広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(29)
明治十四年『会社条例』草案
明治期の法律について見ているが、この時期の話は、日本の歴史のみならず、世界中の近代化への歩みの基礎を定めている時期であったということで、認識の整理が世界中に波及し、情報が錯綜する、ということがリアルタイムで起きている。だから、今見ている情報が確かなもの、固定的なものなのか、ということもなかなか分かりづらく、そして調べるに従って圧力らしきものを感じることも、そして情報が変わったりするように感じることも多々ある。その意味で、今書いている情報も、現段階の整理にすぎず、今後他で認識整理が進むと、法の解釈というのはその認識変化に最も影響を受ける部分なので、印象が大きく変わって浮かび上がる可能性も十分にある。私は、自分の住んでいる地域から、このシリーズにおいては広島の視点を意識してその風景を整理しようとしているのであり、それが絶対唯一のものであろうはずもなく、見方には様々なものがあるので、今は、それについて議論するための、自分としてのベースを整えている状況であり、それを押し付けようとか、こうに違いないと決めつけたり、ということをしようとしているわけではない、ということを注記しておきたい。認識を、そのように一つ一つ確認してゆくことで、不可解な現象を減らしてゆくことができ、それによって他の人との共通点と相違点も明らかになってきて、そうすることで立場の違いから生まれる生産的な議論を行うことができるようになるのでは、と私は考えているところである。
さて、前回明治十四年の会社条例草案についてよくわからない、と書いたが、『明治十四年『会社条例』草案とその周辺 ー 明治前期商法編纂史研究(二)』にそのことに関してまとまっていたので、それから少し見ておきたい。
元老院審査局
明治十三年九月二十二日、元老院幹事山口尚芳は、「会社并組合条例審査総裁被仰付候事」との辞令をうけ、また同日、元老院議官神田孝平、元老院議官渡辺驥、太政官大書記官渡辺洪基、太政官少書記官周布公平、太政官少書記官田口悳、内務少書記官富田冬三にそれぞれ委員が申しつけられ、七名のメンバーで審査がなされることとなり、元老院中に審査局が設置されたとするが、これはあくまでも審査局であり、実際に原案を作ったのは誰なのかは明らかではないという。
井上馨の意見書
それに先立って、七月に参議兼外務卿の井上馨が右大臣岩倉具視に提出した『立憲政体ニ関スル提議』によると、「国会ヲ起スニ先チ、第一ニ民法ヲ編シテ所有ノ権利戸籍ノ方式ヨリ家督相続及ヒ契約等ニ至ル、人々相互ノ間ニ須臾モ欠ク可ラサルノ法則及ヒ行政区域行政裁判又ハ訴訟法又ハ商法、会社法等ノ成規ヲ明指シ、法律ノ区域ヲ出テスシテ、自由ニ生息優游スヘキコトヲ恆ニ人民ノ脳底ニ感染セシムヘシ」という、方向性はともかくとしてレトリックとしては非常に恐ろしいことが書かれている。要するに、民法によって所有権、戸籍による相続、そして契約などの社会的関係性のあり方を法制度によってきちんと定めて、その枠内での自由ということを人民の頭にたたきこみ、洗脳するのだ、ということのように読み取れ、実体法的法制度をきっちりと定めた上で立憲政体を打ち立てるという方針を明らかにしていると言えそう。この提議は前回の山縣の意見書を口火とした立憲政体議論の動きの一つで、前回は井上は山縣と同じくヨーロッパの制度をまとめただけだとWikipediaの引用から理解したが、これを見ると実定法、つまり大陸法フランス法的な考えをベースにしていることが明らかで、時期尚早論のベースには法体系を全てきっちり固めてからの会社条例、つまり自然人の定義を固めてから法人を定義するのだという方向性が見てとれる。
ハートレー事件
