社と吉田の関係については前回見た。南北朝時代あたりで、厳島神社領に手を出して自らのものにしようという動きをしていたことがわかった。祇園社と言えば平家物語の「祇園精舎の鐘の聲」ということが思い浮かび、そしてその平家物語の最初部分の主人公的存在平清盛の母は祇園女御だとされる。ただ、祇園と関わりの深い語り本系の諸本は白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が忠盛に下賜されて平清盛が生まれたとしている一方で、読み本系の延慶本は清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いているとのことなので、祇園のそばに住んでいたから祇園女御と呼ばれたということも含め、清盛を祇園と結びつけるために、さまざまな努力がなされた跡のように見受けられる。つまり、祇園側が清盛を祇園と結びつけたがっていた様子が窺われるのだと言える。

祇園精舎

祇園精舎については、 

僧園はジェータ太子と給孤独者スダッタ両者の名を冠して祇樹給孤独園と呼ばれ、そこに建てられた精舎を「ジェータ太子の森(漢訳で「祇陀樹」、略して「祇樹」)、身寄りのない者に施しをする長者(漢訳で「給孤独長者」、略して「給孤独」)の園林(園)にある精舎」と呼び、漢訳では「祇樹給孤独園精舎」、略して「祇園精舎」と称するようになった。
鳩摩羅什などが漢語に訳した表記が「祇樹給孤独園」であるが、玄奘三蔵の訳では「誓多林給孤独園」となっており原語により近い表記となっているが、あまり広まらなかった。

Wikipedia | 祇園精舎

ということで、祇園という言葉自体漢語で書かれたもので、かつ玄奘三蔵ではなく鳩摩羅什による表記であるということには注目したい。

牛頭天王

祇園社の主祭神は牛頭天王だとされるが、Wikipediaによれば

牛頭天王は起源不詳の習合神で祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていた。
牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされるが、実際にはインド、中国、朝鮮において信仰された形跡はなく、日本独自の神である。
祭神は当初は「祇園天神」または「天神」とだけ呼称されており、牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)の名が文献上は出てこないことから、最初は牛頭天王・素戔嗚尊とは異なる天神が祭神であり、やがて(遅くとも鎌倉時代には)牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合したものと考えられている。

Wikipedia | 牛頭天王

となっている。祇園が北伝、しかもシルクロードの途中亀茲国出身とされる鳩摩羅什と深い関わりがある一方で、牛頭天王に関わると見られる牛はインドまたは東南アジア方面からきたと考えられ、つまりこの段階で北伝と南伝が入り混じり混乱が起きた可能性がある。

津和野 弥栄神社

さて、津和野の弥栄神社は、神社の説明と、ウェブ上で見られる情報には多くの違いがあるので、公式の説明を書いておきたい。説明板を写して掲載していただいた旅人のブログ様には感謝いたします。

弥栄神社は、もともと祇園社として平安時代の貞観年間(870年ごろ)に創建されたと伝えられています。正長元年(1428)に、津和野城主吉見弘信が城の鬼門鎮護のために太鼓谷(滝の本)に遷座し、その十年後に祇園社は現在地へ移したといわれています。
享禄元年(1528)には、京都の八坂神社より再勧請しました。慶応三年(1867)に社号を滝の元祇園社から弥栄神社へ改められ、今日に至っています。
(中略)
鷺舞神事
五穀豊穣、災厄防除、祈願成就などを祈り、弥栄神社に奉納される神事です。
鷺舞は天文十一年 (1542)に津和野城主吉見正頼が山口の祇園会から移入したと言われています。
天文年間には戦乱の影響でいったん途絶えましたが、亀井氏二代藩主茲政が京都の祇園会から再度移入して、正保元年(1644)に四十年ぶりに復活しました。
京都や山口の鷺舞はすたれてしまいましたが、津和野の鷺舞はこの間、ずっと受け継がれていて、「弥栄神社の鷺舞」として国の重要無形文化財に指定されています。

旅人のブログ | 弥栄(やさか)神社(島根県津和野町)

となっている。祭神も、ネット上の情報では『日本書紀』表記の須佐之男命が多いが、実際の説明板では『古事記』表記の素盞嗚尊となっている。ネット上の情報では貞観年間創建の話は見当たらず、Wikipediaではむしろ正長年間に祇園社から分霊を勧請したことになっている。

