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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(24)

備後吉備津神社

前回、『延喜式』で備後国一宮とされていると考えられている備後の素盞嗚神社について見たが、その『延喜式』には名前がないものの、一宮を称している備後の吉備津神社について見てみたい。

吉備津神社(きびつじんじゃ)は、広島県福山市新市町宮内にある神社。備後国一宮。旧社格は国幣小社。
地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と通称される。
吉備国が三国に分離された後の806年(大同元年)、吉備国一宮であった吉備津神社より勧請して創建されたと伝えられる。しかし、その約百年後の905年から967年にかけて編纂された『延喜式神名帳』に記載がないことから、実際の創建はもっと後であるとする説がある。現在、神社の名前が最初に確認できる史料は1148年(久安4年)の八坂神社の記録『社家条々記録』であり、境内の発掘調査でも12世紀以降のものしか出土していない。

Wikipedia | 吉備津神社 (福山市)

地元で「一宮さん(いっきゅうさん)」と通称されている、という部分で、少なからぬ揶揄のようなものを感じるのは私だけであろうか。つまり、地元ではやはり素盞嗚神社が一宮であり、こちらの吉備津神社はいっきゅうさんに過ぎない、ということなのだろうと私は受け止める。それは、隣の吉備色があまりに強いからであると考えられ、吉備国には、備後だけではなく備中にも吉備津神社が、そして備前には吉備津彦神社があり、あたかも強い一体感があったように感じさせている。しかしながら、備前吉備津彦神社と備中吉備津神社が山を挟んだ表裏にある、ほぼ一体の神社であることを考えると、一つだけ遠く離れた備後吉備津神社の異質さは際立っていると言える。

備前吉備津彦神社

それを確認するために、備前と備中の吉備津彦にかかわる神社をそれぞれ見てみたい。
まずは備前の吉備津彦神社

社伝では推古天皇の時代に創建されたとするが、初見の記事は平安後期である。神体山と仰がれる吉備の中山の裾の、大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源と考えられている。
延喜5年(905年)から延長5年(927年)にかけて編纂された『延喜式神名帳』には、備前国の名神大社として安仁神社が記載されているが吉備津彦神社の記載はない。しかしながら、一宮制が確立し名神大社制が消えると、備前国一宮は吉備津彦神社となったとされている。これは天慶2年(939年)における天慶の乱(藤原純友の乱)の際、安仁神社が純友に味方したことに起因する。一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社が、朝廷による藤原純友の乱平定の祈願の御神意著しかったとして940年に一品の神階を授かった。それに伴い安仁神社は一宮としての地位を失い、備前の吉備津彦神社にその地位を譲る事となったとされる。

Wikipedia | 吉備津彦神社

備中吉備津神社

続いて備中吉備津神社

創建
社伝によれば、祭神の大吉備津彦命は吉備中山の麓の茅葺宮に住み、281歳で亡くなって山頂に葬られた。5代目の子孫の「加夜臣奈留美命」が茅葺宮に社殿を造営し、命を祀ったのが創建とする説もある。また、吉備国に行幸した仁徳天皇が、大吉備津彦命の業績を称えて5つの社殿と72の末社を創建したという説もある。
概史
朝廷からの篤い崇敬を受け、国史では承和14年(847年)に従四位下の神階を受けた記載が最初で、翌年には従四位上に進んだ。仁寿2年(852年)には神階が品位(ほんい)に変わって四品(しほん)が授けられ、10世紀には一品(いっぽん)まで昇叙された。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では備中国賀夜郡に「吉備津彦神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
神階
六国史時代における神階奉叙の記録。
承和14年(847年)10月22日、無位から従四位下 (『続日本後紀』)。
嘉祥元年(848年)2月21日、従四位上 (『続日本後紀』)。
仁寿2年(852年)2月20日、四品、官社に列す (『日本文徳天皇実録』)。
仁寿2年(852年)8月27日時点、四品 (『日本文徳天皇実録』)。
天安元年(857年)6月3日、四品から三品 (『日本文徳天皇実録』)。
天安3年(859年)1月27日、三品から二品 (『日本三代実録』)
- 表記は『続日本後紀』と『日本文徳天皇実録』で「吉備津彦命神」、『日本三代実録』では「吉備都彦命」
六国史以後
天慶3年(940年)、一品に昇格。

Wikipedia | 吉備津神社
(一部表記改変)

