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知っておきたいこと

 
こんにちは。

今日は、自分の場合の行動を決めるプロセス、それについて《知っておくべきこと》について書きます。


今、いろんなことに臆せず(臆してはいるのですが)

まずはやってみようとおもえること、「違うな」と思ったらすぐに仕切り直しに入れること
など、

意志決定の過程というか、自身の価値観と、とる行動の距離の短さが、人から見たときにめずらしく見えるのかな、と感じることが以前に比べ増えました。

具体的には、

自信なんて全然ないのに、あるように見えると言われることや、「いつからそういう考えかたなんですか」とか、「常に自分の意見を言えるコツは何ですか」とか、「価値観体現してますよね」と声をかけられるということなんですが、そういうとき、いつも感じるのは

「自分に関して持ってる情報がおおいだけです」

ということです。

Gmailの自動振り分け機能みたいなもので、笑

振り分け先を決めるキーワードに当たるのは、確かに自分の《いまの感覚》ですが、その基礎にあるのは《自分に関する情報》。

これは、何かに対して自分がどういう反応をするか知っている範囲が広かったり、その深度が深かったりするということなのかなと感じています。

やってみたことに関してはそれがあるので、その種類や量が多い、ということなのかな?とおもうこともあります。

それはやっぱり

見ているもの、知っていることが少なすぎる(から、選べない)と気がついた時点から意識的にそれを増やす日々を過ごすことで、サンプルが溜まり、考えと行動の距離が近くなったため、

結果として「自分の言葉で話している」「考えを体現している」という印象になるのかもしれません。(自覚はないですが)


この1年、大小さまざまな変化があり、自分も周りもそれぞれが適応して今があるなと感じていて、

まだ変化の途中という人も多い印象で、自分もその1人ですが、

そんな中で、何かを変えたいけど、不安だからとか、失敗するのが嫌だからという理由で何かしらのできるTryを諦める人がいるなら、微力でもそこを支えたいという考えでいます。

自分の「なぜこうなったのか」の考察を共有することで《失敗》を具体的に想像できる助けとなれば嬉しくおもいます。

本人が何を失敗と位置付けて、どこまで許容できるかが具体的にみえれば、とる行動も具体的に決めやすくなるとおもうからです。

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《柳の下の幽霊》 を見にいく


何かをしたい、けれど、に続くのはたいてい不安に関することです。

挑戦の最大の障壁は能力や資源の不足ではなく、失敗への不安
これは常々感じていることです。自分も例外ではないからですね。

「柳の下の幽霊」という表現があります。

一度不安に焦点をあてたことで、何もかも不安に感じる、
実体をみていないけれど「イメージで怖がっている」状態が、夜風で柳が揺れるのを遠くから見て幽霊がいるように見えてしまうという比喩。

不安に向き合う作業は嫌なものですが、やってみると得られる効果もおおきいことに気がつきます。

柳の下に(実際に)行く、自分で確かめるという作業をすることで、

不安の実体が見えてくる、それが何かわかることで、今の自分の状況とやりとりをすることができます。

実際のトライをする、しないに関わらず、イメージで怖がっているだけの今よりは、明らかなことが増える、という考えかたで、不安をそのままにしない、ということですが、

この対処の過程にある具体的なことが、自分に関する情報の蓄積であり、「こういう考えかた」になった理由だとおもったんですね。

どう対処したらいいのかわからないことを前にしたとき、

観察から始めて、自分の行動を決める → その結果を観察して、次の行動を決める、その反復

自分の場合は、それがないと生活ができなかった「サンプル収集の日々」とそこで得た情報試行錯誤で踏み固められて、それを土台にしたのかなと、今はおもっています。


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失敗を歓迎する


うまくいかなかったことに対し、周りが「Nice Try」という声をかけるか、咎めるように「失敗するな」という圧をかけるか、

これは選択可能で、どちらの反応を受ける場にいるか、というのも選択が可能です

どこに身をおくかということですが、少なくともそのサンプル収集DAYSのとき、私は後者の環境にはいませんでした。

自分にはトライの必要だと感じたからこそ、無自覚にそれをしやすい環境を選んでいたのだとおもいます。


場所によっては「失敗」と咎められるだろう ”トライ” を繰り返すことができた結果、人が失敗と呼ぶものに、自分は歓迎すべき感情すら持っている。

すっっごい嫌だったけど、あれがなかったら今のこれはないな、っていうことがいくつもあってそれを自分でわかっている状態だから、今も、《やってみる、の価値》がとても高いんですね


では失敗とはどういうことか?