貞観年間創建

貞観年間といえば、京都の八坂神社の創建伝承でも 

貞観18年(876)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことにはじまる。

八坂神社

とされており、これに重ねていると見られる。貞観十八年は清和天皇がわずか九歳の陽成天皇に譲位した年であり、さらにはその清和天皇の立太子を巡り、良房と紀名虎がそれぞれ真言僧の空海の弟・真雅と惟喬親王の護持僧・真済とに修法を行わせた、という伝説が残されている真雅が、奏請により貞観寺に座主職を置き僧綱の管轄外とする、ということがあったとされる。貞観寺は今の京都市伏見区深草にあったとされるが、現在ではその後の詳細はほとんどわかっていない。それと重ね合わせると、もしかしたらその貞観寺のあと、僧綱の管轄外となったということで、寺院としてではなく、神社としてその文脈を引き継いだのが京都の八坂神社だと考えられるのかもしれない。神社のそばに神宮寺が建てられ、それによって神仏習合が進められるという例は多くあると思うが、この八坂神社のようにお堂が建立されてから天神が降臨するという、神本仏迹説、あるいは反本地垂迹説とも言えるあり方を具現化しているところというのはそれほど多くはないように感じる。そんなこともあって、素戔嗚、そして牛頭天王という、外来神に仏教外の天王が垂迹するという、八坂神社独特の信仰形態が成立したのかもしれない。
それはともかく、いずれにしても、その貞観年間に津和野の弥栄神社の創建伝承も重なるということで、もしかしたらその時期の京都というのは津和野にあったのかもしれない、などという飛躍した妄想にも至ってしまった。もしそうだとすると、おそらく弥栄神社の創建自体はもっと遡るのでは、とも考えられるが、これ以上は妄想に妄想を重ねるばかりなので、創建の時代考証についてはここまでとしておきたい。

上で案内板の内容について参照させていただいたサイトには、元の祇園社が現在は境内社として残っているというようなことが書かれており、その残った建物は、神楽殿とは言わないが、とにかく壁板がなく外からシースルーになっているもので、元々は神楽殿的な舞台であったのではないか、との想像もできる。

正長元年

遷座が行われたという正長元年には、正長の土一揆が起こっており、貨幣経済の浸透に伴って、金融というものが社会に次第に染み渡ってきていたことがわかる。この遷座は、貨幣をあまり積極的に使いたがらない保守的な文化の中で、貨幣が祇園社に貯まるようになり、土一揆の発生によってそのことがリスクだと捉えられるようになって、遷座によって散財した、ということが考えられるのかもしれない。貨幣は宋銭が用いられていたのではないかと考えられるが、元の時代には、大陸では紙幣が主要な貨幣となっており、銭の役割は小さくなっていたのかもしれない。その間に日本に流れ込んだ銭が、あるいは南北朝の混乱を引き起こし、その後も金融の拡張に繋がっていったのかもしれない。日明貿易では日本から宋銭が輸出されたようだが、国内でだぶついていた宋銭を明に輸出することで貨幣価値の安定を図ったのかもしれない。あるいは、それによって国内での銭の価値が上がって、借財を返しづらくなったことがこの土一揆の原因となったのかもしれない。そんなこともあり、銭を吐き出すことに意味があろうと、公共事業的に遷座を行ったのかもしれない。10年後に現在地に移ったとあるが、その頃将軍義教の命による雲居寺大仏の再建の事業が行われている。そんなことも関わっているのかどうか。

享禄元年

享禄元年に京都の八坂神社から再勧請したとのこと。この年は、将軍義晴が近江朽木谷に落ちて、堺の義維と対立構図になっている。一方、その頃朝廷は、応仁の乱の時の後土御門天皇が五回も譲位を求めたが、費用がないとして認められず、その後後柏原天皇、後奈良天皇、正親町天皇と、費用がなくて即位式が挙げられない天皇が続いていた。つまり、応仁の乱以来都が都としてはほとんど機能していなかった可能性があり、仮に津和野が京都だったかも、という先にあげた妄想が正しかったとしても、もはやこの時期には都としての体をなしていない状況になっていたことが考えられる。そこで、この享禄年間に、事実上みやこを京都に明け渡したのだとして、八坂神社から再勧請した、という記録を残したのかもしれない。なお、享禄元年には大内義興が陣中で発病し、山口に帰国後没している。大内氏のことについてはまた後からまとめたい。
その後間もなく、天文年間に鷺舞が山口から導入され、同じく天文年間に戦乱の影響で途絶えたとなっている。天文年間には、毛利元就の前半生の山場とも言える郡山合戦が起こっており、鷺舞が導入されたという天文十一年には大内義隆の養嗣子で土佐一条氏の出身とされる恒持が討ち死にしている。天文二十年には義隆も大寧寺の変で自害しておりこの大内氏の滅亡と鷺舞は関わっているのかもしれない。

