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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(5)

原爆へと至る道

今度は未来について書くべきなのだが、出発点を原爆とした以上、なんとかその起点とうまく繋げていかなければならない。そこで考えたいのは、原爆はいかにして広島で既成事実となって行ったのか、ということだ。それを読み解くには、やはり前々回も書いたように、宏池会の得意とする財政政策がいかにして発展していったか、ということを読み解いてゆく必要がありそう。戦後においてそれを主導したのが大蔵官僚出身であった池田勇人であるというのは揺るがないところであろうが、池田勇人がいかにしてその手法を自家薬籠中の物として行ったのか、ということについてはなかなか明確には説明しがたいものがある。そこでNonfictional-Fictionの出番となり、想像力を駆使してゆきたい。

統計から見る戦前財政

まず、戦前の歳出、そして債務の統計を見てゆくと、財政の急拡大の転機となったのは、やはり2・26事件で高橋是清が殺害されたことだと思えるほどに、昭和11−14年あたりで急速にその規模が拡大している。歳出は確かに産業経済費でも一定程度伸びているのだが、起債目的別残高を見ると、それはほとんど軍事目的で起債されていることがわかる。高橋是清の後の大蔵大臣を見てみると、町田忠治が十日程度、その後廣田内閣で積極財政への道を切り拓いた馬場鍈一による馬場財政が口火を切り、短命の林銑十郎内閣での結城豊太郎を挟んで、満を持しての近衛内閣で賀屋興宣、そして池田成彬が大蔵大臣となった頃から歯止めの効かない財政急拡大が始まる。結局賀屋興宣は太平洋戦争中の戦費調達を国債乱発で行った張本人となってゆく。この辺りの記録はどこまで信じて良いのか少し引っかかってはいるが、賀屋は広島出身とされ、そこで広島と積極財政の文脈が重なってくることになる。

池田成彬から広がる歴史的世界

一方で三井銀行出身の池田成彬は出羽米沢出身とされる。米沢藩は上杉家が藩主を務めていたが、上杉家は元々丹波あたりが出身地とされる。一方で、池田勇人とともに宏池会を立ち上げた同じく大蔵官僚出身で丹後宮津生まれの前尾繁三郎は京都二区から出ており、それは丹波地方をも含んだ広大な選挙区となる。丹波地方は明治維新の時に西園寺公望が指揮をとって進出したとされ、そんなこともあってかその文化的差異も無視して丹波地方は京都と兵庫で分断され、どうしても海への道が欲しい京都の野望に従属せざるを得なくなったのだと言えるのかもしれない。この丹波地方は、戦国時代には波多野氏が拠点としていたとされ、そしてその波多野氏は、鎌倉時代には曹洞宗の道元を支援して、越前の永平寺を立てた道元の大旦那となったという。

北陸に積み重なる仏教的文脈

北陸には永平寺以外にも、能登に今は横浜に移った總持寺があり、そして室町時代から一向一揆が非常に盛んだという宗教的背景がある。しかしながら、おそらくその元となっているのは、仏教というよりも白山や立山といった山への山岳信仰であり、そこに仏教が入ってきて干渉してくるのに対してどう対応するのか、ということになって、一番寛容度の高い浄土真宗を採用した、というような経緯があるのではないかと感じる。もちろん、公式な歴史では、室町後期からすでに一向一揆が加賀や越前に広まっていたということになっているので、こんな話はなかなか受け入れられないのだろうが、私は実際にはそれは明治維新後、しかもかなり下った、もしかしたら昭和になってからの話ではないか、という感覚を全くの個人的に持っており、そうなると、第二次世界大戦というのが北陸にとっては仏教を最終的に受け入れたという大きな転機となっているのかもしれない、ということも感じている。

