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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(8)

多治比から読み解く毛利氏発祥仮説

毛利氏の本拠が多治比川上流の猿掛城であるというところを見た。ここで、前回も見た多治比という言葉から毛利氏の発祥について大胆に仮説を立ててみたい。

イスラム教の影

多治比がアラビア語で商人を意味するタジルからきているのではないか、という推定をしたが、シルクロード交易からすると700年程度、短く見積もっても500年の開きがあるわけで、それが突然出てくるというのはあまりに唐突感がある。そしてその後にはモンゴルによってシルクロードは逆向きに西洋への進出路としてヨーロッパにとっては大きな脅威となったし、日本にも元寇という形で波及してきて、中央アジアあたりと内陸経由でつながるという経路はかなり取りにくくなったのでは、と考えられる。その後、大陸では元を滅ぼして明という王朝ができ、その永楽帝という皇帝は鄭和という人物を登用してインド洋経由でアフリカまで到達するような航海をさせたという。その頃のインド洋はイスラム教の文化圏が広がっており、鄭和自身もイスラム教徒だったのでは、という話もある。西洋の大航海時代は、このイスラムのインド洋覇権に対して挑戦する、という意味合いもあったわけで、その意味で、室町時代後期に日本にやってきたいわゆる南蛮人というのが本当に西洋人であったのか、ということは疑うべき理由がある。本当にイスラムのインド洋派遣を突破してアジアとの交易路を打ちたて得たのだろうか。冒険家もやはり話をもりがちなのはありうることであり、そんな冒険家のホラ話が後になって尾鰭がつき、当時からアジアまで行っていたのだ、という話があたかも真実であるかのように固定していった、ということはないだろうか。そしてそれは近代化がヨーロッパによって主導されることによって、あたかも疑いもない事実であるかのように定まってきているのではないか。私は、そこにもう少し各地のさまざまなリアリティを加えて実際の姿に近づける努力が必要なのではないかと感じる。

海の勢力の実態

そんな努力の一環として、ここではいわゆるキリスト教や鉄砲の伝来というのを、キリスト教徒であるヨーロッパ人によるものではなく、イスラム教徒であるアラブ、あるいは中央アジアのモンゴルの末裔によるものだと想定して考えてみたい。鉄砲についてみると、兵器としての火薬を大きく実用化したのはモンゴルではないかと考えられ、それがヨーロッパ経由で日本に伝わるということ自体どこか引っ掛かるものがある。実際日露戦争の時でも下瀬火薬という高性能の火薬が日本サイドで使われていたわけであり、火薬についての技術もヨーロッパよりも日本の方が遥かに高かった可能性がある。そして、その火薬の性能を上げたのは、他に選択肢が多くある陸上での戦いというよりも、選択肢が非常に限られているのでその数少ない選択肢のうちで有効度の高い大砲に注力せざるを得ない海上での戦いであったかもしれない。そうなると、南蛮船というのは、マラッカ海峡あたりを中継点としたイスラム船で、それはもしかしたら後期倭寇と呼ばれる勢力においてもある程度の存在感を示していた可能性もあるのではないだろうか。そして、もしかしたらその後継勢力としての小早川や一部の村上水軍として名を残した人々もいたのかもしれない。ただ、船の扱い自体はおそらく島が点在してそこで自由自在に移動していたアジア系の人の方が上手かったのではないかと思われ、そこに乗っていた商人だけが陸に上がっていったということも考えられないこともなく、それが多治比と呼ばれるようになったかもしれない。

毛利四番目の矢、宍戸氏

それを考えると、あるいは毛利四番目の矢ともされる宍戸氏というのは、イスラム系の名であるサイードというものに通じないこともなく、そしてそれに似た名としてのちに毛利氏の家臣となった志道氏、しじと読むが字面だけならばしどうとも読め、それもサイードと読めないことはない。サイードというのは、中東からペルシャにかけて広がっていたモンゴル系のハン国、イルハン国の直系最後の君主にアブー・サイードという人物がおり、世界を広く旅行し、アジアや中国にまで至ったイブン・バットゥータによって紹介されている。そしてその死には少なからぬ不審な点があり、それもあってイスラム教とモンゴルとの関わりについても何らかの鍵となっている可能性がある。時期自体は宍戸家で著名な隆家の時代からは200年程度遡るので、直接の関わりは疑わしいが、何らかの文脈的繋がりで宍戸という姓を名乗った可能性もあるのではないだろうか。隆家という名からは、刀伊の入寇に対応した藤原隆家という名も連想され、その外寇との関わりを考えると、いわゆるキリスト教の伝来や、その後の大内義隆の死に関わって何らかの重要な役割を果たした可能性もありそう。

