もっていないものは出せない。
こんにちは。
以前、《 ”強み”からは逃れられない 》という記事を書きました。
今日は、「もっていないものは出せない」という考えかたについて書きます。
自分ができることと世界をどうつなげればいいのか、というのはとても難しい課題ですが、意外とシンプルな見方もできるよね、ということを伝えたくて書きました。
よければお付き合いください☺︎
誰かといっしょに、価値をつくるときに
「それをされても、こちらのやることは変わらないしな」
という結論になることがあります。
そういうときは、共通の目的を持った(はずの)相手がいて、その行動に困っているとき。
さまざまなことに関して、こちらとの認識のズレが大きすぎると感じています。
具体的には相手の行動に対し、
「それをやることが、本当に《お互いに》いいと考えてやっているのかな?」と困惑しているときや、
どう考えてもそれがその人以外の誰かにとって良いことがあるようにはおもえない、というとき。
相手の性質を変えるのは無理だし、信用を育てるつもりのない相手と頑張ってうまくやろうとするのはコストパフォーマンスが悪すぎるという意味で正しくないと考えているので、
乖離が大きすぎて無理という判断になることが多く、
困ったな、という困惑が不信感に変わり、カップの水が溢れるように結論が出たあとは、粛々と対応をしていくことになります。
信用をするのをやめる、というのは、そこまでは長くとも、その判断は一瞬でできてしまったりします。
理性や感情とは別のところから、(それがどこかはわかりませんが)すっと結論が出てくるような決まりかたです。
以前、こちらの記事に、誰かと何かをいっしょにやるときの考えかた、スタンスについて書きました。
みなさんは、自分の取り組むこと、取り組まないことをどのように決めているでしょうか?
私はもともと自分ができることが少ないと考えているのもあって、先に《やらないこと》を決めることが多いのですが、
やってみて初めて、これは《自分が取り組むべきではないこと》だとわかることがあります。
特に、誰かといっしょに、他の誰かに向けてともに価値を提供する、という場合、協働する相手に対して、新しいことがわかった場合、当初予定していたことを引き続き可能にしていけるかどうか、は大事なポイントです。
能力や報酬など、条件的に合わない場合、やってみたら違ったなど、感覚的に合わない場合、両方ありますが、
たくさん判断のポイントがあるなかで、
◎自分の目線しかない(言動がそのように見える)
◎自分の利益 ”しか” 追わない
(自分では気がついていないのだろうけど、それがビシビシと伝わってきちゃう)
相手とは、それがはっきりとわかった時点で白紙に戻すことにしています。(できるだけその人以外の人に迷惑をかけない方法をとりますが)
これはある意味仕方がないことで、
考えすぎずにまずはやってみる姿勢を大事にして、始めることを優先するのは同時に、実際にやってみてわかったこともいれて、随時判断していく、という前提をもつことだとおもうんですね。
おこがましいかもしれませんが、関わる相手を ” 選ぶ ” というのはそういうことで、同時に自分も選別される立場にある、とおもっています。
いっしょに価値がつくれるかどうか、それをちゃんと(予定していた誰かに向けて)提供できるかどうか。
こちらで判断軸をもっておかないといけないのは、そういう相手に「察してもらう」というコミュニケーションは期待できないことが多いため(そもそも相手目線がちゃんとある人とはそうならないので)
そういうスタンス、考えを許容できません、とこちらから伝える必要が出てくるためです。
他者のコンテンツに敬意をもてない人
コンテンツ、という言葉をよく聞きます。
これは、中身、ということだと理解しています。
自分が、これがあったらいいな、こういうことができたらいいな、というものがあるとき、ひとりで、あるいはだれかと協働したり、共創をしたりして、なんらかの形にする。
その成果そのものや、その過程、が中身、という認識でいます。
逆に言うと
《受け取った相手》が《中身》と感じられるものが、有形無形問わず、コンテンツと呼ばれているとおもいます。
成果については、お金の形をした利益だけではなく、おおきく言って、誰かに何かを与える、という価値だとおもいます。
そして、ひとに何かを与える、というのはモノやお金だけではなく、《その相手が喜ぶもの》です。
貢献と言ってしまうと大袈裟ですが、
(自分を含めた)誰かのうれしいことや、たのしさ、喜んでもらえる要素に対してのアプローチ全般が《中身》になり得ると考えています。
そして
できることがどんなに少ないとしても、
それだけが理由で「他人を喜ばせることができない」ということはありません。
それが直接の原因ではない、という意味ですが、
提供できるものを持ち得ないから喜ばせることができないのではなく、相手の目線がない、想像しようとしないから、喜ばせることができない。
先に述べた《自分の目線しかない》《自分の利益しか追わない》人はこれなんだとおもうんですね。
とにかく本人のなかで自分の存在が大きすぎるというか、
他者に対して何かを与えることができるかどうか、という場面で、
