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幼少期の大冒険

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記事一覧

81歳 幼少期の大冒険 16

「京都へ来た目的」
私が京都へ来た目的は単なる観光と違い、千住で本の立ち読みをしていた時に書き留めた事の確認の旅です。歌にまでなった、五条の橋の上での牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶の戦いです。それと、知恩院の左甚五郎の忘れ傘、三十三間堂の通し矢、織田信長が死んだ本能寺、金閣寺、銀閣寺は本当に金銀で出来ているなら金銀のかけらが何処かに落ちているはずと真剣に考えておりました。それと、清水寺、嵐山、それだ

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81歳 幼少期の大冒険 15

81歳 幼少期の大冒険 15

「京都へ着きました」
大垣で千葉のおばさんをホームへ降りて見送って、ホームの水道で水筒に水を入れ列車に乗り込むとおばさんが戻ってきて、開けた窓越しに名残惜しそうに私の手を握りしめ、列車が動き出すまで離しませんでした。気がついたら車内は20人以上になっていました。おばさんは、反対側の席の夫婦に私の事を長々と説明し、私は大垣で降りますからその先お願いしますと頼んでおり、検札に来た車掌さんにも同じ事を話

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81歳 幼少期の大冒険 14

「当時の千住新橋と荒川放水路」
私が千住で生活していた頃は中学生ぐらいまでは荒川放水路で遊びました。ボートやヨットで遊び、千住新橋の下から東京湾クルーズの船も釣り船も出ていました。
東京湾が直ぐなので、上潮は東京湾から塩水が流れ込み、ハゼ、スズキ、ボラ、カレイがよくとれました。セミクジラかとれ、浮浪者が解体して鍋で食べていた事もあります。引き潮は汚いものを東京湾に持って行くので川がきれいになりまし

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81歳 幼少期の大冒険 13

81歳 幼少期の大冒険 13

夜行列車で京都へ
東京駅を夜10時出発で夜行の急行で9時間の旅です。客は1両に3人でした。千葉から来たおばさんがあちこちウロウロしておりましたが、最終的に私に話しかけて、空いていて寂しいから一緒に座っていいですかと話したので私はうなずきました。ガラガラの列車で四席を占領しました。勿論SLです。車内は薄暗く暑いので窓は開けっ放しです。熱海の先の丹那トンネルへ入る時、石炭を燃やす煙が窓から入って、顔は

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81歳 幼少期の大冒険 12

81歳 幼少期の大冒険 12

「私の小学校卒業の頃」
私は小学校入学の時、ランドセルも靴もなく、母親が夜なべして靴を作ってくれましたが、入学式の日、靴の糸が切れてバラバラになり帰りは裸足、翌日から下駄で通学しました。ランドセルはほとんどなく、半数の生徒が風呂敷に包んで通いました。住まいは、千住の大川町公園の前の6畳一間に間借りしており玄関は家主が出入りしており私達は6畳一間の窓から出入りしておりました。小学校高学年の頃父親の仕

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81歳 幼少期の大冒険 11

81歳 幼少期の大冒険 11

「夜10時発の夜行列車」
夜10時に東京駅を出て朝7時に京都駅に着く列車に乗りました。いつも通りの夕食をし、常磐線の北千住から上野まで行き、上野から山手線で東京駅へ出ました。列車の事は京都、大阪まで全ての駅名を覚えていました。うるさい父親は母親より先にOKでした。1番困ったのは荷物を入れるカバンのない事です。ランドセルを持って居る人は数名で私も風呂敷へ本を包んで通学していました。父親が私が小学校へ

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81歳 幼少期の大冒険 10

「私の小学生時代の遊び」
私が生まれる前に関東大震災で破壊された浅草浅草寺の隣りの12階が残っていました。
この建物は紫雲閣、通称12階と言い、破壊されても東京の名物でした。何故ならば、12階建は日本で1番高い建物でした。
日本で1番大きな建物は同じ浅草の国際劇場でしたが、浅草まで千住から歩いて1時間ですからよく遊びに行きました。冬は浅草の手前の酉の市で皆が投げるお賽銭を拾いに行き、吉原遊廓を通過