さらに重なるFictionの山

北陸は富山の薬売りでも知られるが、商売が非常に盛んであった可能性があり、今でも非常に立派な構えの家が多くあって、その豊かさが偲ばれる。そんな北陸の富を同一文化圏に組み入れること、もしかしたら、それは戦時国債の販売によってその富を吸い上げる、というようなことが行われたかもしれず、それが結果として戦時下の財政を支えたのかもしれない。そして、北陸の一向一揆、特に富山や能登では、越後の上杉謙信がそれを征伐した、というような話になっており、もしかしたら池田成彬がその話を持ち込むことで文脈を切り替え、それによって富の収奪を図ったのかもしれない。さらには下越地方には上杉家の家臣に新発田重家という武将がいたとされ、上杉氏に対する反乱の話が残っているが、それと織田信長の家臣で越前北ノ庄の城主となったとされる柴田勝家の話も重ね合わせたり、さらにはその織田氏が元々は北陸の出身であったという話を流したり、あるいは佐々成政という武将が山越えして三河に行ったり国替で九州へ行き、むしろ出世とも言える肥後一国を得たが反乱に手を焼いて改易になったり、もっと遡ると、源平時代の木曽義仲や義経の奥州行き、そしてもしかしたら白村江の戦いでの安倍比羅夫であったり、神功皇后の夫として八幡神にもなぞらえられる応神天皇の父親に当たる仲哀天皇との関わりを示唆したり、というあの手この手の作り話を積み上げてゆくことで、北陸の統合を進めて行った可能性があり、いかに明治新政府が北陸というものを重視し、なんとか一体化したいと策を巡らせていたかが見てとれる。

北陸の富の源泉

この北陸の富の源泉は一体どこにあったのか、ということを考えてみたい。基本的にそこは山岳信仰の中心地ということで、山伏のような山から山を渡り歩く人々のもたらす情報やそれを用いた交易ネットワークがそこを中心に展開されていたということがあるのではないだろうか。だから、そこを押さえてしまえば、そのネットワークに新政府の情報を流し込むだけでうまく情報が流れるメディアのような役割を確保できる、ということがあったのかもしれない。メディアのような広く流れる情報は、特に近代に入ってある程度の大量生産ができるようになると、それ自体商売の大きな武器となり、富の源泉となったのではないかと想像される。商売として考えられるのは、戦後に山がどこもかしこも建築用途の杉林になって行ったことを考えると、人口急増に伴う木材需要というのが大きな利益の源泉だったかもしれない。特に、近代化に伴って中国地方での鉄生産が盛んになったとしたら、鉄生産には火を起こすための木材が大量に必要になるということから、中国地方での木材生産が難しくなり、その代わりとして北陸、そしてその後背地の飛騨の木材というのが注目を集めたのかもしれない。

北陸の日本への統合過程

そうして集まった富の行き先をなんとか掴もうと、さまざまな宗教的手段、それは禅宗から浄土宗、そして浄土真宗まで加わった、あるいは能登方面でその影響を多少感じる日蓮宗といった仏教であったり、またかつて金沢に入っていた前田氏に匿われたともされる高山右近というキリシタン大名のことを考えればキリスト教などもその動きに関わっていたかもしれない。いずれにしても、そういったことの積み重ねで、北陸の元々の文脈はすっかり上書きされてしまい、そして日本に統合されて行ったということになるのかもしれない。それは時期的には、先にも書いた通り、昭和、しかも本格化したのは戦後ではないかと感じる。

財政急拡大の実態

その文脈上書き部分に池田成彬が絡み、その前に大蔵大臣を務めた広島出身の賀屋興宣とともに財政急拡大の先鞭をつけたのだと言えそうだ。そして、その財源は、国債の増発もさることながら、高橋是清がずっと拒否し続けてきた増税が、その没後急速に進み、毎年の如く増税がなされるようになった行き、それが財源の担保となって行ったのだと言える。一般的には高橋是清を日本のケインズのように扱い、財政は高橋是清が拡大させたのだ、というような印象になっているが、高橋は財政の拡張に命をかけて反対し続け、それによって軍国主義化の進展を食い止めてきたのだと言える。それが、その没後に、大蔵官僚出身や銀行出身の大蔵大臣によって急激に国債増発、増税によるなんの分別もない財政拡張路線へと突入して行ったというのが、データの示すこととなる。

経済的に見るとあまりに皮肉な日本の戦争への道

さて、そのように急拡大して行った財政のつけはどこかで払わなければならないものであった。戦争に勝てば賠償金という手もあったのだろうが、すでに第一次世界大戦のドイツへの賠償問題で、戦争による債務返済というのは事実上道を封じられていたのだと言って良さそう。そうなると、ハイパーインフレを起こして借金を帳消しにするくらいしかもはや手段はなく、そのためには戦争には是が非でも負けなければならない、という皮肉極まりない状況になっていたのだとも言えそう。戦争に勝ってしまえば国の信用度が上がってデフォルトができなくなってしまうから、負けたどさくさで借金を踏み倒すしかない、という、経済的な理由で負けるべき戦争をしなければならない、という極めて現代的な、おそらく歴史上他に例のない戦うべき理由で戦争を起こし、そして負けたのが、日本という国だったのではないだろうか。

