書評① 江戸川乱歩『押絵と旅する男』

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 すっかり日も暮れてしまって、カフェから覗く窓の向こうは紫かかって薄暗い。僕はこの文章を書きながら、コーヒーを飲んではため息をつく。手元にはパソコンと、本とメモ帳とスマートフォン。まったく、せわしないなあと思いつつも、ついついスマートフォンを手に取ってしまう。

 いやいやダメだと邪念を振り払いつつ、僕は本に視線を移す。今回紹介するのはこの本、江戸川乱歩の『押絵と旅する男』である。
 しかし、この小説はなかなかの曲者だ。どこから紹介したものか、迷ってしまう。再び、スマートフォンを見る。僕がスマートフォンを見るのは、大抵はTwitterを見るためである。Twitterはおもしろい。僕の良く知らない人間たちが、好き放題に、思い思いの文脈で短い文章を投げつけている。僕は思う。「こいつら、本当に生きているのか……?」。言葉だけの付き合いってものはそんなもんである。律儀に書かれた、ストーリーじみたそのつぶやきの数々は、まるで生気を感じない。

あらすじ

 いけない、脱線してしまった。『押絵と旅する男』の紹介をするはずであった。早速だが、あらすじよりも前に、まずは、この作品冒頭を読んでいただきたい。

この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったならば、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに相違ない。だが、夢が時として、どこかにこの世界と喰違った別の世界を、チラリと覗かせてくれるように、又狂人が、我々の全く感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那、この世界の視野の外にある、別の世界の一隅を、ふと隙見したのであったのかもしれない

 ここから分かるのは、主人公の「私」が、それが現実かどうか分からない状態で、「押絵と旅していた男」と出会ったのだろうということである。
 その出会いの中で、「私」は「この世界の視野の外」を、「大気のレンズ仕掛けを通して」見たということらしい。僕は、ここの箇所を何度も読み返してしまった。まったく、何言ってんだかよく分からない。変なことを言うな。お前が狂人だろ、と。

 しかし、実はこの冒頭部分で、この小説のあらすじはほぼ済んでいる。元から良く分からない話なのだ。――などという無責任なレビューもないので、あらすじを僕なりにまとめてみる。
(※押絵とは、作品内ではほとんど言及がないが、一般的には布細工で出来た貼り絵の一種のことで、肩を部分に分けて切り抜き、布をくるんだり綿を摘めたりして再編成し、立体的で色彩豊かな絵になる)

 登場人物は、主に『私』と「押絵と旅する男」の二人である。先も見たように、この話は「私」の回想の形式を取っている。その回想では、「私」が魚津(※新潟のとある地名)に蜃気楼を見に行った帰りの電車で、押絵を持って旅をしている一人の老人と出会う。「私」は、老人が押絵の表面を窓の外に向けて立てかけているのを見て、なにともなく興味を覚えてしまう。そして、これもなにともなくであるが、老人に話しかけると、老人はさも嬉しそうに、その押絵の“身の上話”を話し始める。というわけだ。

 なぜ「私」はその押絵に興味を覚えてしまったのか。なぜ、老人に話しかけたのか。押絵には何がかかれていたのか。押絵の“身の上話”とは、いったいどういうことなのか。何がそんなに狂気なんですか――
 と、いうわけだが、興味を持った方は、後の文章を読む前に、ぜひ本編にあたって欲しい。長くない。短篇小説である。そんで、読んでみて、僕と同じく、何だったんだこの話はって人は、またこの記事に戻ってきてほしい。仲間だ。お仲間さんとは是非仲良くしたい。仲良くして、一緒にTwitterでもいじろう。あぁ、つい、またスマートフォンの話をしてしまった。いけないいけない。

考察(以下、ネタバレあり)