「うまくいかない状態」=失敗 

ではない
ですよね。

仮に「取り返しのつかないこと」=失敗とすると、これって起きる確率としてそこまで高くないのでは?という感覚です。

自分が注意深くあることが前提ですが、「やってみる」ことのいちばんの効果は《自分の場合、どうか》という情報が得られることで、この価値は情報の実利性の高さにあります。


世に《他人が有益とみなした情報》が溢れ、わかった気になってしまうリスクがとても高いなぁと感じることがありますが

多くの人が知りたいのは、その有益とされた情報が【自分にも適用できるか】どうかではないでしょうか。


「センス」とはつまるところ、自分に合うものがわかる、ということだとおもうので、日々の過ごしかたというか、生きかた自体のセンスみたいなものを磨くには自分に関する情報をもっていないといけない、

そのためには、いろんな体験を自分にさせてみるというか、やってみた結果を自分に見せる作業が必須になります。


また、価値観とは、そのトライのなかで得る具体的に自分が信じたいと願う対象のことだとおもうので、やっぱりトライによる情報収集は避けて通れない、とおもうんです。


さらに、それを踏まえて《自分の解釈をつくることができるようになっていくこと》が成長とか、発展とかと呼ばれるものなのではないか。

というのがまさに私の解釈なのですが、この解釈を変化を見越して暫定的に持っておく、というスタンスはこの時期につくられたとおもいます。

今、「自分はこうだとおもう、理由はこう」と話すときにはこの、解釈の部分を話していることが多いんですね。確かめてはいない、というかそれが正しいかどうかは確かめようがないとき、あくまでも自分の根拠をもとに、今の結論を話そうとするから、事実とは別のところにある「自分の考え」を話している状態になるわけです。

予想といえば予想であって、「他の人はどうかわからないけど」という前提に立った上で、自分なりに「確かめたことがあること」を根拠に、「知っていること」でなく、「わかっていること」を出している。

知っているとわかっているの違いはあくまで自分で感じているもので、見聞きしただけのことは知っている、そこから「これ以上は考えられないな」というところまで移動したあとのものが「わかっている」だと捉えています。

一旦これはこういうふうにわかった(いちおう結論が出た)、ということを話しているので、自信があるように見えるかもしれませんが、

この自信はあくまで自分という範囲の一部に限定されているものなんですね。

これはやったのでわかったからこういうふうに信じています、という言い換えができることだけを話しているというか。

自信があるという表現に違和感があるのは、そういう感覚だからなのかなと。

一旦わかったことを出せるようになったのは、変更可能、という許可を自分に出すこととセットでできるようになってからです。

これは、変えてもいいことを知ったときに、そっちのほうが良さそうだ、と感じたことが決め手となっています。

自分らしくいる、というのはある意味、矛盾を解消しないということではないでしょうか。


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「行動さえしなければ」 


うまくいかないことがあると、程度の差はあれ嫌な気持ちになります。
嫌だから、避けようとおもう。

考える材料は発展の材料なので、同じ轍を踏まないようにする過程で似た選択を避けたり、違うことを試すわけです。

パターンや分類に自分で気がつくからで、

誰かがダメだと言うからやめるのと、自分が痛い目を見たからもうしない、というのは全く違う構図です。
(意志決定の主体が違う


価値観がそれぞれ独自のものであって良いなら、それを作っている個人的な感情や体験を把握していることが必要で、それは主体の《とって替わられなさ》とも言えます。

《うまくいかなかったこと》を、悔やむ、という視点で見たときに、自分で決めて痛い目を見たことと、他人の意図を優先して行動を決めてしまったことと、どちらが悔やみやすいかと考えるとき、これはやっぱり後者だとおもうんですね。

