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書評② 芥川龍之介『蜘蛛の糸』

「小説を読め」と、手放しに勧められないほど小説の地位が落ち込んでいる昨今で、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』ほど、「これを読め」と言いたくなる小説はない。
『蜘蛛の糸』は様々な読み方ができる小説である。とりあえず、あらすじを書いていこう。

あらすじ

物語は、御釈迦様の暮らす、極楽の世界の描写から始まる。

ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。――『蜘蛛の糸』

蓮の花が美しく咲くその場所で、御釈迦様は池を覗く。池は地獄の世界を映し出しており、罪人の叫びを直接見ることができる。
御釈迦様は、一人の罪人に注目する。名前は「犍陀多(かんだた)」。彼は、生前大悪党で、まさに地獄に行くのにふさわしい男だった。

が、御釈迦様は、この男が生前、蜘蛛を助けていたことを思い出す。犍陀多が森へやってきたとき、蜘蛛が路ばたを這っていた。犍陀多は踏み殺そうとするが、「その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ」と言って、殺さずに助けてやった。
蜘蛛にとっては、とんだ迷惑な話だと思わなくもないのだが、それは置いておいて、犍陀多にしては確かに思いやりのある言葉だ。御釈迦様はそういう経緯から、「それだけの善い事をした報には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろう」と考え、蜘蛛の糸を池に垂らすのである。

場面は変わって、地獄の淵。犍陀多は天から蜘蛛の糸が垂れてくるのを見る。地獄の苦しみから抜け出せると考えた犍陀多は、藁にも縋る思いで蜘蛛の糸を登り始める。
しかし、途中で見下ろせば、下から多くの罪人が「まるで蟻の行列のように」登ってくる。これでは、糸が切れてしまうと思った犍陀多は焦って「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ」と、喚く。

すると、突然、蜘蛛の糸は犍陀多の少し上で切れてしまう。
結果として、犍陀多含め、蜘蛛の糸を登っていた多くの罪人ともども、真っ逆さまに落ちてしまったというわけである。

この犍陀多の一部始終を見ていた御釈迦様は、「悲しい顔」をする。御釈迦様の直接のセリフはないが、語り手が「自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたの」だろうと推測している。
御釈迦様はその後、再びぶらぶらと歩き始める。そして、『蜘蛛の糸』は次の耽美的な美しい情景描写で幕を閉じる。

しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。――『蜘蛛の糸』

教訓を取り出す

『蜘蛛の糸』の最も素直な読み方は、「自分の利益を優先し、他者を蹴落とせば、その行為が自分に返ってくる」という教訓を取り出すことである。
それは、「悲しい顔」をした御釈迦様を代弁して語った語り手の「自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召された」という言葉からも分かる。

読者はこの言葉を頼りに、犍陀多の行為の不道徳さを学ぶ。それは、この作品が児童作品「赤い鳥」という雑誌で発表されたという事情からも明らかだろう。
この作品を読んで、「私は犍陀多の二の舞にならないように、人に優しくしよう!」というわけである。
子どもが、人に優しくすることを覚えてくれるなら、親としてこれほど嬉しいことはない。

エゴイズム

え、でもちょっと待って。だって、芥川龍之介でしょ。「人に優しくしよう!」だなんて、そんな、素朴すぎるでしょ。
僕の好みとしては、「人に優しくしよう!」という教訓を抜き取るのは、作者が芥川龍之介であっても浅いとは思わない。現代にはびこる問題の中に、「自分だけが助かろうとしてはいけない」という訓戒を胸に刻めば解決できる問題はいくつもある。

いじめ問題、環境問題、戦争、その他いろいろな問題が、この「人に優しくしよう」という教訓で解決できる。
いわゆる、心理学でもよく話題になる「共有地の問題」的なパラドックスは、全てこの「自分だけが助かろうとする」ことから起こるのである。

しかし、一方でこんな声も聞こえてくる。

「人に優しくしろって言われてできるのなら、苦労はしない」

確かにその通りである。「人に優しくしよう!」という教訓を含む文学作品は、『蜘蛛の糸』以外にも多く存在する。例を挙げなくても、絵本を開けば必ずと言っていいほど、人に優しくして救われる。
そして、そういう本が読者の感動を呼んで、みんなが「人に優しくしよう!」と心に決めても、現実には上記したような問題は一向に解決される気配がない。

