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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(7)

鈴木商店破綻の背景

未来に向けて、の方は、帝人の話までした。本来ならばここで資本主義改革のためのVisionary-Essayに取り組みたいところだが、ちょっとまだ資料が足りないので、金融絡みのAnalytical-Essayをかけるところまで書いてみたい。

近代最初のグローバル化時代

ずっと気になっているのが、なぜ鈴木商店が破綻に追い込まれたのか、ということなのだが、それはそこだけを追っていても多分よく見えてこないのだと思われる。それは、19世紀の後半になってグローバル化が一気に進み、にもかかわらず、経済制度も金融制度もその経済統合の速度に全く追いついていなかった状態で起こらざるを得なかった調整過程の一つだったと言えるのかもしれない。そしてそれは、恐らく今のグローバル金融経済体制に対するオルタナティブ的な要素がふんだんに含まれているので、今に至るまでその話が消えずに、棘のように深く残っているのだと思われる。つまり、その謎を解き明かすことによって、現在のいわばグローバル資本主義の抱える問題が立体的に浮かび上がってくる可能性がかなりあるのではないかと感じる。そこを目指して、うまくまとまるよう考えてゆきたい。

古典的金本位制

まず考えるべきなのは、この現代的、というよりも近代的というべきだろうが、その経済体制ができたのは、1873年にドイツ帝国が普仏戦争の結果として得た金を原資として銀貨から金貨に切り替えるという古典的金本位制を導入したことから始まったということだろう。それに影響されてラテン通貨同盟を構想していたフランスも同じ年に銀貨の鋳造をやめて金の価値を固定し、アメリカでも73年鋳造法ができて銀貨の鋳造を禁止して金本位を打ち立てた。アメリカではその前に南北戦争があり、そこでグリーンバックが濫発されたこともあり、その価値を安定させるためにも金本位を導入するのは必須であったと言える。63年に成立したナショナルバンク法によって、大量に設立されたナショナルバンクが財務省債券を担保に紙幣をどんどん発行する、という、こちらの方が現在の金融経済制度に近いやり方がとられており、しかしながらまだ連邦準備銀行制度、すなわち中央銀行制度が存在しなかったので、それが故に銀行の破綻は財務省債券の信用不安には結び付かず、個別銀行の信用問題に止まったという、うまくいったのか行かないのかよくわからないような仕組みであったと言える。これには、ゴールドラッシュという僥倖もあり、債務返済をすべて金で行うことができたという非常に特殊な条件が整っていたということは無視してはならないだろう。

世界を席巻した古典的金本位制

75年には北欧諸国とオランダが、81年にはオスマントルコが、92年にはヨーロッパ最後の銀本位の砦とも言えたオーストリアハンガリーが、そして97年にはロシアが金銀比率を固定して古典的金本位制に突入した。日本ではドイツに先立って71年に新貨条例を出して金本位を定めようとしたが、結局銀貨の流通が止まらず、ようやく日清戦争後にそこで得た賠償金を元にした上で、97年に平価を半分に切り下げた貨幣法を施行して金本位を打ち立てることになった。そこに至るまでの経済社会の混乱は非常に激しいものだったが、ここではそれに触れることはできない。その後に銀が中心で行われていた太平洋交易の両拠点フィリピンとメキシコでも金本位が導入され、ほぼ世界中に金本位制が行き渡ることとなった。

近代最初の金融危機 1907年パニック

その後、日露戦争を挟んでアメリカでは1907年に金融パニックが発生した。これは銅の会社の買い占めが失敗したことでそのプロジェクトに絡んだ動きが全て止まり、それで金融機関に取り付けのような騒ぎが一斉に起こり、破綻が相次ぎ、株価も暴落して史上8番目の下げ幅を記録したという金融パニックだ。この騒ぎによって、中央銀行という最後の貸し手がいないということのリスクが認識され、1913年に連邦準備制度が成立することになる。クーン・ローブのジェイコブ・シフやポール・ウォーバーグはパニック以前から中央銀行制度の導入を主張してきたということから、その導入のために危機が演出された可能性もありそう。いずれにしても、古典的金本位制における最初の大きな金融危機はこの1907年のパニックであったと言って良さそう。