「あのとき、行動さえしなければ」とは実際あまりおもわないですよね。


行動する、しないという天秤でなく、自分で決める、自分じゃないひとが決める、という天秤のほうで悔やんでいる。

いろんな人の話を聞いたり、感覚を知ったりするとき、ここは多くの人の盲点ではないかと感じています。

実際にやったことだけでなく、それをどう決めたのか。


体験自体は過去のできごとで変わらない
ものの、自身の変化とともにその価値が変わるということはよくありますよね。


ワラサを釣ったときには鰤だったらよかったのに、と残念がったけれど、泳がせておいたら鰤になった、みたいな。(ちがうか)

うまくいかなかった経験って、思い出して恥ずかしくなったり再び傷ついたりするから、鬱陶しくはあるのだけど、なかったことにしないことが大事で

これを私は《失敗の執行猶予》と呼んでいます。笑
(そのときに失敗と判定しない。時間を経て価値が変わるかもという視点)

うまくいかなかった行動そのものを否定の対象にするのではなくどういうふうに決めたか、に焦点を当てることで意味づけを確認する。

どんなふうに考えて、そこにはどんな譲れなさがあって選んだのかが自分でわかっていることで、ワラサを鰤にしていけるとおもうんです。


だから、たくさん失敗できる環境、そういう機会を与えてあげることが、自分を自分にしていく、という意味で価値が高いことなのかなとおもいます。

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ひとりスクラップ&ビルド


自分にとっても、サンプル収集DAYSは、ひたすら自分が見たいものを見に行かせて、やってみたいことをやらせてみて、自分の反応をずっと観察しているような日々でした。

知らないことを知りたくて、それを求めて自分の足を進めること。
いろんな場所に行って、

それがどこでも、行った先に【自分が】適応して生活をたてる。
それがどんな方法なのかわからないところからいつもスタートする。

前回の方法が通用しない場所へ移動を繰り返し、先入観をぶち壊すことから始めてあたらしい場への適応をする中で、

たくさんの場所で使える発想はどんなもので、それ以外とどんな違いがあるのか
を検証、体感する。

よそもの体験、自分がストレンジャーになるとどういう前提に立つか、というのはこちらの記事でも書きましたが


海外や慣習の違う場所、伝わらない前提で、どうしても伝える必要が出てくる条件はやっぱり生活をすること、だとおもいます。

伝わらないと生活ができないので「どうしたら伝わるのか」頭を絞るし、

「本当に伝わったのか?どこまで伝わったのか?」
を確認しない限り不安で仕方がない。

逆でもそうで、「自分は相手が伝えていることを理解しているのか?」「もしかしてとんでもない勘違いをしているのでは?」
と考えるようになるので観察から裏付けをとりたくなる。

実際にそのすれ違いで大変な目に遭うこともあって、だから必死になれる。

今、人の話を聞くときに、何が「核」なのか?を観ようとすることや、

「何を言っているのか」と「何を《言おうとしている》のか」の視点が別であること、


認識のズレを確認するために「要約」をするような聞きかたになったのは、これが影響しているのかな、ともおもいます。


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《働くこと》 と その恩恵

アダム・グラントの「ORIGINALS」の中に、

「幅広い経験」と「深い経験」が独自に組み合わさると創造性が発揮される

という旨の記述があり↑
具体的な例があがっています↓

世界の著名デザイナーについて調べたところ、海外経験はただ住んでいるよりは実際にデザインに触れたなど働いていることが影響を及ぼすようだ。
さらに、アメリカからカナダではなく、アメリカから日本や韓国といったような自文化とは大きく異なる場所での経験が創造力に繋がるとした。
また海外経験は長いほどよい影響力を出すことが分かった。