確かに一部の人間は教訓を実践しているかもしれないが、そもそも「共有地の問題」は、一人でもフリーライダー(ただ乗り)がいれば全員が損をする。そして、現実は大体そうなっている。現実の犍陀多は、他の罪人を蹴落として、自分だけ蜘蛛の糸を辿って助かっているわけだ。
だったら、「人に優しくしよう!」なんて無視して、フリーライダーになった方が器用な生き方である。
そういうわけで、人間はフリーライダーをやめられない。

上記のように読めば、フリーライダーをしようとした犍陀多が蜘蛛の糸で助からなかったことは、別の意味があるように見えてくるだろう。
これは教訓ではなく、嘆きである。
「人間は自分を優先して、他人を蹴落とす生き物なのだ。どうしようもない」
つまり、芥川龍之介は、人間のエゴイズムを浮き彫りにしたのだ。彼は作家として、人間のエゴイズムを嘆いているのだ。
国語の教科書でも、芥川龍之介はエゴイズムと戦った作家だと紹介される場合が多い。この読みは、その作家のイメージとぴったり合っている。芸術家気質の芥川龍之介は、確かに教訓を書くよりは、現状に対して皮肉を描いたと考えるのが幾分か自然だ。

因果応報

「エゴイズムを浮き彫りにした」という読みに若干の引っ掛かりを覚えるのは気のせいか。
発表から百余年が経って、現在も多くの人に親しまれているこの『蜘蛛の糸』が、そんな、「人間は自己中心的だ」みたいな陳腐な結論で終わるのか。

と、そういう権威主義的な読みを引っ張らなくても、違和感は他にもある。と、いうのも「人間は自己中心的だ」と読むのは、いささか人間の視点に寄り過ぎだと思われるからだ。
この読みが正しいとしたら、例えばこの作品が、どうして極楽の世界の記述から始まるのだろうか。人間の話を書いているにしては、極楽の描写の割合が高すぎないか。そもそも、主人公は誰か?

上記の二つの解釈は、主人公を暗黙の裡に犍陀多にしている。犍陀多の目線に立って、「私たちはどうすれば助かるのか」という問いを立てている。
すると、「人間はどう生きるべきか」という倫理の問題となる。というわけで、解釈が「私たちは人に優しくできる/できない」という対立ができるというわけだ。

ということで、ここでは主人公をずらしてみたい。すなわち、「御釈迦様」である。
御釈迦様はあらすじで説明したように、犍陀多に蜘蛛の糸を垂らした張本人である。
御釈迦様は、池のふちから地獄にいる犍陀多を見て、犍陀多の善き行いを理由に、一本の蜘蛛の糸を垂らして犍陀多を助けようとするのだ。

御釈迦様の御心も虚しく、犍陀多は地獄へ逆戻りすることになり、「悲しい顔」をするのだが、未練もなく「ぶらぶら」を再開するのである。つまり、この一連の出来事は全て散歩の一部に過ぎないのである。暇つぶしと言ってもいいくらいではないか。

基本的に、神と人とは交わることはない。犍陀多が地獄に落ちたとき、御釈迦様が「悲しい顔」をしただけで散歩を再開したように、基本的に神にとって人の生死は取るに足りないものである。
神の認識と人の認識とには断絶がある。だから、御釈迦様を主人公にして共感しようとするのは、いささか抵抗がないわけでもない。だがしかし、この作品が極楽の世界の記述に多くの紙幅を割いている以上、御釈迦様を見てもいいように思うわけである。

とすると、御釈迦様のプロフィールであるが、御釈迦様の内実が語られている部分は意外と少ない。だが、はっきりと書かれている一文が一つだけあるので、引用しておきたい。御釈迦様が犍陀多を助けようと決める個所である。

御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。――『蜘蛛の糸』

ここから分かるように、御釈迦様の信念として、「因果応報」があったと考えられる。因果応報とは、「善いことには善いことが、悪いことには悪いことが返ってくるという考え」という仏教でも重要な考え方である。
この「因果応報」は現代の日本人にも大きな影響を与えている。そもそも、先の読みのうち、「私は二の舞にならないように人に優しくしたい」という教訓を抜き出してしまうのは、犍陀多は悪いことをしたから、悪いことが起きたのだという因果応報的な価値観が影響しているとも言える。
日本人の性格は、御釈迦様のこの性格を反映していると言ってもいいだろう。

ここで、もう一回主人公を御釈迦様として、この『蜘蛛の糸』の物語を見つめてみる。犍陀多は、因果応報として極楽に上るチャンスを与えられた。しかし、エゴイズムを人に向けたので、罰となって本人に返ることになった。
この世は全て因果応報である。しかるべくして、犍陀多は地獄に落ちた。慈悲はない。そんな犍陀多の壮絶な悲劇も虚しく、極楽は良い香りが絶えず漂っていた。人間の世界は、すべからく醜い。

