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ローマの日々 [Daily Romans]

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ローマ人への手紙を日々少しずつ、ゆっくり味わい、瞑想する旅をします。
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#罪

57. ローマ3:25-26 神の忍耐の時期

57. ローマ3:25-26 神の忍耐の時期

 人々が律法の下で生きている間、あるいは自分たちの伝統的な宗教の中で生きている間、神はすべての人々が犯した罪に対して忍耐して待っている、とパウロは言います。

 つまり、神は彼らに対して、忍耐して、まださばきを行っていない状態が続いています。

 全人類に対する神の義を真に実現するために、神は人が人に対して犯した罪だけでなく、その罪の根源である神に対する罪(23節)に対して、十字架上のイエスの血を

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50.ローマ3:15-18 神に対する恐れがない

50.ローマ3:15-18 神に対する恐れがない

 神を認めない人間の物語の続き。結果はどうなるのでしょうか?

 殺人だってしょうがない時があるんじゃないか、との考えすらあります。問題は「一緒に生きていたくないと思うほど相手の人格を無視・否定すること」です。その結果が殺人なのでしょう。

 負けたくない、一番になりたい。そのような思いも、他人との関係を壊していってしまいます。

 神を恐れない、神の裁きと罰の力を感じない。最終的な罰として神から

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46.ローマ3:9-10 義人はいない 一人もいない

46.ローマ3:9-10 義人はいない 一人もいない

 パウロ自身ユダヤ人であり、彼もまた神に選ばれた国民、神の契約を与えられたアブラハムの子孫として、自国民を誇っていました。

 でも、神の言葉が与えられているという点でユダヤ民族が優っているとしても、人間としてユダヤ人はもはや誇ることができないことがわかったのでした。

 パウロは神の言葉の真実に立ち返ったからです。

 "善を行う者はいない"。このように彼は旧約聖書の詩篇14篇を引用して答えてい

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(5) すべての人は罪人 ローマ3:9−20

(5) すべての人は罪人 ローマ3:9−20

罪を指摘されることを喜ぶ人はまれでしょう。なおさら罪人扱いされることには抵抗があります。

聖書が明らかにしようとしている罪とは、人に対するあやまった行為のことではなく、神に対するものです。

神に選ばれた民族であると言っても罪を逃れられなかったように、すべての民族、すべての人間は、等しく、神に対して罪を犯している者なのです。

41.ローマ2:28-29 神の祝福を受けるにふさわしい人

41.ローマ2:28-29 神の祝福を受けるにふさわしい人

 なぜユダヤ人であることが重要だったのでしょう
か。 アブラハムの子孫に神の祝福の約束があるからです。ユダヤ人は「割礼」という証拠で、自分がアブラハムの子孫であると信じています。

 しかし、パウロは、真のユダヤ人とは、外見的ではなく、内面的に割礼を受けた者であると言っています。霊的にこそ神との交わりを妨げるベールを取り除かなければならないのです。

 キリストだけがそれを取り除くことができる、と

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32.ローマ2:9-11 栄光、誉れ、平和という賜物

32.ローマ2:9-11 栄光、誉れ、平和という賜物

  クリスチャンは、「律法は人と人との関係について、善と悪を教えてくれるもの」と考えることに慣れてしまっているかもしれません。法律を破ることが罪だ、という考え方です。それはそうかもしれませんが、罪の根源は「人が神を神として敬わない」ことだとパウロは言うのです。

  ユダヤ人の考え方では、律法を守るユダヤ人だけが必ず神の国に入れるが、律法を知らないギリシャ人はそれは不可能です。しかし、パウロは「神

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31.ローマ2:6-8 人間の行いへの神の報い

31.ローマ2:6-8 人間の行いへの神の報い

ここでパウロは、人間のどのような行為を考えているのでしょうか。殺人、姦淫、窃盗など、同胞に対して極悪な行為でしょうか?