となっている。

三社の比較

これを見る限りにおいては、備中、備前、備後の順に古そうに思われる。備中に関しては、承和年間から文献記録があり、天慶3(940)年に一品に昇格したことになっている。そしてこれによって備前吉備津彦神社も安仁神社から一宮の座を譲られることになったようだ。『延喜式』神名帳自体の年代比定にも問題はあるが、それにしても、とにかく吉備津三社の中で備中吉備津神社が唯一そこに記載されていることから、少なくとも現存の『延喜式』神名帳の編纂意図としては備中吉備津神社だけが存在するということだったということは明らかになっている。これに対して、備前吉備津彦神社に対しては
安仁神社、そして備後吉備津神社に対しては素戔嗚神社と大同元(806)年という年号が手がかりとして残されている。
三社の特徴をもう少し見てみると、備中吉備津神社と備前吉備津彦神社はすでに書いた通り兄弟社のようなもので、御神紋も共に桐(吉備津彦神社は菊も)を用いている。一方備後吉備津神社の御神紋は五瓜で、ここでも系統の違いが現れている。また、備後吉備津神社には神楽殿があり、そして祭りとしても夏越の大祓で茅の輪くぐりがあるが、備中、備前のものにはどちらもない。つまり、備後吉備津神社は、吉備系というよりも明らかに祇園系であり、社名だけを吉備津神社と名乗らされているという感じを否定できない。

備前安仁神社

ここで、備前吉備津神社からの手がかりとして残された安仁神社について見てみたい。

安仁神社(あにじんじゃ)は、岡山県岡山市東区西大寺にある神社。式内社(名神大社)、備前国元一宮。
主祭神:五瀬命
配神:稲氷命、御毛沼命
古くは「兄神社」と称していたと伝えられることから、初代天皇の神武天皇の「兄」に当たる五瀬命ほか二神を祭神としたもので、明治時代に定められた。
古文献では当社の祭神については様々な記述がある。社名より平安時代の参議秋篠安仁(あきしののあに)や右近衛大将安倍朝臣安人(あべのあそんやすひと)、和珥氏の祖神であるとするもの、天照大神、五十狭芹彦命(吉備津彦命)、また、単に当地の地主神であるとする説もある。
創建の年代は不詳。社伝では、神武東征の際に五瀬命が数年間この地に滞在し、神武天皇が即位の後に五瀬命ら皇兄たちをこの地に祀って「久方宮(ひさかたのみや)」と称したのが起源としている。
国史の初見は『続日本後紀』の841年(承和8年)2月8日条に「安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)」とあるもので、平安時代後期に編纂された『延喜式神名帳』では備前国では唯一の名神大社に列せられている。元々は当社が備前国一宮となるはずであったが、939年(天慶2年)における天慶の乱において当社が藤原純友方に味方したため、一宮の地位を朝廷より剥奪されたとされる。その後、備前国一宮の地位は天慶の乱勃発当時に朝廷に味方した備中国の一宮である吉備津神社より御霊代を分祀されて創建した吉備津彦神社(岡山市北区一宮)に移ったと伝えられる。

Wikipedia | 安仁神社

吉備津彦神社の前に備前国一宮だったとされる安仁神社だが、祭神も明治に定められ、それ以前のものが明らかではないこと、創建年代も不明であるということから、吉備津彦神社のライバル的存在としてあえて作られた神社ではないかと考えられる。夏越しの祭りで茅の輪くぐりが行われているというのも、吉備との違いを明らかにするためだとも言えそう。文献初見が『続日本後紀』の承和八(841)年で、『延喜式』神名帳に掲載されていることから、備中の吉備津神社と並んで書かれたものではないかと疑われる。備中吉備津神社と備前吉備津彦神社の距離の近さを考えると、本当にその間に国境があったのか、というのは疑うべき理由があり、元々一つの国で吉井川か旭川のあたりに国境があった可能性もありそう。天慶の乱の後に備前吉備津彦神社が創建されたようなので、その創建によって備前一宮を切り替えたのかもしれないが、元からあった国境線ならば、神聖な山の上にそれを引いた意味もわからないし、もし仮にこの時に無理やり国境線を西に動かしたのならば、わざわざ二つの吉備津彦に関わる神社の間に国境線を引く意味がわからない。藤原純友の乱との関わりが言われているが、伊予との距離のみならず、地理的にも海からは少し奥まっており、海と直接の関わりがあったかというのは少し疑わしく、その話もやはり少し信じ難い。

尾道艮神社

今度は備前吉備津神社の806年という年号を手がかりに、尾道にある806年創建の記録を持つ艮神社を見てみたい。

艮神社(うしとらじんじゃ)は、広島県尾道市長江にある神社。
祭神:伊邪那岐神、天照大御神、素戔男命、吉備津彦命
歴史
806年に建立された。但し資料には西暦で記されているので和暦で延暦25年か大同元年なのか、どちらかは不明。旧尾道市内で最古の神社といわれている。

Wikipedia | 艮神社 (尾道市長江)

