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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(15)

戦前昭和財政の様相1

日本における財政政策がどのような経路を辿って発展してきたのかをみるために、戦前の日本財政について公式記録から見てゆきたい。本来ならば明治維新以降ずっと追うべきだし、そうしないと見えないことがかなり多くあるのだと思うが、今回はそこまでやると範囲が広がり過ぎてしまうと感じるので、ここまで見てきた昭和金融恐慌に繋げるということで、昭和に入ってからのものを見てゆきたい。基礎資料は、『昭和財政史』(戦前編)。全十八巻の大分なものなので、全てに目を通せるかというとそうはいかないだろうから、おそらく見落としも多くあるのだと思うが、目立つところは押さえられると思うので、そんなことを中心に見てゆきたい。

『昭和財政史』編纂方針

まず、ウェブ上の解説から、

昭和15年(1940年)に『明治大正財政史』の編纂が終了した後は、戦火の拡大により大蔵省の修史事業は一時断絶しましたが、終戦後間もない昭和22年(1947年)から『昭和財政史』シリーズの編纂が始まりました。
(対象期間:昭和元年(1926年)~20年(1945年)8月/編纂時期:昭和22年(1947年)~39年(1964年))
昭和元年から終戦までの期間を対象とした『昭和財政史』全18巻は、「『明治財政史』、『明治大正財政史』が資料の集成に重点を置いた」のに対し、「読む財政史とするために記述史として」まとめられました。また、時期的に戦時財政が主な内容となったことから、その記述が「いささか自己反省的な色彩」(監修者であった大内兵衛東京大学名誉教授(当時))を帯びている点に特色があるとされます。

とあり、戦前の財政を反省を込めて編纂されたことを自覚しているようで、戦争の記憶からは逃れられない、ということを感じさせた。ただし、それにしても戦争直後に編纂が始まったということで、その時期の空気を掴むのにはとても良い文献資料であるといえよう。
ついで、池田勇人が大蔵次官だった昭和22(1947)年から、その池田勇人が総理を退任した昭和39(1964)年にかけて、まさに池田勇人時代に編纂がなされたものだということには注目しておきたい。

序説から見る編集意図、そして背景

ではまず序説からみると、歴史は断面ではない、として歴史の継続性を指摘しながらも、「本論に入る前に、われわれの歴史の眼を開く意味で、われわれの歴史以後、すなわち終戦から今日(昭和三十五年末)までの間における日本財政の問題とその解決についての経過を一瞥しておくことにしよう。」とあり、結局終戦というものを一つの断面としているということから始めざるを得ないという、戦争というものの断絶性の大きさが窺われる。

戦争被害についての記述

ついで、戦争による被害について述べられている。
日本本土(現在の領域)に対する空襲と艦砲射撃などによる一般国民の被害は、死者三十万、重軽傷三十四万、行方不明二万、合計六十六万に上り、・・・
住宅だけで言えば、全焼二百四十万戸、半焼九万五千戸で銃後人口の一二%が被害者であった。
とある。
なお、現在のWikipediaでは、空襲だけで 

空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災、被災人口は970万人に及んだ。被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。その他、多くの国宝・重要文化財が焼失した。米国戦略爆撃調査団は30万人以上の死者、1,500万人が家屋を失ったとしている。
被害市町村数   430
死者数      562,708
行方不明者数   25,853
負傷者数     299,733
損失家屋数    2,342,447

Wikipedia | 日本本土空襲

被災家屋数はほぼ変わらない中、死者数は倍近くになっている。
いずれにしても家屋で1割以上の被害があったのが、死者数では戦後直後で0.4%弱、現在でも0.7%程度と大きな開きがあることがわかる。これに、日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮した米空軍司令官カーチス・ルメイ大将の以下の言葉を考え合わせると、 