アンチ・ヒューマニズム

この見方は、ある種のニヒリズムを呼び起こす。
人間なんて、神から見れば、ただの醜い存在だ。頑張ったってなにしたって、人生はなるようにしかならない。人間の世界に意味はない。世の中は、虚無だ。極楽浄土などできるはずもない。

しかし、僕はそうは思わない。と、いうのも、人生を生きていて、やはり僕は誰かの役に立つし、誰かを愛し愛される。小説を開けば、無数の美しい言葉の数々が、僕を癒してくれるのだ。
そういうことが、僕には無意味に思われない。僕たちは生きている。生きていることが無意味ならば、意味とは何か? 楽しいとか、嬉しいとかが無意味ならば、きっと悲しいや辛いことも無意味であろう。しかし、辛いことを無意味にできるほど、人間は器用ではない。つまり、全てを無意味の枠に葬ることができない。意味は、人間の如何にかかわらず、湧いてくる。そりゃ、死んだら無意味だ。だが、「自殺」は無意味だろうか? 僕たちは、無意味のまま死ぬことすらできない。つまり、意味の中を生きるしか手立てがない。

このような事態を解決するには、「ニヒリズム」的な見方をどうにかするしかない。そこで、その観点となる前提を思い出そう。
それは、「御釈迦様を主人公にする」という見方である。

さきほど、「御釈迦様を主人公にするのは、いささか抵抗がないわけでもない」と言ったが、こうなってしまった以上抵抗するしかない。
やはり、ダメだったのだ。神と人間とは絶対に交わらない。
しかし一方で、さっきの説には一定の説得力が備わっていたように思う。「因果応報」という枠組みで、地獄を覗きこむ。すると、人間はなるようにしかならない人生を生きるしかないのである。そして、人間は助からない。世の中無常である。

やっぱり世の中無常じゃないか。僕もそう思う。しかし、これは繰り返すがあくまで「御釈迦様の視点で」そうであるに過ぎないのである。実際は、僕たちは神の視点を得ることはできないのだ。
じゃあ、何が問題か。それは、「神の視点を得ることができると言う人間本来の傲慢さ」にあるのではないか。

心理学では、人間のバイアスに一つに「公正世界信念」があることが定説となっている。公正世界信念とは、良いことには良いことが、悪いことには悪いことが返ってくるという因果応報的な価値観から転じて、「悪い結果を引き起こしたのならば、悪いことをやったはずだ」と見てしまう傾向のことを言う。

例を挙げれば、痴漢問題がそうだろう。ある女性が痴漢をされたときに、人は「女性は、痴漢されやすい服を着ていたに違いない」と結論してしまうことがある。
実際は、どんな服を着ていようが痴漢されるときはされるのだ。だから、明らかにおかしい結論である。これは、公正世界信念のバイアスから生じた帰結だといってよいだろう。

人をこのように「因果応報」的な価値観で裁こうとするとき、犍陀多を見ていた御釈迦様のような視点が混入してしまっている。
自分たちは、痴漢という文脈から大きく離れた「極楽」から、自分が神様であるかのように振る舞い、人の善悪を判断し、「女性も悪い」と悲しい顔をする。
このような傲慢さにこそ、僕は人間のエゴイズムが表れているように思われなくもない(Twitterはそういう意味でまさに「極楽」の世界だろう)。

「客観的に見て」の「的」は謙虚な言葉だ。「的」があることで、人間は神の視点を完全に得ることはないということを示していたのだ。だが、今の人はこの「的」をほとんど上手く使えない。
物事を「客観」として見ることができると、過信してしまった。

神の視点で物事を見れば、ニヒリズムに陥る。しかし、本当の意味で人は神の視点を得られない。つまり、人は完全なニヒリズムに浸ることは不可能だ。世の中が無常とは傲慢である。そう考えるのは人間のエゴだ。
犍陀多はやはり、細い一本の蜘蛛の糸に希望を見出した。これは、紛れもなく現実である。僕たちは蜘蛛の糸一本に希望を見出してしまう生き物なのである。
だから、たとえそれが蜘蛛の糸のような細い希望であっても、僕たちはそれに縋らざるにはいられない。もがくしかない。世の中は非情なあり方で有意味である。誰がなんといおうと、誰も意味から逃れられない。生きて、何をするか。僕たちがエゴイズムに対抗するには、それしか方法はない。これこそ、アンチ・ヒューマニズムだ。

