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書いたものを読んでもらうこと
書いたものを読んでもらうということ。それは昔からとても緊張するものだった。ちゃんと伝わるかな。変なこと書いてないかな。なんて言われるんだろう。読んでもらっている間、ずっとそわそわしながら、相手の目線を追う。眉間にシワの寄った顔。黒目の細かな上下運動。きっと真剣に読んでくれているのだろう――でも。つまらない、苦痛だって思われていないだろうか。
ところで、ちゃんと伝わるかな、変なこと書いてないか
一日一エッセイ、気づきの記録
気づきを簡潔にまとめておこうと思う。最近、もっぱらインプットばかりで書くことをサボっていたし、練習しなきゃと思って。iPadのキーボードにも慣れていかなきゃ。エンターキーが小さいんだよね。てか、ボタンが全体的に小さい。困ったもんだよ、最近アンソロジーに参加したんだけれど、その原稿はいつものノートパソコンで書いた。圧倒的に書きやすいわ。
哲学は長らく「身体性」に注意を払ってこなかった。観念的、
「エッセイなんか嫌いだ!」という社会が嫌いだ
今日、小学生を相手に国語の授業をしていて、こんなことを言われた。
「僕、国語の中でも一番エッセイが嫌い!」
あまりにも唐突だったので(別にエッセイを読んでいるわけでもなかった)、私は驚いた。エッセイが嫌い――小学生がエッセイを嫌う理由って一体なんなんだろう。
私は基本、人が何かを好きになったり嫌いになったりすることにそこまで興味はない。ただ、なぜ好きになったのか、なぜ嫌いなのか――みたいなプ
ぐににににに、の下敷きとキーボードの”D”
最初っから意味なんかない。いや、意味はあったか。あるようにあった。意味は――あるように意味する、大地、雑草、石――石に世界はない。いや――ある。世界はある。彗星のごとく、世界は石に降り注ぐ。石は――蠟燭のように燃え上がる。――誰かが死んだのだ。内臓がナイル川に流れ出して、ボトボトと――意味はなかった。――、――の刻み醤油。定めは初めから定まることなくそこにある。死んだのだ、内臓がナイル川にボトボ
もっとみる世界とか、人生とか自由とか、もううんざり
日記でも書き残しておこうと思って、ざっくり。ほんと、最近夏バテでさ、マジでヤバいんだよね。夏は本当、身体が動かない。喉も渇くし、お茶。
実は最近まで、ツイッターで読書アカウントとか、創作用のアカウントとかを作って楽しんでいたんだよね。でも、これがなかなかうんざりで。
マジで、どれくらいうんざりするかっていうと、開くともうアカウント変更するレベル。いやあ、本当飽きちゃってさ。人間関係が飽きた
本を読んでどう変わるか
人間なんて、本を読まなくたって死にゃしない。分かる、死ぬことはない。だけれど……
ヒューリスティクスとは何か人はバグだらけの生き物です。
例えば、ノーベル経済学賞のダニエル・カーネマンは、人間の認識が、論理的思考の理想と大きくかけ離れていることに気がつきました。
論理的思考の原理を「アルゴリズム」と呼ぶとすると、人間の思考は「ヒューリスティクス」だと、いうのです。
ヒューリスティクスとは何か。
本を読んで変われるのか
本を読むことへの問いタグ「#読書好きと繋がりたい」を使ってから、フォロワーが増えたので、自分の読書に対するスタンスを明確にしたいと思います。
本を読んで人は変われるのか、と問いつつ、今日は簡単に読書について考えていることをお話しします。
結論から言うと、変われる、と僕は思っています。
そもそもなぜこんな問いを立てるのかぶっちゃけ言えば、「本を読んで人は変われるのか」という問いは大雑把過ぎて、答
書評① 江戸川乱歩『押絵と旅する男』
すっかり日も暮れてしまって、カフェから覗く窓の向こうは紫かかって薄暗い。僕はこの文章を書きながら、コーヒーを飲んではため息をつく。手元にはパソコンと、本とメモ帳とスマートフォン。まったく、せわしないなあと思いつつも、ついついスマートフォンを手に取ってしまう。
いやいやダメだと邪念を振り払いつつ、僕は本に視線を移す。今回紹介するのはこの本、江戸川乱歩の『押絵と旅する男』である。
しかし、