毛利元就のモデル? 志道広良

一方で志道氏であるが、こちらは大江氏流の毛利氏一門坂氏の庶流とされ、志道広良という人物が毛利元就の後見人としてその活躍をよく支えたとされ、その弟とも息子ともされる通良が、石見国口羽を領して口羽通良と名乗ったとされる。私は、個人的にはこの系統がいわゆる毛利元就の直接のモデルとなっているのではないかと感じている。元就の若年時代は広良が支え、厳島合戦後に広良が没すると、三本の矢の教訓が出ると同時に、通良が台頭してくる。この頃から毛利氏の家中では両川の一角を担う小早川隆景の存在感が大きくなってくる。通良の通という字は、伊予河野氏や来島村上氏が用いているものであり、ここから水軍の窓口となった小早川隆景を通じて志道氏流であると称して口羽を名乗って内陸部に浸透する、ということがなされたのではないだろうか。猿掛城が郡山より西にあることを考えると、小早川経由でありながら大内や吉川方面から入り込んでいる可能性があり、それは伝来したばかりのイスラム教的なものを踏まえてのことだったかもしれない。そして猿掛城から口羽までは国境を超えてさらに距離があるわけで、そこまで全部自分のものにしようというにはあまりに大食、ということも含めて、通良のことを在地系が多治比だと揶揄したのかもしれない。もしかしたら、その揶揄を主導したのが宍戸隆家で、だからこそ志道から出たという通良がおかしいということで、宍戸という姓を名乗る必要があったのかもしれない。

中国地方を戦乱に導いたのは?

志道広良の広という時は大江広元につながるということで、広良が大江氏流であったというのはもしかしたらその通りなのかもしれない。だから、大江氏流を騙って鎌倉時代の話をしながら、弘の通字を持つ主家の大内氏を下げながら、国人領主の自立心を煽ったということがあるのかもしれない。そんなことが尼子氏の介入を招き、中国山間部を戦乱の嵐に導いたのかもしれない。それが毛利元就の前半生で、後半生は海を握った小早川隆景になぞらえた水軍系の活躍が毛利元就の人物像を形成してゆくのかもしれない。

宍戸氏の人質?

宍戸隆家の長女とされる天遊永寿は、はじめに来島村上通康、ついで河野通宣の妻となったとされる。宍戸家の本拠が甲立の五龍城であるのならば、全くアクセスのない瀬戸内海側の水軍勢力、しかも四国に近いところに娘を嫁に出す理由はほとんど見出せない。これは、長州藩の成立に伴い、毛利氏中心の史観が形成される中で、家の名を残すためにやむを得ずそのような記録を残したのだと考えられそう。これを仲介したのは小早川系であると考えられ、いかに小早川が水軍の中でも筋の悪いところと結んで山間部の勢力に浸透しようとしていたかが想像できる。河野氏は宍戸氏から嫁を迎えたことで毛利氏の援軍を受けることができるようになったが、毛利氏はそれを受けて四国へ進出し、河野氏を支援することになる。

毛利vs織田 そして小早川隆景

その後、元就は没し、それから毛利氏の存在は急に播磨備前方面での織田信長との戦いで目立つようになる。その中心となるのは当然の如く水軍を持つ小早川隆景であり、そして、広島からのあまりの距離の遠さを考えると、それが本当に毛利に属していたのか、というのはかなり疑わしい。播磨には河野氏の一族とされる播磨三木氏という氏族がおり、三木合戦で別所方についたとされ、その敗戦後には九州に逃れたともされる。その動きは少なからず小早川隆景の動きと重なっており、ここでも小早川と河野系の距離の近さが浮かび上がる。信長系との関わりは、結局本能寺の変に際して高松城の清水宗治を見殺しにすることで秀吉を引き立て、秀吉時代への道を切り開いたことになる。この話自体も、秀吉に恩を売ることで、その後の立場を有利にするという戦術的なものだし、中国大返しの無理のある話を考えると、それが実際にリアルタイムで行われたものなのか、それとも後から作られていった話なのかもなかなかわかりにくくなっている。

