私の昔話9
「苦難の青森とお別れ」
屋根の上まで雪が降り積もる寒い冬、やがて春が来た頃、ギリギリ耐えを凌いでいましたが、3人とも栄養失調になり、いくら手紙を書いても父親からの返事もなく死を認識しました。そんな時、母親が思い出したようにつぶやきました。三重県に本当の兄と姉が居ると、母親には押上で薬局をやっている兄と造船会社勤務の弟が居ました。しかし母親は三重県からもらわれてきたようです。母親は物心ついてから一度だけ、修学旅行先の奈良の旅館で会った事があり、姉だと紹介された時、心臓が止まるほど驚いたと母親から何度も聞いておりました。着ていた衣服に縫い付けてあった、布袋の糸をほどいて取り出し、その中にあった油紙に包まれた、貯金通帳と一緒にあった何枚もの紙切れを何度も見返して三重県四日市の姉の住所を見つけました。躊躇している母親に姉に手紙を出すようすすめました。郵便局では、手紙は四日市に何日で着くか分からないと言われ、もしかしたら、着かない事もあると言われましたが無事に着く事を祈って待つ事にしました。1週間たっても、2週間たっても、3週間たっても返事が来ませんでした。あきらめ、忘れかけた頃、母親の姉から電報が届き、そこには、スグコイと四文字だけ書かれていました。翌日直ぐに列車に飛び乗りました。1年前、青森までの5日間が嘘のように2昼夜で四日市に着きました。実際には四日市の先の近鉄、塩浜駅を降りて、伊勢湾沿いの漁村、磯津まで、この時は足取りも軽く、延々と歩きました。途中の名古屋で電報を打ったので姉がリヤカーを引いて迎えに来ました。母親と弟はリヤカーに乗り青森では見せなかった笑顔に私も嬉しくなりました。
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