全く筋の通らない原因とその帰結

その原因を探るのならば、一義的にはその借金の山を積み上げ始めた2・26事件以降の軍部拡張主義者とその財源を支えた大蔵大臣、大蔵官僚、あるいは金融業界ということになるのだろう。2・26事件が陸軍主導によって行われたことを考えると、そのケリをつけるにはなんらかの形で陸軍に責任を取らせるしかなくなり、だから太平洋戦争を始めたのが東條英機である必要があり、そして陸軍の首都とも言える広島で終わらせるというというのも必然であったと言えるのかもしれない。ただ、広島に言わせれば、陸軍の高官に広島出身者がいたかと言われれば目立つ人物はおらず、むしろ海軍の加藤友三郎が軍人としてはよく名を知られており、またその拡張財政政策が始まる前に開催された昭和産業博覧会には海軍参考館ができたり、海軍艦艇の一般参観が行われたりと、陸軍ベッタリでは全くなかったのであり、広島で終わらせるのが必然などと言われても全く納得の出来ようのない話だったと言える。

帝人との関わり

では、この筋の通らない話がいかにして広島につながってゆくのか、ということを考えてみたい。そこで注目したいのが帝人、元々は帝国人造絹絲と呼ばれていた会社だ。この会社は鈴木商店番頭の金子直吉と深い繋がりがある。以下鈴木商店記念館のウェブサイトから引用したい。

東京帝大応用化学科卒で米沢高等工業学校(現・山形大学)講師であった秦逸三と東大時代の同窓である久村清太は人絹を研究し、金子に研究の援助を求めた。秦は以前、神戸樟脳専売局に勤務しており、金子に職の相談をした際に人絹の研究をすすめられた経緯がある。また久村は艶消レザーの特許を取得し、鈴木商店とともに「東京レザー合資会社」(後に鈴木商店直系の東レザーに吸収)を設立していたことから、二人とも金子とは面識があった。
大正3(1914)年、鈴木商店は米沢高工に寄付をし、秦らの研究を支援。その後、東レザー(後に東工業に改称)の米沢人造絹糸製造所を実験工場にて工業化に成功させる。そして大正7(1918)年、米沢で帝国人造絹糸(現・帝人)を設立し、初代社長には鈴木商店の鈴木岩蔵が就任した。しかし商業化までの道は険しく、金子は秦・久村の二名をそれぞれ欧米に派遣し、ロンドンの高畑誠一にも支援を求めた。
その後、大正10(1921)年に広島工場、昭和2(1927)年に岩国工場、昭和9(1934)年に三原工場を操業させ生産量は飛躍的に拡大する。そして帝人の生産量は英国の全生産量と匹敵する規模となり、世界の一流企業として名を馳せることになる。
一方で創業の地である米沢工場は設備が旧式となったことから昭和6(1931)年に操業を停止した。

鈴木商店記念館 鈴木商店の歴史 人造絹糸の開発、帝人の歴史

ここで気になるのはそこに出てくる地名だ。創業の地の米沢は、上に挙げた通り池田成彬の出身地、工場を建てた広島、岩国、三原はそれぞれ毛利、吉川、小早川という毛利三兄弟と深い繋がりがある土地となる。この帝人という会社は、昭和9(1934)年に帝人事件という疑獄事件の主役となっている。元々鈴木商店系だったこの会社が、昭和2(1927)年の鈴木商店の倒産によって、その株22万株が台湾銀行の預かりとなった。それを番町会という財界人のグループを通じて買い戻すという動きが疑獄事件となったのだ。その背景については更なる検討が必要であるが、この動きのアイディアを出したのが広島呉の下蒲刈島浄土真宗本願寺派の弘願寺を実家とする永野護だったという。この事件は岩国工場ができた直後に表面化したようで、つまり鈴木商店を広島まで引っ張り出して台湾銀行絡みで破綻させてそれを乗っ取るという動きだったようにも見える。この時の鈴木商店の破綻は、台湾銀行がコール資金を絞られて新規融資の停止に追い込まれたためで、そのコール資金の引き揚げを主導したのが当時三井銀行の常務を務めていた池田成彬だったとされる。つまり、岩国工場が完成し、運転資金が必要となったところを狙い撃ちにしてコール資金を絞り、工場が動かないようにして破綻に追い込み、それを三原工場ができた年に永野護が買い取って世界に冠たる企業にして行った、ということになりそう。年初に発覚した事件の年の10月に工場が完成しているということだが、株が預かりで株主が定まっていなかったとしたら、いったいこの工場建設の意志決定は誰が行ったのだろうか。

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