我々は軍事目標を狙っていた。単なる殺戮のために民間人を殺戮する目的などはなかった…我々が黒焦げにしたターゲットの一つに足を向けてみれば、どの家の残骸からもボール盤が突き出ているのが見えたはずだ。国民全員が戦争に従事し、飛行機や弾薬を造るために働いていたのだ…大勢の女性や子供を殺すことになるのはわかっていた、だが、我々はやらねばならなかった」と当時の日本工業生産の特徴でもあった家内工業のシステムの破壊が目的であり、仕方なかったとも述べている。

Wikipedia | 東京大空襲

空襲というのは無差別爆撃というよりも、経済爆撃であった可能性も浮かび上がる。このような家内工業の仕組みが戦争を支えていたのか、ということについてはさらに考える必要がありそうだが、戦争と経済、という意味においては見逃すことのできない発言だと言えそう。
なお、私は空襲の実態自体についてもさらに考察を加える必要があるのではないかと考えている。

生産設備に対する空襲被害について、

被害の一番大きいのは石油精製で五八%の被害、ついで真空管、硫安、自転車などで、それぞれ五〇%以上の被害であったが、水力電気、鉄鋼など基礎的生産材の被害はそれほどでもなく、その能力は五〇%以上が残った。そして戦時中は電力や鉄鋼事業に対してはとくに巨額の投資がなされて、その拡大率が非常に大きかったから、これら軍需的な基礎産業においては、このような損害にもかかわらず、終戦当時においてはその能力はたいてい戦前のそれよりも大きかった。一方では、繊維産業、食料品産業等においてはその能力の減退は大きく、そのうちには一五%、二〇%にまで低下したものがあったのである。

昭和財政史 | 序説

という。経済安定本部調査による資料には全く出ていない繊維産業、食料品産業の破壊度合いがここまで大きいことを見ると、先ほどのルメイの発言自体も少し見直さないといけないのだろう。要するに、家内工業で作られていたのは、軍需品というよりも、繊維や食料品といった生活必需品であり、それが破壊されたことで日本経済の基盤が崩壊した、ということになりそう。経済爆撃にしても、そんな戦争とは全く関わらない日常製品工業を破壊するというのは、やはり非人道的という非難は免れることはできないのだろう。

石油精製の被害が目立つが、これはもしかしたら、石油精製、これはもともと日本の技術であった可能性もあるのだが、その技術力が日本の方が高かったので、優先的に破壊した、という可能性もありそう。石油が戦争の原因だったという俗説は、技術的に日本の石油精製技術が優れていたことが原因であった、という意味ならばもしかしたら的を射ているのかも知れない。
それを考えると、空襲が経済爆撃であった以上に、戦争自体が経済戦争、特に戦間期の貿易不均衡の原因となったとも言えそうな、日本の生産力の破壊を目指したものであったという可能性は十分に考慮に値しそう。

米国主導の復興計画の内容

ついで復興への展望が語られる。

そのために新設された経済安定本部はそのプログラムを策定した。昭和二十三年五月に発表された「日本経済復興計画」はそれであった。それは、昭和二十四年から二十八年に終る五カ年計画である。当時まだインフレーションは十分に収束せず、従って円と外国貨幣との関係が動揺をつづけており、ためにこのプログラムの上で必要な原料を輸入する資力は日本にはなかったのであり、それで本案も何らかの方法でアメリカが五年間に二十億ドルぐらい融通してくれると仮定してのものであった。

昭和財政史 | 序説

とあり、その計画中には、石炭、粗鋼、普通鉱、綿絲、紡錘数、米、小麦および大麦が並んでいる。
このうち、石炭と米は国内で取れる主要な資源であり、輸入の必要はない。戦前に、石炭がありながらわざわざ石油の輸入を進めたのは、アメリカとの間の貿易不均衡を是正するためだといえ、にも関わらず、それが日本の石油精製能力が高すぎるとなると破壊した上で石炭に再度切り替えさせるというのも、何ともご都合主義だと感じる。
米は麦と共に生産量が伸びることになっているが、破壊された食料品産業と相まって、それは食生活の単純化をもたらすことになるのだと言える。戦後パンを含んだ給食の導入によって栄養状態が確保された、などともいうが、豊かな食料品産業を徹底的に破壊しておいて一体どの口でそれをいうか、という感慨は避けられない。米が滅多に食べられなかった戦前の食生活が貧しかったと考えることもあるのかもしれないが、様々な穀物を合わせて食べた方が栄養バランスが良くなる、という長年の知恵の成せる業だと言えるのかもしれない。特に、脚気の治療には玄米が有効だ、ということを考えると、わざわざ白米のモノカルチャーにするということ自体の是非も問われるのかもしれない。

