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本を読んで変われるのか

本を読むことへの問い

タグ「#読書好きと繋がりたい」を使ってから、フォロワーが増えたので、自分の読書に対するスタンスを明確にしたいと思います。
本を読んで人は変われるのか、と問いつつ、今日は簡単に読書について考えていることをお話しします。

結論から言うと、変われる、と僕は思っています。

そもそもなぜこんな問いを立てるのか

ぶっちゃけ言えば、「本を読んで人は変われるのか」という問いは大雑把過ぎて、答えを出すのはかなり困難を極めると思います。

例えばこれに答えるには、「読む」とは何か、「人」とは何か、「変わる」とは、例えば何から何に変わるのか、どう変わるのか、と言ったことと真面目に向き合わなければなりません。
そして、その問い一つ一つが、論文がいくつもかけてしまうほど、とても大きな問題です。
だから、こんな問いを立てるのはナンセンスなことに違いありません。

しかし、こんな問いを立てざるを得ないのは、先日、こういう人を目撃したからです。

「本を読んで人は変われるのか。僕は変われないと思っています。なぜなら、僕は年間数千冊を超える本を読んでいますが、変わっていないからです。だから、本を読んでも変われないと思います」
と、自分の現状を述べた後、
「でも、本を読むのは楽しい!みんなで楽しいことをしましょう!」
と、言うわけです。

年間数千冊を読んでも変われない……というのは、僕にとっては非常にショッキングな意見です(そして、多くの読書家にとっても同じだと思っています)
できるだけ多くの本を読んで成長したいと思っている僕にとっては、この意見は、自分の生存に関わるレベルで深刻なものでした。
ぶっちゃけ言えば、今すぐにでもその発信源に悪口を書きに行きたいレベルです(しかし、きっと僕のツイートを読ませても、その人を説得させることは無理でしょう。というのも、その人は数千冊を読んでも変われないのですから)。

なので、このアイデンティティの危機を乗り越えるためにも、僕は「本を読めば人は変われる」という信念のもと、この記事をまとめたいというわけです。

本を読んで“どのように”変わるのか、を言えない

しかし、この意見に対して反論をするのはそんなに難しくはありません。
素朴なレベルでの揚げ足取りで十分でしょう。

例えば、「楽しい」と感想が持てている時点で変わっているんじゃないか、という反論です。
読んで、その作品を楽しいと思ったのであれば、その作品についての自分の評価を得た。だから、その得た分だけ変わっていると言えるからです。

また、「年間数千冊を読んで変われなかった」と言及できる時点で、その人は変化を被っています。
その意見は、年間数千冊を読まなかったらできなかったのであり、つまり年間数千冊を読んで自分の意見に説得力を持たせているというわけです。
そういう意味でも、その読書はその人にとって有益であったと言えるわけで、変われたことの証拠といってもいいと思います。
このように、揚げ足レベルでも簡単にその意見に反論できるというわけです。このような簡単なことは、さして問題ではありません。問題は、「自分は“どのように”変わっているのか」ということをはっきりと言えない自分がいる、ということです。

「本を読め、さもなくば頭が良くなれない」

変わっているのは明らかであるにもかかわらず、「年間数千冊読んでも変われない」という感覚を持ってしまう人がいるのは、実はこの問題に大きく関わっています。

順を追って説明します。
この世界には、「本を読め、さもなくば頭良くなれないぞ」という言説が存在しています。
本を読むと勉強ができるようになり、本を読まないとアホになるという感覚です。

そういうわけで、例えば本によく並ぶ自己啓発本の傾向として、「本を読んで他の人と差をつけよう」とか「本を読めという言葉を安易に信じるな」というものがあります。
この二つは、主張こそ反対ですが、「本を読めば頭が良くなるという言説がある」ということを前提としている点では同じです。
ここから分かるように、「本を読め、さもなくば頭良くなれないぞ」的言説がこの世界に流布していることは、疑いの余地がないと思います。