尾道はお寺が多いので、最古の神社とされていても、情報は限られているが、そこに出ている情報は、806年創建で、祭神の中に吉備津彦命が含まれているということがある。

三つの吉備津の神社を挟む両社から見えること

備中吉備津神社、そして備前安仁神社が藤原純友の乱と深い繋がりがあるということになっているが、吉備津神社はかなりの内陸、そして安仁神社も純友と結びつけるのには難があるということを示した。その点、尾道ならば、陸海の要衝で、伊予芸予諸島とも近接していることから、もしかしたらこれが吉備津神社であったのかもしれない。可能性としては、三原が備前、尾道が備中、そして福山が備後、と現在とは逆方向の国割りだったかもしれないことが指摘できそう。もしそうならば、『続日本後紀』の段階で備中吉備津神社に神階を与えたことで、仮に現在の場所にそれが存在していなくても、尾道に吉備津彦命が祀られていることで、そこをベースとしながらいつでもその場所を切り替えることができるようにし、その大きな手がかりとしたのかもしれない。なお、備中吉備津神社は『日本文徳天皇実録』で神階が品位に変わっているが、『日本文徳天皇実録』の元写本は、既に現存しない三条西実隆本だとされ、そうなると室町期の写本が辿れる中で一番古いということになる。そこまでのどこかで書き換えがなされたという可能性を否定することはできないだろう。そして、それはもしかしたら六国史後の天慶三年の神階付与が品位で記録されていたので、それをバックデートさせたということも考えられる。その可能性があるということは、備中吉備津神社に関しての情報は常にどこかで書き換えされている可能性を考慮する必要が出てくることになる。吉備津彦を祀った神社については、そういった可能性を常に念頭に、さまざまな要素を考えながらその実態に迫る必要が出てくるのかもしれない。

『続日本後紀』

そうなると、考えるべきなのは、なぜ『続日本後紀』において備中吉備津神社への神階授与が行われ、それが結局天慶三年の一品(出典を確認できていないのでどういう話の中でそれが出てきたのかが特定不能ではあるが)にまで至らざるを得なかったか、ということになりそう。ここで、『続日本後紀』であるが、

『続日本後紀』(しょくにほんこうき)は、日本の平安時代に成立された歴史書。六国史の第四にあたり、仁明天皇の代である天長10年(833年)から嘉祥3年(850年)までの18年間を扱う。文徳天皇の勅命により斉衡2年(855年)に編纂が開始され、貞観11年(869年)に完成した。天皇の動静の記録を詳述し、天皇親政から摂関政治へうつる時代の根本史料である。編年体全二十巻からなる。
本書の編纂は文徳天皇の斉衡2年(855年)、藤原良房、伴善男、春澄善縄、安野豊道により始められた。その後、良房の弟・良相が加わるが完成前に逝去、善男は応天門の変で流罪、豊道の下総介赴任などがあった。だが、編纂者の追加が行われなかったために最終的には藤原良房と春澄善縄の2名のみが編纂者として残った。このため、編纂方針については良房の、記述については善縄の意向が強く反映されたといわれている。
六国史中、初めて天皇一代を対象にしている。承和の変もこの書に記載されている。本書の『続日本後紀』という書名は、『日本後紀』に続くという意味であるが、『続日本紀』は九代、『日本後紀』は四代と複数の天皇の治世を対象としているのに対し、本書は仁明天皇一代の歴史である。原則的に1年に1巻という構成になっているが、天皇の即位年である天長10年(833年)と承和の変があった承和9年(842年)の記事は2巻構成になっている。

Wikipedia | 続日本後紀

ということで、文徳天皇から清和天皇にかけての十五年間かけて一代十八年の史書を書くという、念入りというか、時間的にはかなり丁寧に作られたというべきなのだろうが、途中に文徳天皇の突然の死やその後継をめぐる惟喬親王と惟仁親王との関係、そして応天門の変を挟むということで、内容の落ち着きとは裏腹に、編纂過程自体はかなり政治的闘争に満ちたものであったと言えそう。そして天皇の後継争いには真言宗の僧真済と真雅が絡んでいたということで、仏教がかなり政治に深く干渉していた時代であったと言える。

尾道・真言宗・吉備津彦命

そんな中で、尾道という真言宗寺院が多くある地域に、吉備津彦命も祀った艮神社 が現れ『続日本後紀』にも出てきて、そしてその後に吉備津神社も出てくるということになる。つまり、艮神社の吉備津彦命が先にあり、それから吉備津神社が現れることになるのだ。そして吉備津神社の現存最古の建物は、南北朝時代の延文二(1357)年に再建された南随神門で、それ以前の建物の痕跡があるのか、というのは定かではない。つまり、吉備津神社自体神階が与えられた時にどこにあり、そしてその後いついかにして現在地に至ったのか、ということが明らかにはなっていない、ということがある。
それを考えると、吉備津神社というのは、真言宗の広がりと共に、吉備国におけるその存在を固めていった人々が祀ったものなのかもしれない。そしてそれは南北朝時代に深く絡んでいるのかもしれない。
吉備の謎を解くには、尾道にもう少し迫ってみる必要がありそうだ。

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