自分のもっている(自分が価値と認識している)ものの中で、なにかないかな、と探すのと、
相手目線で、相手がほしいもの、あったらいいなと感じていそうなものの中で、自分にできることがないかな、と探すのは、
似ているように見えて、全然ちがうことなんですよね。
もちろん、もっと具体的な場面で、求められる能力が足りなくて役に立てることが少ない、ということはあります。そういうとき、
「誰かのコンテンツにのっかる」ということ自体は、全然アリだとおもうんです。
相手にも提供できる価値を持っている場合で
誰かのやりたいことに、自分のやりたいことで絡めるポイントがあるなら、
どんどんトライして、そういった機会を利用してブラッシュアップしていけばいい。
相手にとっても、ひとりでやるはずだったことが、誰かと組むことでもっといい結果になるならうれしいし、それを最終的に受け取る誰かにとってもきっと《うれしいもの》になります。
パイが大きくなるんですよね。
これは、端的にいって《いいことの総量が増える》ことを指します。
分ける前の総量を大きくして分配すれば、個々の取り分がおおきくなる、という考えかたです。
問題は、その絡みかた、のっかりかたの部分だとおもうんです。
ここに敬意があるかどうか、というのが大事なポイントです。
それがなければただの《コンテンツ泥棒》になってしまうからです。
《敬意》は、ここでは《相手の目線》と意味付けて話を進めます。
必要と必要をつなげる
アイディアとはなんだろう、と考えることがよくあります。
以前こちらの記事にも書いたのですが、
そんなに斬新なもの、誰も見たことのないものというイメージはないんです。
視点を変えたり、相手の目線から想像して、「なにが求められているか」を、自分の頭で考えて、自分や誰かのできることとつなげること。
そんなふうに捉えています。
既にあるものを組み合わせたり、一見、価値があるとはされていないもののリフレーミングをして、新しく価値として意味をつけたりできること、
これは、接してきた体験の多様さも関係してくるとはおもいますが
もっとシンプルに、「自分はこれを価値として、こういう行動をします」と決める勇気のようなものが必要で、ここが見落とされがちだと感じます。
その人の周囲の人があまり考えない視点から発想したことや、実際にやろうとするひとが多くないことを、やります、というのは《アイディア》と呼ばれがちで、これは発想そのものも価値かもしれないですが、
目的に対する真剣度というか、本気度に、価値を感じるのではないか?
という仮説を持っています。
というのは、新しいことやわからないことを否定する、動物本来の性質のようなものに反することって、やっぱりこわいことだとおもうんです。
そこを越えて、それをするかどうか。
そういう意味で、アイディアは勇気、とおもっています。
そう考えるのもおもしろいな、という程度ですけど。
何が求められているのかを理解して、できることをつなげていくとき、
相手に提供できるもののなかで、自分のできる範囲を見極めることも必要だし、それには、「相手がなにを価値とおもうか」が想像できないといけません。
ここが欠けていると(自分目線しかないと)、《場に求められるもの》自体が見えてこないんですね。視点が固定化されているので。
結果、そのひとは、必要なことがわからないという意味で目的に近づけない、つまり、自分ではコンテンツをつくることができないのだとおもいます。
自分という点と、相手という点がつながらないので、目的地につながってこないんです。
特にいまは、従来のモノのやりとりではないものが多様化していて、無形のものの価値が上がっていたり、
ひとを出し抜いて一人勝ちをするより、補い合ったり協力しあったり、マッチングの精度を高めたりして、なんとか切り抜けるというほうが多くの人にとって現実的に感じられる時代です。
みんなが発信者になり、コンテンツ作りに没頭し、アテンション争奪戦になっているからこそ
《感動させること》《誰かを喜ばせること》が、サービスやサービス提供者自身の価値になる、という how toが、平積みされている本をパッとつかんで2ページ読んだだけでも目に飛び込んでくる時代なんです。
そういうなかで、自分目線しかないひとは他人の《必要》が視野になく、自分の《必要》に必死になる。
皮肉なんですが、「自分のことしか考えないこと」が、「自分を評価されるためのコンテンツがつくれないこと」に直結しているんですよね。
そして、これは新しく気がついたことなのですが、そういうひとは誰かのコンテンツに、自分の評価を求めようとするようなんです。
誰かのコンテンツの真似をする、というのとは違って、
他人のコンテンツそのものに自分を盛り込んで積極的にアピールしようと目論んだり、
誰かと共創しているコンテンツを自分だけのもののように扱う。
先に、のっかる、ということ自体について書いたのは、ここと分けたかったからなんですが、のっかりかたに敬意がないんです。
GIVE&TAKE で言うところの taker いわば 天然taker で、ナチュラルに奪おうとしてしまっているんです。
本人に自覚はないだろうし、打算的なことが悪いともおもいません。
損得を考えるのは自然なことで、かつ重要なことです。
では、なにが問題なのか?