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81歳 幼少期の大冒険 9

「母親の説得」
今回の1ヶ月間の1人旅で最大の難関は母親のOKをとる事です。1ヶ月前から毎日話しておりました。母親は家にはお金がないから旅費は出ないし、子供1人の旅行は、人さらいにさらわれ、サーカスに売られてしまうと真剣に言われると、その瞬間はどうしようと不安になりました。しかしすぐ気を取り直して、本物の旅行準備書とは違うニセの旅行計画書を見せて大阪には朝着いて夕方は四日市へ向かいその日のうちに母

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81歳 幼少期の大冒険 8

81歳 幼少期の大冒険 8

「私が小学生だった頃」
私の父は上野と御徒町の中間で花輪刺しをしていました。しかし空襲で家がなくなり、千住に来てからは造花作りを専門にしておりました。6畳一間の間借りで玄関、入り口が無く窓から出入りしていました。
家では外の僅かな隙間でニワトリやウサギを飼っており、うさぎもニワトリも小学生の私によくなつきました。エサ係ですから。
時々父の故郷青森からお客様が来ると、昼間は仕事場だった部屋は寝室にな

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81歳 幼少期の大冒険 7

81歳 幼少期の大冒険 7

「4冊の帳面」
私の小学生時代にはノートと言う言葉は聞いた事が有りませんでした。有ったかも知れませんが、誰もが、帳面(ちょうめん)とか(ちょうづら)とか呼んでいました。
私は旅行の半年前から、本の立読みの時に、わら半紙数百枚に旅行を成功させるための京都、大阪、三重の情報を書き写し、それを毎日4冊のノートにまとめていました。三重以外は一冊のノートでは足りないくらい情報満載でした。特に[関西旅行準備書

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81歳 幼少期の大冒険 6

81歳 幼少期の大冒険 6

私が小学4年生当時の東京
私の知っている限り、東京中何処へ行っても舗装道路はありませんでした。銀座も上野も千住も雨が降るとドロドロになり、歩くと頭のてっぺんまで泥が跳ね、風が吹くと土ほこりで目が痛かったのを覚えています。私は上野まで4キロの道を1時間かけて歩きました。都電ですと10円が必要でした。ラーメンが20円です。上野から銀座へはさらに1時間必要でした。1時間程度のところは全て歩きました。家か

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81歳 幼少期の大冒険 5

「野宿と駅の待合室への宿泊」
野宿を想定して夜、千住の土手に行ってみた、怖くて無理だった。5歳の頃、青森の疎開で真夜中、生きるために畑へ忍び込んでキュウリやトマトを盗んだ、母親にやめろと激怒されたが何度も繰り返した。弟は喜んで青いトマトにかじりついた。食べる物がなく空腹の毎日だった。野宿は無理なので、上野駅の待合室へ日曜日になると人の動きを見に通った。今、ハードロックカフェがある場所に大きな待合室

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81歳 幼少期の大冒険 4

「東京脱出の準備」
校長に夏休みの自由研究を提出しないよう懇願されたのでキッパリ諦め、改めて、時刻表に関する研究を再提出しました。担任はもっと詳しい説明を求めましたが、
今は言えませんと突っぱねました。私は上野駅近くで昭和15年に生まれ、5歳の時に東京大空襲で焼け出され青森と三重に疎開し結婚するまで北千住で過ごしました。肺結核も良くなり4年生の夏休みは有効に使おうと時刻表を見ながら毎日考えていまし

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81歳 幼少期の大冒険 3

「小学4年生が持参した資料」
夏休み後に提出するために書いてあった100枚のわら半紙の資料を母親と校長の話を打ち切るように、校長に差し出しました。
100枚の資料に何が書かれていたか、本屋の立ち読みは全てが珍しく、その中に、東海道遊侠伝を見つけました。次郎長宅に居候していた歌人、天田愚庵が書いた清水次郎長に関するノンフィクションです。その要点を私はわら半紙100枚に写しました。荒神山の戦い、黒駒の

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