私の昔話12

「アメ横の住人になる」
アメ横は2回の大火を経て尚繁栄しております。おじさん(父親の兄)の店は覚えているだけで、おでん、煮魚、焼き魚、鍋もの、焼き鳥、みつ豆、ご飯、味噌汁、握りめし、酒、ビール、禁酒のどぶろく、どぶろくはトイレの横の板を外すと大きな瓶が幾つかあり、そこで作っていました。おじさんの店は4人がけの椅子テーブルが16人分あり、座敷にはお膳が二つ、トイレの奥にもう一部屋と座敷の横に階段があり、2階は六畳一間あり、一日中家に居て、麻薬のシロポンを打つか、一升ビンを抱えて酒を飲んでいる全身刺青のヤクザのお兄さんと毎日夕方になるときれいに化粧して出かける奥さんが住んでいました。そもそもアメ横の名前の由来は7歳の私が実際に住んでみて、あめ屋が軒を連ねていました。次に多かったのが乾物屋と石鹸屋です。アメリカ軍から横流しの店も少しありましたが、魚屋は一軒だけでした。あとは屋台の飲食店が圧倒的で、ほとんどが露天商でした。アメリカと言うより、圧倒的にあめ屋が多かったので、アメ横でした。おじさんの店の客は夜行列車で東北へ向かう人が時間つぶしにたむろしていました。常連客はヤクザとパンパンと言われる娼婦、時には男のパンパンもいました。皆、私には親切で特にヤクザのお兄さん達が私に優しくしてくれ、おかしな大人の中で普通に生活しておりました。京成聚楽の横に朝鮮人部落があり迷路のような数十件のバラックに数百人が住んでおり、広場の真ん中では大鍋で犬や猫をを解体して煮ていました。また、犬や猫の毛皮を板に貼り付け干してあるのを見ました。時々朝鮮人部落へ泊まりに行くのが楽しみでした。
おじさんの店での私の仕事は皿洗いと店の掃除で、当時から一宿一飯をかなり意識しておりました。私は店先で何度かヤクザが仁義切るのを見ました。後に映画で同じ場面を見て映画でもやるんだと思いました。

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