世界大戦と古典的金本位制の崩壊

連邦準備制度ができた翌年の1914年には第一次世界大戦が勃発し、各国は金本位制から離脱している。アメリカの連邦準備制度ができてすぐに何らかの金融混乱が発生してそれに対処できないとなると、中央銀行制度自体への信頼が大きく揺らぐことも考えられ、それに対するリスクヘッジとしてここでも戦争が煽られた可能性もありそう。ただ、アメリカの金本位制離脱は、1917年アメリカが大戦に参戦した後のことになる。この年は二月にロシアの二月革命が起き、三月にはロシアニコライ2世が退位し、四月にアメリカがドイツに宣戦布告、それに先立って日本も参戦、九月にドイツがリガを占領し、その月にアメリカが金本位から離脱、その後を追うように二日後に日本も金輸出を許可制として事実上金本位から離脱した。十二月にはロシアとの間で講和交渉が開始された。このタイミングでの離脱というのは、ロシア革命の進展が大きく関わっているようにも感じるが、今のところはそこまではアプローチできない。

金本位の行方

その後、アメリカは2年で金本位に復帰したが、日本は他の主要国が全て復帰してもまだ戻ることができず、昭和5(1930)年になってようやく復帰したが、翌6(1931)年には再び輸出禁止に追い込まれてしまった。鈴木商店の破綻とは、この長いプロセスの最終盤に起きたことで、むしろ鈴木商店を破綻に追い込んだので金解禁ができるようになった、と見ることができるのかもしれない。

池田成彬の動き

これだけではまだまだ何も見えてこないので、もう一本、池田成彬という補助線を引いてみたい。池田は明治23(1890)年から28(1895)年にかけてアメリカのハーバード大学に留学したという。実はこの時期、ハーバードは40年にわたって学長を務めたチャールズ・ウィリアム・エリオットによる改革が進行中であった。エリオットは超絶主義的な考え方に取り憑かれており、池田もそんな影響を受けたのかもしれない。この時期のハーバードからはほとんど人材が出ておらず、せいぜい池田に少し先立つセオドア・ルーズベルトの名前が目につく程度だ。ビジネス界などでも特に目立った人物がいるわけでもなく、何らかのネットワークができたのか、と言われても、特に指摘はできなさそう。ただ、エリオットはユダヤ人の入学人数制限を外したとされ、ユダヤ人学生比率が上がっていた可能性もあり、そう言ったネットワークとはつながったのかもしれない。

帰国後、『時事新報社』を三週間でやめ、三井銀行に入ったという。『時事新報社』は、三井銀行で理事として池田を支え、のちにその舅ともなる中上川彦次郎がその少し前に社長を務めていたということで、中上川につながるために『時事新報社』に入ったのだと考えられそう。なお、この『時事新報社』は、のちに帝人事件をすっぱ抜き、その事件化を主導することになる。三井銀行に入った池田は、Wikipediaによれば、

調査係を振り出しに大阪支店勤務、足利支店長。コール制度や大阪市債の引き受け、銀行間の預金協定など新機軸を次々に打ち出していく。

Wikipedia | 池田成彬

とある。市債の引き受けは別に新機軸でも何でもなく通常の業務ではないかと思われるが、コール制度と銀行間の預金協定というのはもしかしたら同じことを言っているのかもしれない。相互に預金を持ち合うことで短期資金の融通をしやすくする、と言ったことか。これはアメリカの制度を参考にしたとは思えず、どこから出た話なのか興味深いが、結局はこれが銀行間の密着度を高め、金融制度の機能不全につながって行ったのだとも言えそう。これはもしかしたら、アメリカのように財務省債券、すなわち日本で言ったら国債を銀行に持たせるのにもしかしたら日銀副総裁だった高橋是清が反対したのに対して、それなら銀行間相互で預金の持ち合いをする、と言って牽制したのかもしれない。結局高橋は日銀副総裁という立場のはずが、なぜか外債の引き受け交渉に欧米に渡るという不思議なことになってゆく。これは日銀に国債引き受けを迫られて、それはできないから外国で売ってくる、ということだったのだろうか。このあたり、単純に外債引き受け以上の、国債の取り扱いについての国内での論争が何かあったようにも見受けられるが、今のところはそこまではちょっとわからない。

