江戸和彌

私は1日1日を大切に楽しく過ごしており、現在81歳です。

江戸和彌

私は1日1日を大切に楽しく過ごしており、現在81歳です。

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最近の記事

私の昔話20

「7歳でやる事か?」 アメ横の叔父さんの店の奥座敷では時々密談をやっていました。店には椅子席とその奥に座敷があり、2階はヤクザの夫婦に貸していました。一階の奥にもう一部屋あり、部屋の左横入り口にトイレがありました。トイレを必要なお客さんは座敷へ上がって用をたしていました。奥のもう一部屋で時々密談をやっていました。その部屋は店を通らず左横から直接入れます。密談のお客さんは左横から入ります。今は全部が密集してつながっていますが、当時から信用金庫がありました、その隣が畑で、その隣が

    • 私の昔話19

      「おばさんとの別れ」 市川国府台病院に入院中の父親は5人兄弟でした。長男は上野アメ横の謙二郎叔父さん、次男は気狂いだからと言われ私は一度も会った事がありません。三男が私の父親で、四男が戦地で耳に銃弾を残したまま帰還し、青森の家をつぎ、私を1番可愛がってくれました。その下に妹が1人いました。青森の雲谷で最近100歳で生涯を全うしました。その妹が数ヶ月上野へ来て花嫁修行をしており、出来るなら上野で相手を見つけてと謙二郎は考えていたようです。よく働いた色白の津軽美人でした。いつも私

      • 私の昔話18

        「魚屋の友達」 叔父さんの知り合いでユニークな人は、毎日、店に子分2、3人を連れて来て、私に毎日10円のお小遣いをくれるヤクザの親分です。また上野警察の署長も友達で署長室でよく話していました。時々店の奥の部屋で密談する、多分ヤクザと思える人達もいました。いつも黒塗りのクルマで来て革の鞄を子分らしき人に持たせていました。そんな中で店から1分のところにアメ横で一軒しかない魚屋がありました。入り口に大きな樽があって、まな板があって、包丁が何本か散らばっており、その下の樽に水が流れて

        • 私の昔話17

          「叔父さんの交友関係」 叔父さんがアメ横を歩くと皆、挨拶します。ガード下の通りはほとんど、あめ屋でした。どの店でも、私のズボンの両ポケットにあめを好きなだけ入れてくれます。交番に顔を出すと制服巡査は最敬礼します。私が1人で遊びに行くと、腰のピストルを外し弾丸をぬいて、私に手渡します。やっと持てる重さのピストルで遊びます。制服巡査は私に釘を刺します。誰にも話したらダメだよと。時々秋葉原に近い昭和通りにある工場の社長さんに会いに行きます。平家建ての建物で10人ぐらいの女性が作業し

        私の昔話20

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        • 幼少期の大冒険
          16本

        記事

          私の昔話16

          「銭 湯」 2階の背中に般若の面の刺青のヤクザのお兄さんと昼間上野黒門町の銭湯へ出かけます。アメ横周辺には家に風呂のある家はありません、ほとんどバラックでその隙間は畑でした。叔父さんの店の回りも畑でした。しかし聚楽の横の朝鮮人部落は外の広場にドラム缶風呂があり、人の見える場所で交代で入っていました。般若の刺青のヤクザのお兄さんは風呂で温まると背中の般若が真っ赤に怒りだします。お兄さんは自慢と優越感と満足で足取りも軽くアイスキャンディーを食べながらかえります。お兄さん一日中2階

          私の昔話16

          私の昔話15

          「上野松坂屋」 何度か1人で歩いて銀座へ行きました。1時間の距離です。楽しみは上野から銀座まで途切れる事なく露店が出ておりました。夜はカーバイトの明かりが光っていました。秋葉原、神田、日本橋と一軒一軒見て歩き道路の反対を戻りました。歩道は石の道路でしたが、車道は舗装されていないのて、風が吹くと銀座通りも土ぼこりが舞い上がっておりました。1番近かったのは5分で行ける上野松坂屋です。松坂屋は1日居ても飽きない楽しいところでした。特に屋上の備え付けの双眼鏡は遠くの景色が見えるのが驚

          私の昔話15

          わたしの昔話14

          「アメ横での私の交流」 アメ横ではいろいろな人と知り合いましたが、1番心が打ち解けたのは殺された朝鮮人のお兄さんでした。聚楽の横の朝鮮人部落に何度も泊まり、一緒に語り合いました。おじさんの店の2階に居た背中に般若の刺青を彫ったヤクザのお兄さんは毎日顔を合わせましたが何となく好きになれなかったのは喜怒哀楽が激しく、奥さんをいじめる事が多く働かなかったのが気になりました。毎日店に来て夏でも熱燗を飲むヤクザの親分が居ました。必ず私に10円をくれます。5円でうどん、そば、ご飯、山積み

          わたしの昔話14

          私の昔話13 「6歳の時の体験談です」

          「殺人事件」 私を可愛がってくれるヤクザのお兄さんと永藤でフルーツポンチを食べ店を出ました。当時、永藤と並びのキリンへ食事に出かける事が多くありました。ヤクザのお兄さんは、店へ来ておじさんと話した後、フルーツポンチを食べに行こうと私を誘います。この日もフルーツポンチを食べた後、店を出て遠回りに散歩しました。アメ横の中心の写真の場所付近で前から来た私の知っている3人のヤクザが大きな声で、坊やさがれと怒鳴るのです。手をつないで歩いていたヤクザのお兄さんが私の手を払いのけ一歩進むと

