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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(6)

毛利氏の故郷 郡山(吉田)

歴史方向での話は、幕末の広島藩浅野氏の動向まで進めた。ここで、その浅野氏が気になって仕方がなかった毛利氏の故郷、安芸郡山、支藩が吉田として成立した場所について考えてみたい。

郡山(吉田)の地理的概要

郡山、というか、郡山というのは元就が建てたとされる城がある山のことだと思うので、その下の盆地のことをいったいなんと呼んだら良いのか悩んでしまうところだが、そこを広島支藩が吉田と名付けたのではないかと考えている。元々はもしかしたら可愛川(江の川)のもう少し下流にある三次という名で呼ばれていたかもしれない。というのは、三次というのは二つの川の合流点なのではないか、と感じるが、三次はその合流点が二つ続くという非常に特殊な地形であり、その点で三次とは違うもう少し何か特殊な名前で呼ばれていた可能性があるのではないか、と感じるからだ。いわゆる吉田には高宮郡衙があったとされ、今の吉田か三次のどちらかが元々は高宮と呼ばれていた可能性はありそう。可愛川についてみてみれば吉田の方が三次よりも上流になるわけで、日本海側から来たら三次に定着しそうで、瀬戸内海側からきたら吉田に留まりそう。いわゆる吉田には住吉神社があったり、舟運を感じさせる痕跡があったりするので、川を上って、つまり日本海側から入ってきた可能性が高いようにも感じる。今回は三次にはいかなかったので、詳しいことはまた行く機会があれば考えてみたい。

多治比氏と毛利氏

とにかくその吉田と呼ばれた地は、可愛川と多治比川が合流するところであり、いわゆる巴の地形となっている。毛利元就は、多治比川をもう少し上った先の猿掛城で青年期を過ごしたとされる。多治比に関しては『日本書紀』に出てくる多治比嶋が初代となる多治比氏がある。宣化天皇につながる皇別氏族とは言え、『日本書紀』と『続日本紀』に少しずつ出てくる程度で、それほど著名な一族とは言えないが、関東では丹党の本家として青木氏などの先祖に当たるということで知られている。私は、個人的にはこれが大食(タージ)国と関わっているのではないかと考えており、これは一説では中央アジアのタジク族に由来するともいうが、私はそれよりもアラビア語で商人を意味するタジルからきていると考えた方が良いのでは、と感じている。つまり、シルクロード交易に従事していた渡来系を語る人々の末裔が商人として多治比川上流域にやってきてそこに拠点を構えた、というのがいわゆる毛利氏の原型に当たるのではないか、ということだ。

多治比川

この多治比川、郡山の麓にある清神社の由緒書によれば、

又吉田ヲ流ル川ニ小川一派アリ、多治比村ヨリ流レ来ル故今多治比川ト云舊名稲田川ト名ク、吉田ノ市中ヲ横ニ流ル其川ニ橋アリ稲田橋ト云リ又隣村常友村ニ八岐蛇ヲ封祭シテ八面荒神アリ併セ考ルニ當社ハ神代ヨリノ鎮座タルコト古傳ノマヽニ疑モ無キコトナルべシ。

神武天皇聖蹟誌|広島県|昭和16年11月発行

ということで、八岐大蛇の伝説と絡めて、多治比川ではなく元は稲田川であったと記載している。この清神社は『古事記』の記述に従った素盞嗚尊を主祭神としており、そして祇園社を称していることからも、元々渡来系であった可能性は非常に高い。また、宝暦十年の記録を残している社家の名が波多野信濃守であるということからも、渡来系伝承をある程度積極的に受け入れていたように見受けられる。にもかかわらず、多治比という名を嫌がり、宝暦十年段階では出ていない大山津見神系の櫛名田比売の『日本書紀』での記述である稲田姫を採用しているということから、明治維新の時に、おそらく吉田支藩が関わる形で、多治比という名を消そうとした疑いが生じる。