一方、鉄鉱石、綿花、麦は輸入が必要になると考えられるが、鉄に関して言えば、鉄鉱石からではないが、砂鉄から作るたたら製鉄の技術は、現状でも最新鋭の製鉄設備を持ってしてもそれ以上の質は確保できないと考えられている。手間暇かけてできる限り酸素が吸着しないようにするには、単なる技術よりも根気と時間が必要になるという、科学的とも非科学的とも言えるような明白な理由によって、最先端の科学技術でも追いつかない世界を築き上げているのがたたら製鉄なのだと言える。そこに、鉄鉱石を原料とする高炉の技術を導入させて、たたらは古くて劣った技術であると思わせるために、貴重な鉄鉱石の輸入を認めさせたのだとも考えられそう。そうしてみると、いわゆる傾斜生産方式とは、アメリカ、西洋にとって都合の良い技術体系に日本を効率的に押し込むために、内国産石炭を高炉建設に注ぎ込む、という方式を取らせたのだとも考えられそう。これによって、日本独自の技術体系は、ほぼアメリカのコピーのような形を取らざるを得なくなり、だから戦後の主要産業がアメリカで発展した自動車の大量生産にならざるを得なくなったと言えるのだろう。
綿花については、戦前の繊維産業の中心は絹であったと考えられ、それをわざわざ放棄させて、競争の激しい綿絲、綿織物を導入させるというのは、これもまた、戦前の主要輸出品が絹製品であったことを考えると、日本独自の、比較優位を持つ産業を潰すための計画だとしか思えない。日本の商社は綿関係の商売から発展した会社が多くあるが、それが本当に戦前からある会社であるのか、というのは、戦前の絹の強さを考えると、容易く信じられるものではない。戦前から綿取引をしていたのだ、という話を作ることで、絹の歴史について忘却の彼方に追いやってしまうということを狙っていたのではないだろうか。ただ、貿易統計には数字が出ているので、綿取引があったこと自体は間違いないのだろう。これは、日本の繊維産業自体が強かったので、綿製品を作ることも、特に第一次世界大戦で世界の供給力が落ちたタイミングでは、日本に対して求められたのかもしれない。
麦に関しては、二毛作で作るという手もあったのかもしれないが、日本ではそれほど定着しなかったようだ。正確には昭和36(1961)年に国内生産ピークの約178万トンを記録したが、その年に農業基本法が制定されたこともあり、農業生産の多様化の影響を受けたか、一気に生産量が減少し、輸入依存度が高まっていった。これは、朝鮮戦争を境に日本からの輸出が急増しており、それを緩和するためにも輸入を増やす必要が出てきたのかもしれない。結局池田没後の昭和40(1965)年に初めて輸出が輸入を上回ることになった。農業政策も、輸出動向を見ながら定められていたのかもしれない。
参考:戦後小麦政策と小麦の需給・生産 横山英信 

このようにアメリカの顔色を伺う戦後現代化戦略をとらざるを得なかった日本が、果たして将来に向けて何らかのビジョンを打ち出しえるのだろうか?その軸となる考えは一体どこから出てくるのだろうか?そこをはっきりさせるためにも、第二次世界大戦に至るまでの近代化、国際化の経路というのは、もっとしっかりと精査されるべきではないだろうか。

なんかまとめで書くような内容を最初に書いてしまった。次回からは戦前財政についてもう少し中身に迫ってみたい。

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