いいえ。

ここでいう善行とは、「栄光、誉れ、朽ちないもの」を求めることです、 これらはすべて、神ご自身のためのものです。逆に、神を無視した行為は、利己的な行動になっていく、と。

神を神としてあがめない人(ローマ1:20)は、永遠の命からほど遠いのです。

それどころか、自分

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28.ローマ2:2 神のさばきと刑罰を意識して

28.ローマ2:2 神のさばきと刑罰を意識して

互いにさばき合っている人間の上には、もちろん神のさばきがあります。"私たちは知っている "とパウロが言う通りです。では、互いに裁き合う者たちは、神が天から自分たちを見下ろしてさばいていることを知っているのでしょうか。

たとえ口では神を認めていても、無意識にさばき合うことが習慣になされているのであれば、上から裁き、非難できる全能の神である神を認めていないことは明らかなのです。

パウロはローマの聖

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27.ローマ2:1 "互いにさばき合う"という人間の性質

27.ローマ2:1 "互いにさばき合う"という人間の性質

もし二人の泥棒が互いに悪人呼ばわりして喧嘩していたら、滑稽です。でもそれは自分を悪人だと知られないようにするための演技であるかもしれません。

すべての罪人はそのように仮面を被っている、とパウロは言っているようです。けれども、誰一人として、仮面を被っているからと神のさばきを逃れられることはできません。

しばしば、私たちは他の人よりも良い人間であると認められようと努めているものです。

一体何が目

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(3)ローマ2:1-29 神のさばきと下される刑

(3)ローマ2:1-29 神のさばきと下される刑

人間どうしでなされる罪の行為について教える宗教、道徳規範は、ややもすれば互いに批判し合うための道具に早変わりしてしまいます。自分が変わるべきところを、相手のあら捜しをし、相手に変化を求めるような人間関係に陥ってしまうのです。人の基準ではなく、神の基準があることを知ることで、誰がより正しいかを競うのではない、いつくしみ深い神の判断を仰ぐ姿勢へと変えられるのでしょう。

27. "互いにさばき合う"と

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22.ローマ1:22-23 神の栄光を人間の欲望に変える

22.ローマ1:22-23 神の栄光を人間の欲望に変える

偶像とは、人間の欲望を表したものです。さまざまな偶「像」を崇めることは、人間自身の欲望を崇めることなのだ、とパウロは言います。

人間は、神の栄光を、人間自身の考えの結果に置き換えてしまったのでした。

言い換えると、人間は自分の考えだけを崇める者となった、ということです。意識せず、自分を神のようなものとしてしまっているのです。(ピリピ3:19)

この世の目に見える物事については、人間はますま

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21.ローマ1:21 神を神としてあがめない

21.ローマ1:21 神を神としてあがめない

万物は神によって創造され、万物は神のもの。

もちろん私たち人間も、のはずです。ところが人間は自分勝手な思いのままに、自分を、そして万物を使ってしまっています。

「このからだは自分のものだ。他の誰も、自分の考えや計画に干渉する権利などない。私が自分ですべきことを、自分のしたいことのように決めていくのだ。もしそれを妨げようとするものがいるなら、たとえそれが神であろうとも、それに対して怒りを向けるの

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20.ローマ1:19-20 神の義が人間に明らかにされている

20.ローマ1:19-20 神の義が人間に明らかにされている

神が人間の不敬虔と不義に対して怒るのは当然のことでしょうか?

もし人間が神を全く知らず、そのために無視し続けているだけだとしたら、神の怒りは当然のこととは言えないように思えます。

けれども、人間は神についての知識は持っているはずなのです。というのも、神ご自身がこの世を創造なさった時以来、さまざまな働きを通して人間にご自身を示してきていたからです。

その証拠に、どんな民族にも必ず宗教があります

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19.ローマ1:18 神の怒りが啓示されている

19.ローマ1:18 神の怒りが啓示されている

神の義は福音に啓示されているのに対して、神の怒りは天から啓示されている、とパウロは言います。

神は実に、その愛のうちに、人間と一つになることを願っているのですが、人間の不敬虔と不義の問題のゆえに、そのままでは決して一つにはなれず、人間の祈りもかなえられない状態に陥っているのです。

しばしば聞く言葉に、「神が怒っている」というのがあります。人間は、なぜか神の怒りを知っているのです。

それが、神

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