先に取り上げた「年間数千冊を読んでも変われない」という意見は、この言説の延長線上にあります。
というのも、この意見には、「変わる」が「頭が良くなる」とか「役に立つ情報を知る」みたいなことが案に前提とされているからです。
そうして、言われる通りに「年間数千冊」を読んでみた。しかし、読後頭が良くなっただろうか? 役立つ知識が増えただろうか。僕はそうは思わない。すなわち、年間数千冊読んでも変わりっこない、というわけです。

その証拠に、「楽しい」という言葉を「変わる」から分離して使用していることが挙げられます。「楽しい」は「変わる」とは違うわけです。

自分を変えるということ

僕は、もっと「変わる」という言葉をフランクに使えばいいと思っています。
楽しかったら、いい体験ができた、とか。悲しかったら、こんなこともあるのかと知ることができた、とか。
「変わる」を何か頭が良くなるとか成長するとか役に立つ人間になるとかそういう大層な意味合いで使うから訳が分からなくなるのです。

でも、ここで「自分が変わる」って言ったときの「自分」とはなんだってことがきっと問題になってくるでしょう。
「自分」とは何か、という問いは哲学でも非常に重要な問いです。はっきり言って、自分がどういう存在であるかを考えない人間は、僕はあまりいないんじゃないかと思っています。

かといって、その問いを考えることと、その問いに答えを与えようとするのでは、スタンスには大きな違いがあります。
「自分」とは何か、という問いは重要だと言いましたが、今の哲学で、真っ向からその問いを立てる哲学者はほとんどいません。その問いに今すぐ答えが出ないことがわかっているからです。

さしあたって、「〇〇とは何か」という問いは全て保留にしておきましょう。
存在そのものに問いを立てるのは、七面倒くさい哲学者に全てを委ねたいと思います。
僕は、もっと簡単に、「自分は本で何をしたいのか」と尋ねればいいと思います。「その本で、一体何がしたいの?」

こういうことを言うと、「本を手段にするのはどうなんだ」という意見が来そうですが、僕はそれで構わないと思っています(これはまた別に書きたいと思います)。

そもそも「本自体を目的にする」ということは、僕には難しいと思っています。というのも、そういうスタンスには、「本とは何か」という問いを含んでいるからです。
もちろん、その究極の理念としては、それはありだと思います。だから、僕は先ほどその問いを「保留」にすると書きました。
いつか理解できればいいんです。しかし、その前に「本で何をしたいのか」を問う必要がある、というわけです。

豊富な読書体験をじっくり楽しむ

本は様々な構成でできています。
一つ一つの文字。作家の信念、思想、主張。紙の手触りや、めくる動作。その本を読む場所や自分の気持ち。いろんなことがグルグルとひしめきあい、くっついたり離れたりしながら「読書体験」はできています。

その中で、その世界にどっぷりと浸かるのもよし、ちょっとだけ反省して、一体今何を読んだのだろうかと考えるのもよし、自分の過去を思い出すのもよし、感想を友達と共有しあうのもよし。
そうやって、読書をして少しずつ自分が変化したことを感じながら、自分というものを実感する。
それが「本を読んで、変わる」ということの本質なような気がします。

本は、人が考えているよりも、ずっと複雑なカテゴリーです。
時には、思わぬ反撃を食らって、歩みを止めさせられるということもあるかもしれません。
しかし、そこで読書をやめるのは、僕としては正直もったいないかなあと思います。例えば、嫌な奴に出会って引きこもってしまう、ということを考えるとピンとくると思います。

読書は色んな人に開かれています。変わり方も人それぞれ。だけれど、「変わる」ということだけは、読書の、いや体験の本質だと思います。
ですので、色んな体験をして、色んな風に変われれば、僕はいいと考えています。


初めての日記でしたが、ここまで読んでくださり、どうもありがとうございます。

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