私の昔話7

「小湊での戦い」
祖父は半農半漁で、それらを荷馬車に積んで売り歩いていました。昼は私達の借家へ寄って食事をするのが常でした。玄関の土間に腰かけ、母親にお湯を持ってくるよう言い、当時お茶は無かったのでお湯を飲んでいました。私は子供心に追い出した母親の借家で何で休んでいくのか不思議でした。祖父は風呂敷を広げてゴマのついた大きな握り飯を2つ出して美味しそうに食べていました。私と弟は叔父の目の前に座り、その状況を見逃す事なく見ていました。一つ食べ終ると当然残りの一つは私と弟の物と一方的に決めていました。しかしその一つを食べ終わると残りの一つは風呂敷に包み持ち去りました。その瞬間、弟は大声で泣き出しました。母親は残った握り飯を泣き止まない弟のために売ってくれないかと祖父に頼んだのを覚えております。祖父は母親に向かって、お前らにやるものは何もないと、言い放った言葉は今でも忘れません。祖父は荷馬車に大量に野菜と魚を積んで去って行きました。ある時、祖父が荷馬車に乗った瞬間に荷馬車の野菜がカゴごと落ちて、その野菜の幾つかを私が拾ったと同時に祖父は、ふり向き、泥棒と大きな声で叫んだのです。私は野菜を道路の真ん中に投げ捨て、逃げたので捕まる事はありませんでした。そんな事もあり、私は祖父が来ると帰るまで弟を連れ、奥の台所に隠れるか、外で祖父が出て行くのを待ちました。
後で聞いたのですが、私も弟も母親も青森に着いてから一度も米の食事は食べていなかたそうです。後に父親は母親からこの事を聞いたので、青森から祖父が危篤の電報が来ても、葬式にも青森には帰りませんでした。

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