幅広い経験=文化圏、 深い経験=その期間
が《海外で》《働く》だとしたとき、自身の体験から理解したことがありました。

初めて海外で働きたいと考えたとき。

海外に行くというと、具体的な目的がある人も多いですが自分の場合それはなく、見てみたかったというボンヤリした理由でした。

ただ、風景とか街並みとかを見る、ではなくて、自分の国じゃない場所にどんなひとがいて、なにを考えてどんなふうに生活をしているのか
それが知りたくて、そして、

できるだけ本当のところを知りたかったので、仕事をしたいな、と考えました。

”働く” ことが、いちばんその土地がリアルにわかると感じていて、どんな形でもいいから、仕事を含んだ《生活》をしたかった。


欲しいのは知識ではなく、実感であって、
これは、「知っているだけでは使えない」ことが経験からわかっていたからだとおもいます。

当時は専門学校に行きながら就職先の動物病院で働いていて、学校で習っただけのこと(知っているだけのこと)がどれだけ当てにできないか、対して、現場で実践から得ることの確度の高さと定着の良さを体感で知っていて、

知識は体験とつなげて理解することで初めて使えるものになる。

そんなふうにおもって(むしろ思い込んで)いたので、《働く》が絶対条件になりました。


たとえば、旅行で海外に行き食事をするとして、カウンターから厨房を覗くことができる程度じゃないですか。

でも実際に働くことで得られる情報量って全然ちがって

どの食材のどんな状態に対してどのくらいの火力か、みたいな技術的な部分にはじまって、

店の持つ設備条件に対するオペレーションとかメニュー構成、さらにそういう決定事項が何で決まるかというときに、

効率や生産性優先と思いきや、実際には文化や風土や歴史的な背景の要素が強かったりする。


そういったことを目の当たりにするのが本っ当におもしろくて、

人種問わず人間にとって大事なものって何なのかとか、逆に無意識レベルで影響しちゃうアイデンティティとか、そういうのを実際に体験した情報から考えることができる。

なんというか、《そうせざるを得ないこと》がそれぞれの生活にはあって、その外向けでない「しかたないじゃん」というようなニュアンスに、正論が入り込めないリアルさがあるんですよね


合理的な説明がつけられないことのほうが自身に与える影響が強い、という例を遠い文化圏で見るからこそ、真理なのかなと視野が広がるような感覚でした。


こんなに違うのに同じってところに逆に信憑性あるな、という。

こういった、箸にも棒にもかからないような考えにもかかわらず、咎められることなく自分の興味が尽きない部分を深められる時間があったことが、ORIGINALSでいうところの《深さ》のある経験になったのかなとおもいます。

ただ、気が済むまで時間をつかうことはできたけれど、それが何になるという当てはなかったわけで、見た目はすっっごい無駄っぽい時間なんです。


これを自分に許すのって、やっぱり日本じゃ難しかったよなとおもいます。
字が読めて、文化を理解しているというだけで、周囲から受けることになる同調圧力って全然ちがうので。

私も含めて海外のほうが心理的安全を感じるという人も多いとおもいますが、これは「わからない」ことと、「わからなくても許されている」ことに安心をするのだとおもいます。


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インプット × アウトプット × 習慣的内省


遠い文化圏の現実的で具体的なことを目にしたとき、自分の既に知っている文化、現実との共通点を見出すようになるのは、

あたらしい生活のルールを自分にわかるところで理解をするためであって、
自分の知っていることでいうとこれはどれに近いだろう、と考えます。

その距離のままではわからないので、具体的に想像ができる範囲のことに置き換える必要があり、見えかたが少し変わることで想像をしぼっていくことができる、ピントを合わせるような作業です。

今日わからなかったことや危なかったことをそのままにして明日を迎えられるほどの度胸がなかったというのはこちらの記事にも書きましたが

起きたことに対して自分なりに考えて結論を出すことが理解だとすると、やっぱり書くことでそれを進めていったのかなとおもいます。


毎日、知らないことや予想がつかないことの嵐(圧倒的なインプット)によってちゃんと困ることができて

頼れる人があまりいないが対処していかないと生活が成り立たないという状況があって(何かしらのアウトプットを求められる)

