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本を読んでどう変わるか

人間なんて、本を読まなくたって死にゃしない。分かる、死ぬことはない。だけれど……

ヒューリスティクスとは何か

人はバグだらけの生き物です。
例えば、ノーベル経済学賞のダニエル・カーネマンは、人間の認識が、論理的思考の理想と大きくかけ離れていることに気がつきました。
論理的思考の原理を「アルゴリズム」と呼ぶとすると、人間の思考は「ヒューリスティクス」だと、いうのです。
ヒューリスティクスとは何か。

例えば、レストランの前で行列ができていたとしましょう。あなたは、その店の前を通ったとき、こう思うはずです。
「行列ができてる!あの店、さぞかし美味しいんだろう」
しかし、行列のできる理由は、必ずしも「美味しいから」とは限りません。例えば、他に店がない、安い、店主が優しいなど、難癖をつけ始めたらキリがありません。
ですが、私たちは諸々の理由を超えて「美味しいのだろう」と判断する。
この、判断様式をヒューリスティクスと呼びます。

なくてはならない、ヒューリスティクス

待て待て、経験と勘から判断できてんだから、いいだろ!ヒューリスティクスで何が悪い。

……その通りです。
人間は、アルゴリズム特有の欠点(例えば、「フレーム問題」が有名ですよね)を、ヒューリスティクスで乗り越えてきたという事実があります。
人文学はもちろん、自然科学のような厳密な学問までも、ヒューリスティクスの息がかかっているのです。
ヒューリスティクスは全然悪いことではなく、むしろ、人類にはなくてはならないものなのです。
そうやって何千年も蓄積してきた文明の中で、今更、ヒューリスティクスを直そうとか、はは(笑)(この前、Twitterで「事実」と「意見」は分けて話せる、みたいな記事を見かけましたね)

私たちはそういうわけで、バイアスに塗れて生きています(本当は、カーネマンを出すまでもなく、カント以降の哲学者のほとんどが、そういうことを言っています。カーネマンはそれを実験であぶりだした、という点で優れた説得力を持っているわけですが)
このバイアスは、直すことはできません。むしろ、バイアスと付き合う方が余程懸命でしょう。

という認識をまず共有したら、次は、情報を得ること、について考えていきたいと思います。

情報得るのに有益なのは?

情報を手に入れる方法には大きく分けて、三つあります。
一つは、実際に人と会って、二つは、ウェブで調べて、三つは本を読んで、ということになります。
どれがいいとか悪いとか、そういうことはありません。ケースバイケースでしょう。
だけれど、現状としては、「本を読む」が蔑ろになっているのでは、と思います。
自己啓発本を読むなら、ウェブで済む。人文書は、難しそうだし大変そう。小説はそもそも、情報として読むものではない、娯楽だ。

こういう考え方が生まれるのは、そもそも「情報」という概念の違いを、質的にではなく量的に捉えている、ということです。
同じような情報なら、難しそうな記述よりも、簡単な記述で済ました方が効率的だ。と、このように情報を単純化すれば、簡単に比較を行うことができるのです。

しかし、「情報」という概念はそんなにも単純なのか。深くは立ち入りませんが、ちょっと考えてみても(例えば「情報とは何か」と問いを立ててみても)よく分からないことがすぐ分かるでしょう。
単純化して比較を行うのは危険です。
まずは、一度立ち止まって「本を読んで情報を手に入れる」ことを考えてみましょう。

本を読んで情報を手に入れる

本を読む、という行為は、具体的にどんな行為なんでしょうか。
ここでは、自分にとっては少し難しい(例えば、国語の教科書に載っていた……『山月記』とかいいかもです)文章を考えてみましょう。