福佐売神社の縁起

これに関わって、廿日市にある福佐売神社の縁起をみてみたい。境内の碑文によると、

『三代実録』の貞観十四年(八七二)十二月廿六日の条に、「節婦安芸国佐伯郡榎本連福佐売叙二位二階一、免二戸内租一、表二於門閭一。」とあります。則ち、この土地の人、榎本連福佐売を賞して位階を与え、戸内の租を免除し、その貞節を村の門に表彰したとの記録であります。当時、この善行は、この地、種箆郷の里長から佐伯の郡司へ、郡司から安芸の国司へ、そして国司から中央へと伝達され、そして、それにより朝廷から賞され、その記録を中央の正史に留めたのでありますから、正に、佐伯郡稀有のことと言わねばなりません。
従って、この栄誉を後世に伝えるべく、恐らく、その旧地に建立されたのが、この福佐売神社の縁起であります。中世、世人はこの縁起を忘れ、俗称、福島明神として祭祀してまいりましたが、江戸、文政年間、広島藩主十世の弟、浅野長懋公の下問により、この縁起の次第を下平良村民もあらためて認識するところとなり、再び、福佐売神社として、今日に至っているのであります。王朝華やかであった貞観の昔から今日まで、実に一千一百余年の歳月が流れておりますが、ここに福佐売の功徳を称え、その余光が永遠にこの地の人々に伝えられることを切に願うものであります。

境内碑文より

なお、『三代実録』では「免戸内租」が「免戸田租」となっているようだが、恐らく内が正しいのではないかと感じる。Wikipediaによれば

令制では封戸のある令制国の国司が封物の徴収にあたり、租の半分と庸調の全部が封主のもとに納入されることになっていた。

Wikipedia| 封戸

とあり、封戸では国司が租庸調を徴収した上で租の半分と庸調を封主のもとに納入するのであり、そこで田租を免ずるとなると封主のもとにはいるはずのものも免ぜられるということになってしまう。戸の内租を免ずるということならば租として国衙に入るものを免ずる、ということになり封主のもとには租の半分にあたるものは残ることになりそう。

「福さめ姫」伝承

この話に関連して、『廿日市の民話・伝説』には、大蛇退治(原)「福さめ姫」の話が出ているという。その大要は、観音山の蛇の池に棲む大蛇が毎年梅雨明けの時期に悪さをしていたが、ある雨が何日も降り続いた年のある日の明け方、突然の地鳴りと共に泥水と一緒に大蛇が山から流れ出てきて田んぼをつぶし家を流してしまった。それに対して福さめ姫は年若い娘ながら長刀で大蛇を切りつけその首を地御前村まで飛ばしたが、福さめ姫も倒れてこと切れていた。姫が倒れていたところに福さめ神社とし、大蛇の首が飛んだところに八面神社を建てて祀った、というものだ。

個人的にはこれは元々山の方の話、典型的にはいわゆる吉田の話で、大蛇というのが猿掛城を拠点としていた外来の勢力を示しているのではないかと感じる。ただ、それは時系列的にはかなりの飛躍があるので、古代から続く伝承の上に戦国時代の外来勢力の話を重ね、それを明治維新の時に入った浅野氏が毛利氏の話に付け替えた上で、少しアレンジした話を海沿いの廿日市に持って行ったのではないかと考える。いわゆる吉田は、山の麓に棚田の後のような風情が多く残っており、さらには旧市街を中心に水路の後のようなものがよく残っている。これは、山からの水をうまく使って農業も街の生活も営んでいた名残ではないかと考えており、その棚田を押し潰すような山津波のようなものが時折起きたかもしれず、大蛇とはそのことを示しているのではないかと感じる。いわゆる吉田には、清神社にも傍に神楽殿のようなものがあるが、琴山神社という神社は本殿の前に神楽殿を持っている。これは、廿日市の八幡社を名乗るお宮でも二カ所見かけたし、宮内の天王社もそうであった。つまり、厳島神社の影響下にあるところでは、もしかしたら神様の前で踊ることで災難から逃れる、というような風習が強くあったのではないか、と感じ、だから榎本福佐売という人もそのような踊りによって人々に救いをもたらしたのではないだろうか。

なぜ浅野氏が移したと考えるのか、ということについては、福佐売からきているのではないかと考えられる福島正則という人物は、厳島神社の社領を全て返上させたということになっており、それと福佐売の租を免ずるという話が少し噛み合わないので、元々税は存在するのだ、ということを植え付けるために福佐売の話を旧厳島神社領で一番その風情を保っていたと考えられる廿日市において租と絡めて残す、ということに意味があると考えられるのでは、と感じたからだ。それを認めさせれば、文中に浅野の名も出ていることから、その記録を残すことによっておかしな世界から自分たちは抜け出せるのではないかと考えたのだと十分に想定できそう。それが吉田に入った支藩が幕末にやったことではないかとも考えられそう。