秀吉の時代と隆景の存在感

とにかく、これによって秀吉の時代となり、山崎、賤ヶ岳、小牧長久手と東の方を片付けると、その後に西に目を向け、四国進出へとつながってゆく。その四国進出後に小早川隆景は結局伊予35万石を拝領することになる。この辺りの流れを整えるために宍戸氏からの嫁入りという話が必要となってきたのかもしれない。小早川隆景はそれからまもなく筑前に国替となり、その筑前にいる時に秀吉の朝鮮出兵の動きなどが起きることになる。海を越えての出兵となれば、当然水軍の存在感は大きくなるわけで、その意味で朝鮮出兵から一番利益を得、それゆえにそれを一番望んでいたのは小早川隆景であったと言えるのかもしれない。

小早川隆景の陰謀

文禄の役での和平交渉では日明両方が相手が降伏した、との報告をあげ、講和がまとまるはずもない状態であった。この交渉を主導したのは小西行長であるが、ここで注目したいのが小早川隆景の動きだ。Wikipediaによれば 

文禄3年(1594年)8月下旬、朝鮮在陣の毛利氏諸将が加藤清正に宛てた書状の中で「隆景養子之事金吾様」とあることから、豊臣家から秀吉の義理の甥・羽柴秀俊を小早川家の養子に迎えることが決定したことが分かる。輝元は40歳近くになっても息子がいなかったことから、秀吉は秀俊を毛利家の養子にしようと隆景に相談したが、隆景は血縁関係のない秀俊が毛利家を継ぐことを心配し、秀吉にはすでに輝元の従弟・毛利秀元を養子にする事が内定していること告げ、秀吉の計画を放棄させた。隆景は、この件で秀吉が毛利氏を疎んじて輝元に不利があることを恐れて、自ら秀吉に請うて秀俊を養子として家を譲ったのである。

Wikipedia | 小早川隆景

とある。つまり、本来だったら毛利に養子に入るはずだった羽柴秀俊をいわば横取りのような形で小早川家に入れ、それによって隆景の位も上昇し、侍従から秀俊と同じ中納言となり、清華家入りした上に五大老の一人として秀吉政権の重鎮となり、輝元と並び立つことになったのだ。この動きは明との講和交渉の間に行われていたと考えられ、仮に本当に朝鮮に部隊が渡っていたのならば、水軍の長として、その帰国便を動かさない、というような脅しをかけながら、この半ばクーデターとも言える動きを起こしたのだとも考えられそうだ。個人的には、おそらく朝鮮には渡っておらず、九州でいまだに続いていた戦乱の整理が行われていたのだが、それを朝鮮、明との戦いだ、というように報告していたのでは、と感じているが、それを全部整理するのはまだまだ時間がかかるので、ひとまずは朝鮮に行っていたとの仮説に乗ってまとめておくこととする。

隆景と備前系人脈

いずれにしても、五大老の一角に食い込んだ上で、家督を秀秋と改めた秀俊に譲り、自らは三原に戻って隠居した。講和交渉の決裂で慶長の役が避けられない時に、それに巻き込まれないように秀吉の甥に責任を被せて自分は安全なところに逃げおおせた、ということのように見える。結局隆景は慶長の役の最中に六十五歳で亡くなったことになっているが、もしかしたらそのまま生きており、その後の関ヶ原の合戦における黒田如水の動きはこの小早川隆景と同一人物によるものなのかもしれない。なお、黒田如水も先にあげた小西行長も備前と関わりの深い人物であり、備前系の人脈によってこの朝鮮出兵周りの話がまとめられている可能性もある。何にしても、戦争と謀略で戦国末期を彩った一代の梟雄とでもいうべき存在が、この小早川隆景だと言えそうだ。

小早川視点での毛利史観

それを考えると、戦国期毛利の歴史というのは、この小早川の視点を通して見るのが一番わかりやすいのかもしれない。そして当然のことながら、それには与しない多くの見方があるわけで、それらを相対化してみることによって、その時期の毛利氏の実相に近い姿が浮かび上がってくるのかもしれない。

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