因果関係の破壊

とは言ったものの、こんな問いも立てられる。
なぜ、蜘蛛の糸は切れたのか。
どういうことか。ほとんど難癖な気もするが、文学は往々にして難癖なのだ。面倒なことを問うのが文学の役目である。ということで、蜘蛛の糸が切れた瞬間を見てみよう。

そこで犍陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚きました。
その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。――『蜘蛛の糸』

分かるだろうか。実は、厳密に言えば、「犍陀多が喚いた瞬間に切れた」とあるだけで、「犍陀多が喚いた”ので”切れた」とは書いていないのである。

これは、本当に「因果応報」によって切れたのか? 単に重くて切れただけじゃないのか。そもそも、蜘蛛の糸なんかで、極楽などいけるわけないんじゃないか。
そう考えて読むと、もう一つ不可解な点が挙げられる。御釈迦様が「悲しい顔」をする場面である。

御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。――『蜘蛛の糸』

「浅間しく思召されたのでございましょう」と推測するのは語り手である。これは厳密に言えば、御釈迦様の御心をそのまま描写しているわけではないのだ。
ここから、こんな問いも立てられる。御釈迦様はなぜ「悲しい顔」をしたのか……。

例えば、蜘蛛の糸がただぷっつり切れたのであれば、御釈迦様が「人間の愚かさ」に「悲しい顔」をするのは道理に適っていない。
じゃあ、どう考えたら自然か。僕は、端的に「助けようとした人間の救出に失敗した」から悲しんでいたんじゃないか、と考えたい。

そもそも、因果応報と言ったって、犍陀多のした「良いこと」なんて高が知れている。
踏みつけようとした蜘蛛を踏まなかった。これで極楽へ行けるだなんて、笑わせる。

御釈迦様は因果応報という道理で、蜘蛛の糸を垂らして、犍陀多を助けようとした。だが、蜘蛛の糸では耐久性に優れず、救うことができなかった。残念だ。まるで、クレーンゲームに失敗したかのような……あ、いや、神様の気持ちは僕らには分からない。とりあえず、そんな感じで悲しい顔をした。
そして、それを語り手が誤解した。勝手に、御釈迦様の顔にニヒリズムを読み込んだ。この語り手は、明らかに人間だろう。語り手も、人間のエゴイズムの犠牲者である。そして、僕らもその誤解に引っ張られ、エゴイズムにハマる。僕らは罠にはまったのだ。エゴイズムから逃れるのは難しい。

芥川龍之介が浮き彫りにしたエゴイズムは、余りに根深い。科学主義にまみれ、因果関係で物事を判断しがちなこの世界で、僕らはいかに作品と向き合えばいいのだろうか。
僕たちには、それをもっと真剣に問い続ける必要があるだろう。

まとめ

長かったので一旦まとめる。

・「人間に優しくしよう!」という教訓。
・人間なんて自己中心的だという作家のメッセージ。
・御釈迦様から見れば人間など、無意味だというニヒリズム。
・神の視点を持つことができるという傲慢な人間の愚かさ。
・語り手の誤解から見える、僕たちの因果関係を見出しがちな読解に対する警鐘。

と、今回は様々な作品の見方を提示してみた。きっとまだまだあるだろうし、多分僕の誤読の可能性もある。
とは言え、この作品は、無数にある解釈に耐えうるポテンシャルを持っている。無限に広がる解釈の中で、自らの立場を見直し、ほかの人の読解に寛容になる。
そうやって謙虚な姿勢を持つことが、芥川龍之介の望んだような、エゴイズムへの抵抗ができるのではないか。

エゴイズムは、人類の敵である。僕は、あらゆる小説を勧めるのに躊躇するが、この『蜘蛛の糸』だけは「読め」と言いたい。十分くらいで読める。
僕は、何か悪いことを画策しよう――例えば仕事を友達に任せて自分は遊ぶとか――と思うとき、脳裏に蜘蛛の糸が浮かぶ。蜘蛛の糸が切れるのだ。地獄には堕ちたくない。だから踏みとどまれる。

と、きれいごとを喋ってしまったようだが、仕方がない。そうでもしなきゃ、僕は極楽へは行けないのだ――

2019年11月 小雪

このレビューは、薬夏さんとの合同企画です!
薬夏さんの素敵なレビューはこちら!
https://note.mu/you721/n/n3df8db57f947

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