この意見書にいたった原因として、外交問題、とりわけ領事裁判権の問題があった。井上はその前年明治十二年に外務卿となったが、それには前任の寺島宗則が外国との摩擦に直面し、辞任を余儀なくされたという事情があった。その摩擦の一つ目は、ハートレー事件である。
領事裁判権については
英国人のハートレーがアヘンを持ち込んだ廉で罪に問われたが、英国領事によって無罪となったというものである。原文には当たっていないのだが、日英修好通商条約にアヘンに関する記載があったということで問題となったようだ。ハートレーの主張は薬用、つまり個人使用であるということで、抜け穴を探ったのだと言えそう。近代国家の成立時期ということで、問題は色々と複雑なのだろうと想像できる。まずは、領事裁判権のところにあるように、幕府時代には自らが外国人犯罪を裁く必要のない領事裁判権は幕府にとってむしろ都合が良かったという側面があった。誰も争いの原因となるような決定はしたくないわけであり、内国民が危害に遭うような事件ならばともかく、清におけるアヘン戦争の事例があるようなアヘンの密輸で国際問題を引き起こすような決定など、誰もしたくはないだろう。そして国内法にはもちろんアヘン持ち込みに関する法令があるわけではなく、そうなると英国法に基づいて裁く他なく、それに従って処理する以外に一体何ができるのか、という現実的な問題がある。そんな事情を百も承知の上で、二度にわたって染料だと言ってアヘンを持ち込むハートレーという人物、そして罰金を払っているのにそれをわざわざ騒ぎに仕立て上げる国内勢力、という、国家間の関係とは別次元の国を跨いで渦巻く野心と欲望がこの外交問題を引き起こしたのだと言える。
ヘスペリア号事件
もう一つの事件はヘスペリア号事件だ。
これに関しては完全に舐め切っているとしか言えない事件であり、公使に内容を公式に通達した件に関して無視するというのは一般的に言えば流石に許されることではないだろう。これにはいくつかの背景が考えられるが、現状の私の解釈では仮定があまりにすぎるので、一般的な解釈に従っての理解に留めておきたい。
立憲政体議論と国際情勢
これらの二つの事件を受けて、外務卿寺島宗則は辞任し、井上馨がその後を襲った。そして、条約改正の機運が盛り上がる中、就任から1年経った頃に上記立憲政体の提議が出されたのだ。その流れを踏まえてなぜヘスペリア号はそのような無理な規則違反を強行したのかということを考えてみたい。これは、立憲政体の樹立に伴う、法体系のモデルをどこにするのか、という問題が絡んでいるように見受けられる。憲法論議自体は英米法か大陸法かという枠組みで議論が進んできたといえるが、実は、ヨーロッパの政治情勢は、明治維新と連動するかのように複雑性を増していた。1870年に起きた普仏戦争は、71年まで続いたが、その最中に皇帝ナポレオン三世はプロイセンに捕まり、普仏戦争の終了後は政治的混乱を伴いながら第三共和制に向けて動き出していた。1975年には75年憲法が制定され、皇帝ではなく大統領が名目的な元首を務めることになり、天皇中心の国づくりを目指していた勢力にとっては、目標としていた国が突然制度を変えてしまうという想定外の事態になってしまったのだ。それに対して北ドイツ連邦を吸収してドイツ帝国を打ち立てたプロイセンは、共和化するフランスを国際的に孤立させるべくロシア、オーストリア=ハンガリーを誘い三帝同盟を形成しており、そこで、天皇中心の国づくりのモデルはプロイセンへと変わっていったのだと言えそう。そう言った流れの中で、これまでは、ブスケ、そしてボアソナードとフランス系の法学者が明治新政府の法体系整備議論をリードしてきたが、そのフランス系からドイツ系に切り替えるために、国内の大陸法派がドイツを手引きする形でこの事件を起こした可能性が出てくる。
元老院における「国憲草案」議論
