私の昔話6

「苦難の小湊暮らし」
小湊の親戚に交渉してもらい、小湊駅近くの街道沿いにその日のうちに、6畳1間に台所の付いた借家を世話してもらいました1年間は地獄でした。食料がほとんど無かったのです。青森に無かった分けでなく、我が家だけ手に入らなかったのです。店があるような街並みではなく、食料を買う事は出来ませんでした。米も野菜も魚も豊富なところなので、食生活は都会より充実していたと思います。農家や漁師から食料を分けて貰うのはそれほど難しい事ではありません。しかし祖父が親戚、知人をくまなく歩き、うちの嫁には米も野菜も魚も売ったりあげたりするなと釘を刺して歩いたので、食料を確保するのは難しい事でした。そんな中で時々食料を分けてくれたり、内緒だよと言って持って来てくれた親戚が居たから命をつなげたのです。母親が小湊の親戚に米を分けて貰うよう頼みに行きましたが、祖父に止められているので渡せないと断られるのを母親は何度も頭を下げて、最後は土下座して嘆願しましたがダメでした。その状況を外で待ちつつ、親戚の家の前の畑の中を喜んで走り回っている弟を横目で見ながら私は泣かないぞと歯を食いしばって耐えました。
ある時、私達は前日から何も食べていなかったので、空腹に耐えかねて、親戚の畑にあるトマトやナス、キュウリを真夜中に真っ暗な恐怖と戦い、泣きながら盗みに入りました。まだ青いトマトを美味しそうに食べる弟の顔が今でも忘れられません。それから常に私に出来る方法で食料を調達する事を考え、3人が生きていくために実行しました。

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