それは
自分にしかフォーカスが当たっていない、ということ。
その自覚の有無は関係がなく、行動にそれが表れてくること。
これでは信用なんてできるわけがなくて、袂を分かつのが必然になってしまいます。
「もっていないものは出せない」 は覆らない
これは、練習してないシュートは打てない、入らない、という話です。
シュートって練習したら入るようになりますよね。
感覚がわかってくるから。
で、この感覚って、どっかから急に湧いてきたんじゃなくて、反復ですよね。
繰り返し打って、練習で目つぶっても入るって感覚を得るから、試合でも入るわけですよね。
自分目線しかないひとは、
自分が練習をしていないから感覚をもっていなくて、それがないからシュートが入らないのに、練習をする、というシンプルな手段を強化せず、誰かのコンテンツにのっかることで、自分をよく見せることを選ぶ。
相手がなにを喜ぶか、どんなことがチームを助けるか、その想像やリサーチに労力をつかわずに、他人のアウトプットに「1枚かむ」ことで、自分がアテンションを得る機会を得ようとするんです。
自信がないのか、楽をしたいのか、真意は本人にしかわかりませんが、ここで重要なのは、
とった行動はなかったことにはできない、ということ。
「あなたが何を言ったかでなく、何をしているか、で判断されているんじゃないですか」ということなんです。
チャットで交わしたメッセージを消すことができても、それを言った、という事実と、受け取り手の印象は消すことができませんし、
協働して発信していた内容を、個人のフィードで転用するのに作ったアカウント自体を消すことができても、それを作ってやろうとしたこと、それを目論んだという事実が与えた印象は消えないですよね。
なかったことにはならない。
むしろ
「後ろめたいからこそ、残しておきたくなかったんだな」
としか感じません。
自分にないものをあるように見せることって、《それを見抜けないひと》にしか通用しないのだけど、それで本当にいいんですか?
という話なんですね。
誰を相手にしていきたいのか、
という話です。
" 他人のうれしさ " をどう想像するか
ひとを喜ばせるのって簡単です。
自分の技能やスペックと関係がないところで、《できることがたくさんある》という意味でとても簡単。
《できることの中から何を選ぶか》はすこし苦労しますが
これは、自分と相手の、うれしいと感じることが違うからです。
たとえば小さい子が、その子の大好きなお菓子を自分が食べずに我慢してこちらにくれたときにうれしいのは、その子にとってのいちばん価値のあるものを差し出してくれた、とわかるからうれしいわけです。
これは、まだそんなに嬉しさの種類を知らないその子だからこそ、うれしい。
他人のうれしいものを想像するには、体験が必要で、それが圧倒的に少ない子どもだからこそ、
知っているもの全部のなかから、その子が差し出せるいちばんいいこと、を自分に与えようとしてくれたから感動するんですよね。
一方、大人になると、相手にとって嬉しいものを差し出すのがマナーというか、品性を問われるところになります。
見当違いなものを差し出してしまうと、センスを疑われるし、
「相手が受け取る」こと < 「自分が与えたい」こと
という具合に、自分が大きくなっていると、とりあえず(自分の今後のために)なんかあげとこ、っていう自分の都合優先みたいに見えてしまう。
その意図が伝わらない(隠し通せる)とおもってしまえる心理こそ、そのひとのセンスのなさを露呈しているのですが、
これって、たとえば贈り物などを選ぶセンスのなさそのもの、の話ではなく、
このとき相手が感じているのって、そのひとの人付き合いのセンスのなさ、なんですよね。
善悪で悪い、という話ではなく、損得で損、という話です。
では、相手の嬉しさを想像するにはどうしたらいいのでしょうか。
これには、相手に喜んでもらった経験もそうですが、
「何をしてもらったときにどうして嬉しかったのか」という体験をどのくらい日常的に自分が思い出しているか、というのが肝な気がします。