押絵の中に入った男

 と、読んできてもらえただろうか。――まさか、兄が絵の中に入っていようとは。
 老人の話した、押絵に関わる“身の上話”とは、絵の中に入った兄のことであった。
 兄は、浅草の凌雲閣の上から見かけた娘に恋をしてしまう。しかしその娘の正体は、覗きからくりで使われていた押絵の中に描かれていた絵だったのである。
 兄は、娘が次元を隔たっていたという事実に落胆すると思いきや、ある妙案を思いつく。それは、弟(=押絵と旅している老人)に頼んで、遠眼鏡を逆さにして(普段覗くレンズとは逆側のレンズを見て)自分を見てもらうということだった。どういうことか分からないまま、弟は言われるがままにすると、あら不思議、兄はこの世から消えて、絵の中に入ってしまったというわけである。
 不思議な兄=押絵の“身の上話”が終わった後、老人は「親戚のところに一晩泊まりますので」と言って、外の闇の世界へと消えてしまう。結局「私」が見たものが本物だったのかどうかは最後まで分からない。僕たちは宙ぶらりんのまま。――この話は、全体がまさに蜃気楼のように、曖昧な、しかしはっきりと輪郭を持った出来事となって私たちの心に残る。

宙づりになる読者

 とまあ、ちょっと格好をつけてまとめてみたものの、少し距離を取ってこの作品を見てみれば、この作品には色んな仕掛けがあることは容易に気づくだろう。
 例えば、冒頭の蜃気楼。年齢も不確かで、姿がほとんど黒い背広服に隠れた老人。映画の比喩。重なる回想シーン。遠眼鏡。凌雲閣の見晴らし。覗きからくり。電車。その全てがあちらへこちらへと読者の遠近法を狂わし、読者を作品の中で宙づりにしてしまう。
 遠いのに近い。近いのに遠い。焦点がいつまでも定まらず、視界がぼやけたと思ったら、今度は逆に見えすぎて本来のものが見えなくなってしまう――と、言ったように。

 しかし、その宙づりが計算し尽くされた宙づりであるだけに、非常に心地よく(先日温泉で、無重力マッサージというものを体験したが、ちょうどあんな感じかしら……)、宙づりの中の安心感、リアルでないリアルな余韻に浸れるというわけである。
 ――しかしこれは、繰り返せば、距離を取って作品を見たときの話である。どうにも、僕にとっては、余韻に浸ると言った冷静な表現では、この読後感を語り尽くせているとは思えない。例えば、江戸川乱歩はこう書いている。

蜃気楼の魔力が、人間を気違いにするものであったなら、恐らく私は、少くとも帰りの途の汽車の中までは、その魔力を逃れることはできなかったのである。(……)若しかしたら、それは通り魔の様に、人間の心をかすめ冒す所の、一時的狂気の類ででもあったのだろうか

 これは、「私」が、押絵と旅する男の見せた世界の不思議さの原因を、「蜃気楼の魔力」によるものだと自分を言い聞かせている場面であるが、なるほど、僕もきっと、「蜃気楼の魔力」に取りつかれているのだろう、なんとなく目の前の景色が、僕にとっては「一時的狂気の類」にでも冒されたように、何か不気味に感じられるのである。

 目の前の光景は、本当に夢でないと言えるだろうか。実は夢幻で、僕が今生きている現実は、もしかしたら現実でないのかもしれない。まあ、この程度であれば問題はない。むしろ、視線をパソコンや、メモ帳、スマートフォンに移してみると様相は異なってくる。
 パソコンは、今僕が紡ぐ文章によって次々と埋め尽くされる。メモ帳は、僕の過去の言葉が書き綴られて、複数の時系列の僕が、メモ帳の上で踊っているような気がしてくる。スマートフォンは――殊に、スマートフォンはやばいのだが――僕の言葉や、アプリや、Twitterでは色んな人の言葉が有象無象に重なり合って、何が本当で何が嘘か、嘘であるならば、それが本当は何なのか、といった問いが次々と湧いてくるのである。

 カントの認識論的転回以降、僕たちの認識は直接物から与えられるものではなく、むしろ私たちに備わる認識のフィルターを通してしか、物を認識することができなくなったという。例えば、リンゴを見るときには、リンゴそれ自体ではなく、意識に立ちのぼるリンゴの現象を通して見るといったように。
 蜃気楼は「大気のフィルター」を通して立ち現れる。電車の外の風景は、窓を通して見ることができる。そして、兄の恋い焦がれたあの娘は、レンズ――例えば、遠眼鏡とか、覗きからくりとか――を通して初めて、生き生きとした生を与えられるのだ。
 僕たちは、常日頃から宙づりの世界を生きている。世界とは、なにかフィルターを介してしか関係することができない。僕らが生きている世界が現実か夢かは、世界がフィルターを介する以上、分かりっこないというわけだ。――本当か?