パッとみただけでは何が書いてあるか分からない。
場合によっては、一文をじっくりみても、いまいちピンとこないこともあります。
そこで、辞書を使ってみましょう。まずは、分からない単語を調べるのです。辞書の記述もなかなか難解だと思います。ゆっくり読んで、また分からない単語があれば調べて、例文の意味を考えて……そして、一つの単語を手に入れる。
そして、分からない単語を調べたら、また本文に戻ります。するとどうですか、さっきよりは読めると思います。「読める」と思ったとき、なんだか、著者の方へ、自分が少し近づいたような感覚を得られるような気がします。そうか、この人はまず、こんなことを言おうとしているのか。じゃあ、「耳を傾けよう」。

耳を傾ける

当然のことながら、本を読むとき、多くの場合、著者はそこにいません(厳密には、たとえ側にいたとしても、「本が書かれた時点での著者」はやはりそこにいないのですが)。
ですので、著者の言葉を聞くには、僕たちは「耳を傾ける」しかないのです。

ここに、実際の会話で情報を手に入れることと、本を読むことと大きな違いがあるのです。
本を読むとき、著者は「不在」です。逆に言えば、不在だからこそ、僕たちは本を読めるのです。目の前にいたら、本の内容を次々に継ぎ足されてしまいます。

そういう点では、Twitterやウェブの記事は、著者が近いところにいるため、どちらかといえば「会話」に近いような気がします。
どちらも、気軽にコメントは打てるし、リプライを飛ばすことができます。不在を良しとする本とは、基本的なスタンスが大きく異なっているに違いありません。

余計なことを喋らなくなる

では、なぜ「耳を傾ける」ことがいいのでしょうか。
それは、人間は「何か分かると、誰かに喋りたくなってしまう」という性質があるからです。

人は、基本的に誰かに存在を承認されないといきていくことはできません。マズローの欲求階層説のひとつも、「自己承認」があります。
基本的に、人間は社会に参画するためには、承認に対する欲求を満たさなければならないのです。

そのとき、黙ってばかりいたら、きっと人間は誰にも承認されないでしょう。とりあえず、何か喋る、行動を起こす。そうやって、人は承認を獲得してきました。
だから、基本的に人間は「何かを知っていれば、それを喋りたい」のです。

会話のときは、多くの場合(それがうんちくでない限りは)大切なスキルになります。自分が分かっていることを話す。すると、相手は、相手が誰なのかを知ることができる、というわけです。
ですが、それは「分かる」が自明なときだけです。
分かっていることが、本当に分かっていて言っているのか。それが分からないとき、会話はとても危険なのです。

先ほど、ヒューリスティクスの話をしました。基本、人間の「分かる」には、ヒューリスティクス的なバイアスが混ざっています。だから、「分かる」は自明ではない、というわけです。

静かに聞くことを学ぶ

本の著者は不在です。途中で何かを分かったとしても、喋る相手はいません。
そういうわけで、本を読むとき、人はどうしても静かにならざるを得ません。静かに本と対峙する。時間を本に捧げ、集中力を全て本にかける。

ひとつひとつ、地道に分かってくれば、何か少しばかりの達成感が湧きます。ああ、こんなことを言っていたのかって。
すると、自然と著者との距離が近づきます。ただ近づくだけではありません。畏敬の念をもって、謙虚に、僕も君の言ったことがこれだけ分かったぞと、着実に知識を身につけるのです。

もちろん、本だからと言ってヒューリスティクスから逃れるわけではありません。酷い本もあります。だから、何の本を読めばいいかは、本当はもっと命がけになるべきです。
その人の本を読むとは、その人の人生に捧げること。でも、だからこそ謙虚にならざるを得ない。謙虚になる、すなわち、自分を変形させる。これが、「本を読むこと」の肝になる、というわけです。

本を読んでどう変わるか。それは、「静かに耳を傾ける技術を身につける」ということです。
私たちは本を通してだけ、謙虚になれる。謙虚になるとは、決して自己嫌悪をすることではありません。自己嫌悪ではなく、ただ、静かに誰かを受け入れる構えを持つ。そういうある種の倫理的な構えが、謙虚です。

と、つらつらと自戒を込めて日記を書きました。
ここまで読んでくださった方、ぜひ僕と読書仲間になりませんか……

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