というのは、
これってそのまま「自分が普段なにに感謝しているのか」と言い換えることができるとおもうんです。
なにに感謝しているか、どういうことに感動をしているのかというのは、隠せないんだとおもいます。
時間を過ごしていけば、このひとは、これが価値と感じている(あるいは感じていない)んだな、というのは伝わりますから、
自分が普段何に感謝を寄せているかとか、
誰がしてくれたどんなことを
すごい
かっこいい
ああなりたい
っておもうかがすごく影響してくる。
自分が、何をよしとして、何を許さないか、というのは、おもっている以上に隠すことができない。
もっていないものを出せないのは、物理的に、《そのひとの中にない》からですが、
それと同じくらい、《その人のなかにあるもの》つまり、普段考えていることを言動と切り離す、というのも物理的に無理があるのだとおもいます。
そりゃそうだ、って話なんですが、
ここがつながらないひとは一定数いて、自分とズレが大きいほど、やりとりのストレスも大きくなります。
いつでも、自分が選ぶことができるのは、《その状況に対してどう行動するか》しかないのですが、
自分を保つためには、そのストレス要因との距離感をしっかり見極めて調整する必要があって、これは自分にしかできないことになってきます。
「自分を保つ」というのは「自分のアウトプットの質を保つ」ことと同義なので、
たとえば、自分のアウトプットに対価を払ってくれるお客さんのような存在に対する責任として果たす必要が出てきます。
そして、守るべきはそういった正当な対価を払ってくれるひととの関係なんですよね。
自分の価値を約束するところで対価を得ている場合、この責任は重大で、
「あいつが悪い」「いやこいつが」って言っててもダメですよね。
必要なときに必要な行動をとれて、
自分目線と、相手の目線から想像したこととのバランスがとれていることが、その行動から伝わるから信用されるわけです。
そんなに簡単に信用って得られないし、その割にちょっとしたことで失ってしまう、というのはたぶん本当で、
これは、そもそも誰かを信用するということ自体のハードルの高さがあるんだとおもいます。
だからこそ、すこしずつ重ねるしかない、ということなんでしょうね。
難しくて不可欠なことだからこそ、これを楽しんでできたら最高だなぁとおもいます。
今日は、「もっていないものは出せない」という考えかたについて書きました。
読んでいただきありがとうございます。
逆に、もっているものを出すにはどうするか?
これは、素直に出していけばいいと考えています。
自分をひらいて、「こういうのはどうですかね?」って身近な「外」に出してみる。
否定される可能性もあるし、それはすごく恐いですが、同時に、それを喜んでくれる、という何者にも替えがたくて、ありがたい存在に出会う可能性も持つことができます。
それは、先ほど述べたように、《ないものをあるように見せたときに、その浅さを見抜くことができず、結果としてインスタント承認を与えてくれるひと》ではなく、
きちんと価値を見抜いた上で、「これはすごくいいね」と言ってくれるひと。
そういうひとたちの存在がいちばんありがたいのは、そのひとの価値観で感じたことを「正直に伝えてくれる」ことなんですよね。よくても、よくなくても。
いいっておもったことしか、いいって言わないかわりに、すごくいいときはほんとうに喜んでくれて、それを隠さない。
自分はそういうお客さんや仲間に育てられたな、とおもうし、いつだってその人たちに堂々と、今していることを報告できる自分でいたいとおもうんです。
これからもそういう関係をつくっていきたいし、だからこそ、自分のサービスや、提供する価値は、そういうひとたちに向けていきたい。
誰を大事にするかをちゃんと選んで、力を発揮できる状態でいたい。
そんなふうに、考えています。
フリーのコーチ、バリスタ、COOKをしています。
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