アア、あなたなら分かって下さるかも知れません

「アア、あなたなら分かって下さるかも知れません」と、老人は言う。「いとたのもしげな口調で、殆ど叫ぶ様に」。
 そもそも、老人はどうして「私」に長い“身の上話”をすることになったのか。遠眼鏡まで貸して、自分の身内の、到底信じられないような話を喋るのか。
 それは、「私」がやはりどうしようもなくその老人のことが気になったからである。気になって、ツカツカと歩み寄り、目の前に座ったからである。
 じゃあ、どうして「私」は老人のことが気になったのか。フィルターに囲まれて生きるしかない人間にとって、突き動かされるほど気になってしまうこととはいったいなにか。

 と、スマートフォンを見ると、Twitter上でフォロワーがやはり好き勝手に呟いている。こんなに好き勝手やっているくせに、よくもまあ、ネタがなくならないものだ。……ハァ。また見てしまった。本当に何度も見てしまう。――しかし、どうして見てしまうのだろう。

 ここで、Twitterをよくよく見ていると、押絵と旅する男と重なるところがあるのではないかと僕は思う。と、いうのも、タイムラインは、趣味も関心も社会的地位も違った人間がほとんど好き勝手に呟く部分で組み上がっていて、僕から見て得体が知れないからである。
 得体の知れないものを興奮して見る僕も、同じく得体が知れない。もしかしたらこの「得体の知れなさ」が興味の源泉ではないかと思う。得体の知れなさ、つまり存在が宙づりとなったこの他者に、なにか抗いがたい欲求が湧くのかもしれない。そして、その欲求の主体もまた、宙づりになる。宙づりが宙づりを呼ぶのである。

 先にも書いたとおり、江戸川乱歩はこの作品に、読者を宙づりにしてしまうような周到な仕掛けをいくつも組み込んでいる。
 その仕掛けの数々によって宙づりになった登場人物たちは、電車(これまた、暗闇の中にポツンと動く、酷く宙づり的なものであるが)の中で、目を合わせたりそっぽ向いたりしながら、これまた微妙な距離感の中でお互いを認識しあう。
 このとき、確実なことは何もない。ただ、「不確実なもの」だけが、横たわっている。分からないことの合意だけがそこにある。そうして、「私」は老人の話に耳を傾け、老人は嬉々として“身の上話”をする。このとき、二人の距離は曖昧になる。「そして、変なことには、私も亦、老人に同感して、一緒になってゲラゲラと笑ったのである」。

「アア、あなたなら分かって下さるかも知れません」。江戸川乱歩という老人に、「この世界の視野の外にある、別の世界の一隅を」見せられてから、この言葉は、僕のなかで何回もリフレインする。
 その度に、僕は「不可思議な大気のレンズ仕掛け」に囲まれ、「蜃気楼の魔力」に魅せられる。中断し、Twitterを見ては、いけないと思って作業に向かいつつも、またTwitterをする。もう僕は、すっかり宙づりになってしまったのだ。

 老人の兄は、レンズ越しの娘に魅せられ、この世から消え失せてしまった。宙づりだった世界から、フィルターを飛び越え、固定した世界に留まってしまったのだ。
 その結果はあまりにも悲しい。生身だった兄は老いていく一方で、元から絵である娘は永遠に歳が変わらない。兄が幸せだったか不幸せだったかは措くにしても、老人からは気の毒に思われてしまう。

 ――さて、僕はこれからどう生きるか。宙づりのままか、固定した世界を探し求めるか。
 結論は出すつもりはない。僕の未来がどうあろうと、僕は今、宙づりな人間である。パソコンで作業もすれば、スマートフォンをちょこちょこ見る。カフェに行ってのんびりしたり、図書館へ行って勉強だってする。
 蜃気楼のようなこの世界で、今できることはこの魔力を楽しむことだけに違いない。

 以上が、僕の『押絵と旅する男』との出会いである。皆さまはいかがでしょうか。

 宙づりになってしまったのなら教えて欲しい。「アア、あなたなら分かって下さるかも知れません」とばかりに、一緒に“身の上話”をしようじゃありませんか。

2019年10月26日 小雪

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