震災前からの資金危機

さて、『日本銀行百年史』によると、日銀による台湾銀行及び鈴木商店への第一次整理は大正9(1920)年の春に始まったという。

鈴木商店及び同店関連事業向けをはじめとする内地貸出金に多額の固定貸を生じたうえ、貿易不振の影響もあって営業資金に不足を生じ、大正8年以来、コール取り入れにより当面を取り繕っていた。

日本銀行百年史 | 第五章

とあり、これは、大正10(1921)年に操業開始した帝人の広島工場建設の時期と重なっている。想像となるが、元々鈴木商店は商社ということで、例えば絹の生産にしても、問屋製家内工業のように、繭を預かって糸にするところに貸し付けて加工してもらい、それをさらに織るところに、さらに服に仕立てるところに、といった具合にあちこちに信用ネットワークを築き、そこに運転資金を貸し付けるような形で円滑にいわばバリューチェーン全体が動くように調整しながら、最終的には絹製品を輸出に回してその利益を皆に分配する、といった商売を行なっていたのではないだろうか。そこで帝人の広島工場ということになるが、工場での生産ということになると、そのようなネットワークは全て工場内分業に置き換えられ、これまでのような運転資金融通というやり方とは全く違ったいわゆる産業金融的なものへと形態を変えてゆくことになる。そしてこれは広島工場の建設というのが一体誰の意志決定により、どこからの資金で建設が進められてきたのか、ということになるが、鈴木商店は番頭の力が強かったということで、もしかしたら番頭、あるいは城山三郎の『鼠』の中で高商派として理論的運営を行える会社組織にしたいと考えていたとされるような若手エリート組が、新技術を持った帝人という会社でその管理手法を試すために番頭をたらし込んで金を出させて工場建設を勝手に先行させていたという可能性もありそう。

輸出金融の構造

とはいっても、鈴木商店の手法でも金が無尽蔵に湧いてくるわけでは当然なく、それは輸出という最終的な落とし所があり、それが機能していればうまく回る、ということで、そうでなければどこかで止まってしまう。そこで輸出の流れが止まらない、ということが重要になってくるが、その貿易の基本的な取引条件であるインコタームズが定まるのは1936年になってからで、当時はまだ定まっておらず、それが非常に不安定であった、ということがある。早く金を回収するためには船荷証券を銀行に買い取ってもらうということが必要になるが、その買取がなされなければ資金繰りは行き詰まってしまう。池田成彬がやったのは、その船荷証券による短期資金貸付、すなわちコール資金と言ってよいのだと思うが、それを、台湾銀行に対して非常にきつく絞ったということなのではないだろうか。どれだけ船荷証券が手元にあっても、銀行がそれを買い取ってくれなければ単なる書類の山であり、それがいくら積み上がっても金にはならない。実際に決済されるまで延々とそれを積み上げ続けなければならないことになる。それは、鈴木商店にとって運転資金負担が際限なく膨らむ、ということを意味し、それをコールで乗り切らなければならなくなってしまった、ということなのではないか。いわゆる震災手形、と呼ばれるものの実態は、換金できない船荷証券の山だった、ということではないだろうか。

はまり込んだアリ地獄

その一方で、それ以前の船荷証券を担保に銀行から借り入れた金はおそらく帝人の広島工場建設に消えてゆき、それが稼働するということは絹の売り先が限定されることにもなってゆく。なぜだか何もかもが自分の首を絞めてゆく方向に進んでゆく、という、どうしても抜け出せない蟻地獄のような状態になってしまったのではないだろうか。

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