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本命施設に内定をもらえた日

バイトはいつも簡単に採用された。

やりたいと思えば応募するだけでよくて
バイトは一度も落とされたことはない。



だけど大学四年生の就活の時
私は何十社に落ちたか分からない。
周りの友達が内定を手にする中
落ちて落ちて落ちて
ようやく内定をもらえた。
二箇所だ。

だけどそこは
志望順位10位以内にさえ入っていない会社の内定で
研修を受けつつも私は
「これでいいのか?」と自問自答し
結局更に福祉施設を受けた。


一般就活は大学三年生冬からスタートしているのに
福祉の就活は大学四年生秋からスタートだった。
福祉の就活は業界一遅いで有名だ。



その福祉施設はなんとなく外観も暗く
未経験者歓迎と書いておきながらも
面接ではコテンパンにやられた。
「福祉の勉強もしていない人ができるほど、甘い仕事じゃないのよ?」等
散々言われた。

のちに社会人になった際、そこはブラックで有名で
同業者だけでなく
保護者複数人から悪い評判を聞いた。
私に冷たいのではなく
まぁ色々アレな施設だったらしい。



だが、まだ大学四年生の頃に福祉施設の面接一箇所目でコテンパンにやられた私は
他の施設を受ける気力がなくなってしまった。
代わりに、福祉の専門学校に行く気力がわいてきた。
もともと私は大学院志望で
親もそれは賛成していた。
だから福祉の専門学校に大学卒業後に入りたいと言っても
全く反対されなかった。

少子高齢化時代、福祉職は職に困らないだろうと言われていた。
専門学校ならば資格も取れる。
就職に有利だろうと思った。


大学で障がい者授産施設を知り、そちらに就職をしたいと思っていた。

専門学校一年生の最初の実習先は高齢者施設だったが、冬には障がい者施設で実習できた。
やはり自分は高齢者施設より障がい者施設が向いていると思った。
クラスメートも、キッパリ分かれていた。
高齢者施設で働きたい人は障がい者施設は合わず
逆もまた然りだった。
クラス内は高齢者施設と障がい者施設希望がちょうど半々で
バランスがよかったとも言える。

福祉職というと、高齢者福祉のイメージが強いが
障がい者施設の人気も高い。

 
 
余談だが
社会福祉専攻(社会福祉士を目指すクラス。現場→相談職を目指す派)の我がクラスは全員が福祉職になったが
介護福祉専攻(介護福祉士を目指すクラス。現場派)のクラスは1/3が実習でリタイアし、福祉職以外に就いた。

 
おそらく、介護福祉専攻の方々は高校から進学した人が大半であり
実習が我がコースよりとにかく多い。
それ故に理想と現実のギャップがあったのだろう。

一方、私のクラスは
私含め半分以上のクラスメートが大卒もしくは高校卒業後に何らかの仕事に就いてから福祉職を志した故の入学であり
そういったこともあって
全員が福祉職に就いたのだと思う。


たまたまだが
クラスで一番仲がよかった子も私と同じく、障がい者施設希望だった。
中学や大学の友達で福祉職の人も、みんな障がい者福祉施設で働いたので
類は友を呼ぶのだろう。

 
 
専門学校二年生6月。
私が23歳の時だ。

いよいよ待ちに待った、実習がやってきた。

 
それまでの実習は最長5日間だったが
二年生の実習は三週間であり
自分が実習に行く施設の幅は広がり、選択肢はグッと増える。
二年生の実習は秋にもあるが
専門学校時代で一番メインとなる実習が
6月の三週間実習だった。

この実習が将来を決めるといっても過言ではない。

 
実習受け入れ先一覧の表を見て
私は自宅から通える範囲の障がい者施設情報を、ふんふん言いながら見た。
そんな中、とびきり気になる施設を見つけた。

 
『精神・知的・身体障がい者が通う授産施設です』

 
A施設の紹介文にはこのように書いてあった。
この頃はまだ障害者自立支援法による移行がままならない時代で
障がい者は区別されて施設に通所していた。

知的障がい者は知的障がい者施設
精神障がい者は精神障がい者施設
身体障がい者は身体障がい者施設

というように
カテゴリー分けされていた。

 
それから数年後には、自立支援法により移行が義務化され
精神、知的、身体どの障がい者も同じ施設に通うようになるのだが
まだまだこの頃は、A施設の取り組みは斬新だった。
時代の先取りといっていい。

 
私はそこに魅力を感じた。
それまでの間に、知的障がい者施設にも精神障がい者施設にも身体障がい者施設にもボランティアや実習で行っていたのだ。
結果、私は障がい者全般に関わりたいと考えるようになった。
だから、A施設の紹介文は私の興味や関心と一致したのだ。

