幸せを定義してみる

こんな夢を見た。
腹をぐちゃぐちゃと抉られる夢。
空洞になった腹を見て、「おなかすいた、おなかすいた」と叫ぶ僕。
起きてみると、なんてことはない。僕の腹は抉られていないし、おなかもそこまですいていない。

今の僕は、幸せか、不幸せかと聞かれれば、僕は多分「幸せだ」と答えると思う。
それはいいことだね、と声をかけられれば、分からない、「幸せってなんだろう?」と、思うようになるだろう。
幸せだけど、「幸せ」がなんだか分からない。
僕の認識はバグだらけだなあ、と今更ながら再確認する。

幸せってなんだろう。

しかし、この問いの答えは、実はそこまで難しいことではない。
そもそも、問いの立て方がまずい。
答えられない、哲学的思索を誘発する問いのだいたいは、問いの立て方が間違っていることが考えられる。
自分は幸せか、と漠然とした問いには答えられて、「幸せ」とは何かと問いを立てた瞬間に答えられなくなる、とはどういうことか。
それは、幸せが状態ではなく、行動だということを示している。
幸せは維持するものではなく、持続させるものだ。
簡単に言えば、名詞ではなく、動詞なわけである。

「幸せる」
……いやいや。
「ハピる」

そういえば、近年タピオカが大流行りした。
タピオカを買っては、こぞってインスタグラムに投稿し、いいねをたくさんもらった。
タピオカがなぜ流行ったのか、僕は常々疑問だった。
そういえば、高校生のときもよく飲んでいた。横浜駅のフードコートで、テスト勉強をしに行ったとき、お供はいつもタピオカだった。
そのときに一緒だった友達は、多分そのとき以来会っていないんじゃないかな。友達じゃなかったのかもしれない、それはともかく。

ある人が、流行るものには、だいたい名前に「パ行」が入っている。みたいなことを言っていた。
タピオカの前はなんだっけ、パンケーキ。
なるほど。
サンプルが二つしか思いつかないことを度外視すれば、とりあえず、パ行が入っている。

幸せとは何か……それは、ハピることだ。
ハピる、と呟く。なるほど、なんか、パ行にはちょっと幸せが混じっているのかもしれない。

関係ないが、『雑談力』を冠した、くだらない本だったか、僕は立ち読みでそれを済ませたんだが、一つの章だけ、示唆に富むタイトルがつけられていた。
会話に「パ行を混ぜる」と、弾む。

「いっぱい食べた!」
「プリプリなえび〜!」
「ペペロンチーノ?」
「かれぴっぴと会うのだ!」

なるほど、弾む。
ハピってる感じがする。
タピオカ、ハピオカ。

幸せは、パ行だ。
もちろん、「パ行」と言ったところで、幸せになるわけではない。
実際会話に、パ行を混ぜるのだ。
すると、なんだか気持ちよくなってくる。この気持ち良さが、幸せだ。
なんでパ行が幸せか、とか考えてはいけない。「幸せとは何か」という問いがまた浮かび上がってくる。
そんな憂鬱な問いは、パ行でアンパンチ!
そして、ハッピーをパンデミック!
タピオカをポポポンとストローからプッシュ!

思えば、夢の中で「パ行」をつぶやいたことがあっただろうか。
パ行を叫ぶとわかるが、お腹の、特に下腹部が、ポンポンとリズミカルに膨れる。
夢の中の人間に、腹はない。
丹田を揺らせるのは、この現実だけだ。
幸せになれる権利を持つのは、この現実だけなのである。

眠い。
だるい。
辛い。
午前六時の僕は、最高にけだるく、今すぐ夢の中に戻りたいと考えている。
が、そんなときは、ハピってみる。
すると、不思議だ、今日も頑張ろう、ってなる。

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