毎日混乱しているからそれを鎮めるために状況を整理している(書く)



起きたできごと(で見えたこと)

×

自分がした対処(とその結果)

×

その両方の観察記録(書きとめる中で考えること)


今の考えかたをつくったと言えるサンプル収集DAYSにやっていた中身はこの3つだとおもいます。


生活のリアルを見にきたという目的が先にあるため、滞在を続けることが必須になり、「資金が尽きて帰国というゲームオーバー」を避けたいので、仕事を得るためにとにかくできることを探す、というような。


「First shitty Draft」という言葉があります。

「いちばん初めのアイディアはしょぼいもの」という意味だそうで(完璧なものを求めず)現状における最適と考えられるものを、速く試すことに価値を置くもの。

この価値は何かというと、Second better Draft のための情報が得られることだとおもいますが、この時期の自分は、

玉石混交のインプットと、First Shitty Draftばかりのアウトプットで、失敗するのが前提、でも助けてくれる人もやっぱりいる、

危うさもありながら、どこかで何とかなると信じることもできるような、そんなわけのわからなさの中にいました

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わけのわからない中で抽出したことをもとに行動をして、あたらしくわかったこととのやり取りで指針を変えたり変えなかったり、やっぱりダメでもとに戻したり、そういうことを繰り返している間やっているのは、やっぱり、「確かめつづける」作業なのかな、と感じています。

ここで使っている材料が、他人の情報でなく、自分の情報であること。

トーナメントみたいに勝ち抜きで残ってきた価値基準が、いまの自分なわけで、私と接する中でそこに何かしらの確かさを感じるひとがいるとしたら、それはその土台の部分から感じるものではないでしょうか。

すこし具体的なことで言えば、

助けてくれる人がいたこと、それによって何度も何とかなったことで、人は基本的には人の役に立ちたいと願っているものだ、と信じているし、

想定できる最悪のパターンを許容できるなら、やってみるほうが速い、という考えもそう。

コミュニケーションを目的とした会話の場で、言語やその能力に関わらず「これを言おう」「こういうふうに反応しよう」みたいなことを、あらかじめ決めておくことなんて本当にはできないということ、だからこそ普段からどんな考えでいるかが重要になること。

良いことだけということはどんな国にも地域にも職場にもなかったから、逆から見たり、良し悪しが誰にとってのものか、という視点が濃いこと、だから期待せずにいられることや、当ては外れるという前提。

そういうことと同じ《わかったこと》の中に、「失敗は価値があるもの」という実感があるんですね。

それは、その付き合いかたで変わる、とおもっているから。

失敗と後悔って関係として結びつきが強いとおもうのですが、

決める段階で考え切ることで、後悔のリスクヘッジとしているところってみんなあるとおもうんです。

「あれだけ考えたんだから、もう一度同じ状況になったとしてもきっと同じものを選ぶよな」というところまで考える。

どのみちあのときの自分にこれ以上の答えは用意できなかったんじゃないかな、という着地になることで前向きに諦めがつくんですよね。

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今日は「失敗を考える」「具体的に想像をする」ことのきっかけになればと考えて、自分がおもうところとその根拠を書きました。

読んでいただきありがとうございます。

昔、人に言われて革命的に「それだわ」っておもったことがあるんですが、自分がやったことがないことをやろうとしたときにびびっていたら、ものすごく明るく、

「大丈夫だって、絶対失敗するから笑」

という声をかけてもらったんですね。

すごくユーモアもあって、その人のキャラクターもあり、おもわず笑ってしまったんですが、180度心持ちが変わるような体験で、すごくありがたかった。

みんなが本当にほしい言葉ってこれじゃないかなって今でもすごくおもうんです。失敗しない方法を知って安心したいんじゃなくて、失敗しても大丈夫なんだって、そこで安心したい。そういうふうに見えるときがあります。

いろんなアプローチがあって、選べるということがたぶん、大事なんでしょうね。


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