          私の昔話13 「6歳の時の体験談です」

          私の昔話12

          「アメ横の住人になる」 アメ横は2回の大火を経て尚繁栄しております。おじさん(父親の兄)の店は覚えているだけで、おでん、煮魚、焼き魚、鍋もの、焼き鳥、みつ豆、ご飯、味噌汁、握りめし、酒、ビール、禁酒のどぶろく、どぶろくはトイレの横の板を外すと大きな瓶が幾つかあり、そこで作っていました。おじさんの店は4人がけの椅子テーブルが16人分あり、座敷にはお膳が二つ、トイレの奥にもう一部屋と座敷の横に階段があり、2階は六畳一間あり、一日中家に居て、麻薬のシロポンを打つか、一升ビンを抱えて

          私の昔話12

          私の昔話11

          私の昔話 戦中戦後第11回 アメ屋横丁 四日市から戻り、焼け野原の下谷西町の我が家の前に立ちましたが、隣の本当なら入学するはずだった西町小学校もありません。その先の下谷神社らしきものは見え、遠くは関東大震災で途中から焼け落ちた日本で1番高い建物、浅草12階がよく見えました。上野駅、聚楽、松坂屋も残っていました。結局、母親の伝で千住に六畳一間を借りる事になりましたが、そんな時、父親が発疹チフスになり、市川国府台病院に入院する事になり、生活に困り私は父親の兄、謙二郎が店舗を構える

          私の昔話11

          私の昔話10

          「四日市での生活」 漁村、磯津に着いた日に出たご馳走は忘れられません。それとあまりに母親の姉の家の電灯の明るい事、夜でもハッキリ母親や弟の顔が見えるのです。青森、小湊ではしばらく電灯もローソクも無い生活でした。電球が切れていて、代わりの電球が雑貨屋でも、どこの家でも無かったのです。夜のトイレは外の建物なので、怖くて朝まで我慢しました。ある時3人で青森まで行きました。あちこち歩き回りどこにも電球はありませんでしたが、青森駅近くの雑貨屋で事情を話したら、店の電球を一つ外してくれま

          私の昔話10

          私の昔話9

          「苦難の青森とお別れ」 屋根の上まで雪が降り積もる寒い冬、やがて春が来た頃、ギリギリ耐えを凌いでいましたが、3人とも栄養失調になり、いくら手紙を書いても父親からの返事もなく死を認識しました。そんな時、母親が思い出したようにつぶやきました。三重県に本当の兄と姉が居ると、母親には押上で薬局をやっている兄と造船会社勤務の弟が居ました。しかし母親は三重県からもらわれてきたようです。母親は物心ついてから一度だけ、修学旅行先の奈良の旅館で会った事があり、姉だと紹介された時、心臓が止まるほ

          私の昔話9

          私の昔話8

          「玉音放送」 母親がそんなに苦労してまで青森に居たのは、父親が必ず迎えに来るとの約束があったからです。 春になり小湊小学校の校庭の桜を毎日見に行き、そこにある二宮金次郎の像の事を寝物語に母親から聞くのが楽しみでした。やがて夏になりラジオで天皇陛下の放送があると言う噂が立ちましたが、家にラジオが無かったので、役場と村に一軒だけある食堂にラジオがある事が分かり、食堂へ聴きに行きました。放送当日、店に入りきれないほどの人が集まったため、全員立ったまま棚の上のラジオから流れる玉音放送

          私の昔話8

          私の昔話7

          「小湊での戦い」 祖父は半農半漁で、それらを荷馬車に積んで売り歩いていました。昼は私達の借家へ寄って食事をするのが常でした。玄関の土間に腰かけ、母親にお湯を持ってくるよう言い、当時お茶は無かったのでお湯を飲んでいました。私は子供心に追い出した母親の借家で何で休んでいくのか不思議でした。祖父は風呂敷を広げてゴマのついた大きな握り飯を2つ出して美味しそうに食べていました。私と弟は叔父の目の前に座り、その状況を見逃す事なく見ていました。一つ食べ終ると当然残りの一つは私と弟の物と一方

          私の昔話7

          私の昔話6

          「苦難の小湊暮らし」 小湊の親戚に交渉してもらい、小湊駅近くの街道沿いにその日のうちに、6畳1間に台所の付いた借家を世話してもらいました1年間は地獄でした。食料がほとんど無かったのです。青森に無かった分けでなく、我が家だけ手に入らなかったのです。店があるような街並みではなく、食料を買う事は出来ませんでした。米も野菜も魚も豊富なところなので、食生活は都会より充実していたと思います。農家や漁師から食料を分けて貰うのはそれほど難しい事ではありません。しかし祖父が親戚、知人をくまなく

          私の昔話6

          私の昔話5

          「地獄への第一歩」 まだ夜が明けない清水川駅に着きました。誰かが出迎えてくれた分でもなく父親から聞いた母親の記憶をたよりに父親の実家、口広の部落へ向かいました。清水川駅は下北半島の入り口、野辺地、狩場沢、清水川と続き、青森駅の手前にあります。3月の清水川は陸奥湾の潮風が肌寒く、歩いても歩いてもたどり着かない遠い道のりでした。当時は家に表札など無く、人通りも無く、やっと訪ね当てた父親の実家でした。引き戸を開けて入ると祖母が玄関に居て、よく来たなと出迎えてくれましたが、続いて出て

          私の昔話5