吉田の街の特徴

いわゆる吉田の街についてもう一つ感じたのが、堤防で嵩上げされた多治比川沿いに船がついた跡だとも考えられそうな、河原に降りるためのゲートがいくつもあったということだ。これは、かなり現代に近くなっても、川へのアクセスというのが街の中ではかなり重要な意味を持っていたのではないかと想像させるのに足りる、かなり興味深い風景だった。いわゆる吉田の街には鉄道は通っておらず、一つ向こうの谷沿いにそれは通っている。開けているのは可愛川沿いであるが、広島からくると分水嶺を超えることになり、その高低差が一つ向こうのほうが低かったから、という工事コストの理由もあるのだろうか。いずれにしても、道路の発達した現在ではもはや役立たなくなっているのであろうが、そこで鉄道が通らなかったことで、鉄道へのアクセスとして舟運がかなり近い時期まで残ったという可能性もありそう。また、屋根の瓦に赤というかオレンジというかそういった鮮やかなものがところどころで使われており、それにもまた別の由来があるのだろうと感じた。街の一つ一つに意味を見出すことのできるような、かつてはさぞかし美しかったであろうと想像できるような街だった。名前でも、風景でも、随分とおかしなものを押し付けられたのではないかと感じるが、それでも歴史の息吹は生き続けるということだろう。

郡山城

さて、郡山城は、広島県の安芸高田市、旧吉田町域で、可愛川(えのかわ:江の川)と多治比川の合流点の北西にある390メートル、比高190メートルの丘の上にある。郡山の名は、高宮郡の郡衙があったとされることからきているようだ。不思議なことに、旧高宮町の大部分は高田郡で、そして郡衙も旧高宮町ではなく、旧吉田町にある。
この郡山城は毛利元就の拠点とされる城で、ここから広島をはじめとした中国地方の統一に乗り出したのだとされる。立地としては、島根側に注ぐ江の川の上流で広島方面への進出を扼す位置にあり、尼子と毛利ないしは大内という構図で見れば重要拠点となることは素人目にもわかる。
しかしながら、多くが残る廓の跡とその戦略的位置付けというのがどうにも繋がりがつきにくく、話がおかしいのか、城址の様子、あるいはその説明がおかしいのか、というのが個人的に非常に整理に戸惑ってしまった。

城の構造

城は二段階に分かれて建設されたようで、まずは丘の南東に走る尾根の上に本城と呼ばれて残る部分が作られ、のちに丘の頂上を本丸とする山全体を城郭化したものが作られたようだ。どちらの城も西から東にかけて本丸、二の丸、三の丸と並んでおり、東側からの敵に備えていたことがわかる。ただ、廓の名は当時のものかどうかはわからない、との注記もあったので、この名をそのまま採用して良いものかということは考慮を要する。いずれにしても、東側には可愛川が流れているわけで、そこを登ってきた敵に対応するためだということが考えられるが、本城の方はかなり東に張り出した尾根の一段高くなったところにあり、物見の場としての役割があったと考えられるが、カサと呼ばれる山頂部にある新しい城の方は直下の可愛川が見下ろせるわけでもなく、東側の敵に備えて構を作る理由が分かりにくい。ただ、大手となる南方にも西に向かって勢溜の壇というかなり長い郭が張り出しており、それを三の丸と考えることもできそうだが、いずれにしてもその上にある御蔵屋敷にその通り御蔵があったのならばそれを現在三の丸と呼ばれているところにおいた方が防御上は良さそう。そしてその三の丸の下に厩の壇と呼ばれる郭があるが、そこから馬を出すのはどこに向けてもかなり大変そうで、下に馬場があったとされるがそこから城の外に出るのも大変そうなので、どうも厩があったようには思えない。全体として、新しい城の方は少なくとも廓の名前で判断する限りにおいてはどうもあまり実用的ではなさそうに見える。このような城の構造を一体どのように考えて行ったらよいだろうか。

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