そうなると、その前のハートレー事件についても、誰がわざわざ騒ぎにする必要もない事例を騒ぎにしたのか、ということが問題になる。そこで、その時期の憲法論議がどこでなされていたか、ということだが、明治九(1876)年九月八日に国憲(憲法)草案起草の勅命が元老院に対して出され、それに基づいて同年十月と二年後明治十一年十月に二度の「国憲草案」が作成されたが、正院側から酷評されて採用されなかった、とされている。つまり、元老院が憲法の議論を主導しようとしていたが、正院に相手にされず、もしかしたらその後正院と元老院との間で憲法議論をめぐって対立が顕在化したのか、明治十年一月十八日には正院が廃止されているという。つまり、二度目の国憲草案の時にはもはや目の上のたんこぶたる正院はなかったが、その後議論は進まなかったということになる。もしかしたら、いわゆる西南戦争の原因はそんなところにあったのかもしれない。ただ、Wikipediaのその後に”正院側から元老院の権力を抑制しようとする動きが現れ、以後正院の干渉を受けるようになった。”との記述があるので、正院についてはもう少し正確に調べる必要がありそうだ。
さて、その元老院だが、明治十年から十五年にかけては有栖川宮熾仁親王が議長を務めていた。それ以前は左大臣が名目上の議長だったが、副議長の後藤象二郎が議長代理を務めていたところ、先の国憲草案の勅命のためか、宮が議長となり、副議長は空席、幹事として陸奥宗光と河野敏鎌が実質的な議論を主導していたと見られる。そんな中での明治十一年二月のハートレー事件の露見で、その後六月に河野が副議長に昇格し、一方もう一人の幹事の陸奥宗光が立志社の獄の容疑者とされて元老院を追放されている。何らかの政変に利用され、自由民権運動潰しが行われた可能性がありそう。フランスの政治情勢がらみで大陸法が不利になる中、英国法潰しのために事件を起こし、その翌年のヘスペリア号事件でドイツ法に舵を切らせようとしたのかもしれない。
憲法、民法、商法、会社法などの法制度に関わる問題は、このように出発点から政治権力と密接に関わっており、そしてその推移は必ずしも明らかになっているとは言い難い。近代法の出発点がこのように不透明な状態では、現在の法制度の元々の理念などの考え方もなかなか見えてきにくい。現在の憲法などの法制度について考えるためにも、今一度明治憲法の成立過程というのは詳細に調査検討する必要がありそう。
参議による議論とその立場の違い
さて、話を元に戻すと、これらの動きを受けての冒頭に挙げた明治十三年九月の元老院審査局の設置であるといえ、その時点では伊藤も大隈もまだ意見書を提出していなかった。十二月に伊藤が意見書を提出し、それから明治十四年の政変に至るまでは前回述べたとおりだが、今回書いた背景に従ってみるとまた違った風景が見えてくるかもしれない。
いずれにしても、それまで議論を主導していた元老院が審査局を設置して審査側に回ったということで、議論自体は正院の一部をなす参議を中心に行われるようになったと言えるのではないか。そこで参議からの意見書というのが重要な意味を持ったのだろう。
そんなことで、明治十四年の『会社条例』草案は、参議が中心となってまとめたものだと見られ、三月に大隈が意見書を出した後だということを考えると、それによって英国法よりの憲法議論が加速することを警戒して、大陸法派、あるいは払い下げ推進派が慌てて『会社条例』草案を出すことで議論の主導権を取り戻そうとしたのではないかと考えられる。その草案の最大の特徴は、人名会社という人の姓名を冠した会社を、無限責任によって定義している、ということであり、元の条例案で「社員の姓名を以て社号と為す可からず」として認められなかった案を含めているということになる。
そこで最初に書いた井上馨の意見書というものが頭に引っかかってくる。そこには、戸籍による家督相続のことが触れられており、それは人名会社の安定性を確保するために必要不可欠になる。つまり、井上の意見書とこの『会社条例』草案は一対のものであると言える。そんなことからも、この草案は、参議の中ならば、山縣、井上、黒田らの出した案ではないかと考えられる。