津和野の領主吉見氏

なお、津和野をずっと領していた吉見氏は、源範頼につながるとされる。範頼は源平合戦の時の平家討伐軍の中心的存在であり、名の知れた義経よりも実際に果たした役割は大きかったかも知れない。曽我兄弟が仇討ちをした富士の巻狩の後に頼朝の生死がわからなかった時、政子に対して自分がいるから大丈夫だ、というようなことを言って、それから不信感を得て伊豆に流されたという。その後は公的文書からは名が消えたので、どうなったかはわからないが、その子孫が吉見氏となったという。その名が出てくるのは南北朝以降のことのようで、西国の源氏系が承久の乱によって西国入りしたのが多いのに比べ、その時の動向がわからないのが気になるところ。個人的には元から津和野、あるいは範頼が三河守であったことを考えると川の合流点である、例えば山口県美袮町秋吉あたりを拠点としていた可能性があるのではないかと感じる。今では略字となったという話は否定されているようだが、美祢は元々美弥で宮だった、という可能性はないだろうか。石灰岩地形というのは長江上流部の棚田のあるところに近そうな印象も受け、その辺りからの渡来系が好みそうな地形ではないか、と感じる。もっともここもまだ訪れたことはないので、単なる印象論に過ぎない。要するに、吉見氏は源氏というよりもかなり古い渡来系ではないかと、個人的には感じている。それを南北朝期に武家方が取り込み、そして源平時代の人物の中では一番まともそうな範頼を祖とすることを決めたのではないだろうか。なお、『尊卑分脈』によれば、範頼の生母は遠江国池田宿の遊女とされているということだが、『尊卑分脈』は異本も多いということで、これが全ての写本に当てはまるのかということを調べることで、『尊卑分脈』の異本系統を確かめる一つの手掛かりとなるのかも知れない。

文脈の塊? 大内氏

大内氏は、血はつながらないが、大内惟信という人物が承久の乱の時、宮方の中心人物として名が上がっている。個人的には、大内氏というのは、渡来系、在来系を問わず、直近では惟喬親王と清和天皇の関係で、清和天皇が天皇となったことがおかしいと感じる人々がまとまって天皇を支えよう、として作った氏族なのではないか、という印象を持っている。元々の推古朝の時代に百済の聖明王の第3子琳聖太子が日本に移住し聖徳太子より多々良姓を賜ったのに始まると称しているが、まず祖を琳聖太子とする説は享徳2(1453)年に大内教弘が朝鮮国王端宗に呈した一書の中で自称したのが最初だということで、この時期は朝鮮も帝位をめぐってかなり混乱していたということもあり、それを安定させるためにそれを称した可能性もありそう。さらに、聖徳太子については、やはり仏教伝来についての文脈をまとめているのだと考えられそう。そして多々良氏というのは、たたら製鉄を思わせざるを得ず、それは鉄を作る人々であったと考えられそう。その技術は日本独自のものだと考えられ、そうなると、国内系の氏族である可能性も十分ありそう。その後大内氏を名乗るが、その初期には通字として盛の字を使っており、これは平家政権とのつながりを示すものだと思われ、そして大内自体はやはり惟信から繋がる流れなのではないかと感じる。そして吉見氏がその源氏との関わりの部分を代わりに引き受けた、ということになりそう。『吾妻鏡』が吉川氏によって保たれていたのは、平安末期から鎌倉初期における大内氏の存在を小さく見せるためだったと考えられるのかも知れない。その意味で、その『吾妻鏡』を集めたとされる右田氏が大内氏の一門であったというのは疑わしいのではないか、とも感じる。特にその『吾妻鏡』を集めた弘詮の孫が陶晴賢になるということで、右田、陶で大内を滅ぼし、毛利、吉川がその後を取りまとめる、という話の筋でまとめられたのではないかとも考えられる。

津和野街道

もうひとつ、厳島神社の外宮のある地御前から、(現在では地御前自体は通らず、廿日町中心部に近い方へ抜けているが)かつては津和野へ向けての津和野街道が走っており、古代から厳島神社と津和野との間に交流があったことが感じられる。また、幕末にかけて、廿日市の旧桜尾城城下に津和野藩の蔵屋敷があり、海に出るのならば日本海側の益田市に出た方がはるかに近いのにも関わらず、瀬戸内への玄関口として廿日市を選んでいたということも、古代からの流通経路の延長で考えるべきものなのかも知れない。

このように、津和野の文脈は非常に豊かであり、京都であったというのもそれほど大袈裟な話ではないのかもしれないし、反本地垂迹という意味で、弥栄神社から吉田という名につながるというのも十分に考えられるのではないだろうか。

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