 
 
A施設があるB市に、私は二回しか行ったことがなかった。
未知の世界である。
だけど、実習先を決めた時、私は確かにワクワクした。
希望と期待に溢れていた。

 
 
 
今でも忘れない。
実習打ち合わせのため、私は5月の某日16:00に施設に行った。
初日打ち合わせは緊張する。

 
玄関先には某利用者が仏頂面で立っていた。
パッと見、職員のような出で立ちだった。
「こんにちは。」と私が声をかけると、「こんにちは!実習生だ~!」とニパッと笑った。
弾けるような笑顔だった。

「私ね、コップ洗いしてるの!一緒にやろう~!」彼女は私の手を引いた。

 
そのやり取りを見て、会議室から施設長が出てきた。

施設長「真咲さんですね。施設長のCです。早速利用者さんに好かれちゃいましたね。」

 
私「初めまして。真咲ともかです。施設長、あの、利用者の方がコップ洗いをしたいと申しています。打ち合わせ…どうしましょう?」

 
利用者「施設長!私、この人とコップ洗いやりたい~!!」

 
施設長「真咲さん、時間に余裕を持ってきてくれたし、打ち合わせ約束時間までまだ時間あるから、コップ洗いお願いできるかしら?彼女、あなたを気に入ったみたい。」

 
私「分かりました。打ち合わせはそれからお願いします。」

 
利用者「やったー!真咲さん、こっちこっち!案内してあげる。」

 
 
私は彼女とコップ洗いを行った。
毎日行っているらしく、非常に手慣れていて、教わりながらやったのはむしろ私だった。
コップは大量にあったが、二人で洗えば10分で終わった。
私は打ち合わせ約束時間より15分前に来ていたので、ちょうど時間調整ができた。

 
利用者「真咲さん、ありがとう~!じゃあね~!!」

 
利用者はニコニコ笑いながら、徒歩で帰って行った。
施設長と見送ってから、いよいよ打ち合わせ開始である。

 

「あの利用者の方はね、毎日コップ洗いを手伝ってから帰るの。親が働いてるから、一人で留守番が寂しくて、あぁしてギリギリまで施設にいるの。職員のお手伝いが大好きで、やりがいなのよ。」

施設長は彼女が去ってからそう言った。
なるほど確かに、彼女以外の利用者の姿はなかった。
既に全員が帰宅したらしい。

 
なるほど、お手伝いがやりがいか…
しかし、人懐っこいし、施設長と利用者の距離感が近いな。
他の施設はもう少し、職員と利用者に線引きがあったが……

 
内心、そう思った。

 
 
施設のパンフレットを渡され、日程表を渡された。
A施設にはたくさんの事業や業務があり、日替わりで全ての事業に携わることを説明された。
臨むところだ。
あぁワクワクする!

 
施設長は穏やかでよく話す優しい人だった。
いい施設長だなぁと思ったところで、打ち合わせ最後に、私は施設長にこう言われた。

「ともかさん、うちで働かない?私、あなたを気に入ったわ。」
 
私は面食らった。
確かに今まで実習先やボランティア先でスカウトされてきたが、さすがに初日打ち合わせで言われたのは初めてだ。
私は社交辞令かと思って、適当に返した。

最後に職員室に案内され、職員に挨拶をした。
実習担当職員の方が私に二人つくらしく
一人は送迎でいなかったが
もう一人の女性はパソコンをしていたので、その場で挨拶をした。
優しくしっかりとした女性職員だった。

 
それが、初日打ち合わせの記憶だ。

 
 
 
6月1日になり、私は張り切って施設に向かった。

打ち合わせ初日は道を一本間違えたが、一度覚えてしまえば道は容易かった。
順調に、実習開始20分前に施設に到着した。
20分前に到着するのが、学校側からの指導だった。

  
エプロンには名字を書いた布をアイロンで貼り付けた。 
これも学校からの指示だ。
利用者から分かりやすいように、とのことだった。

 
 
施設長他数名の職員が優しく出迎えてくれた。
私は利用者が集まるまでの間、玄関や廊下を掃除し、「おはようございます!今日から来た実習生です!真咲です!」と利用者や職員に声をかけた。

利用者みんなが興味津々で近づいてきたし、職員の方は非常にあたたかかった。

 
朝の会の時間に、みんなの前で実習生として紹介され、私は自己紹介をした。
私は手話が得意だったので、言葉で挨拶しつつ、手話でも表現した。

A施設には手話(マカトン法)を使う利用者が三人いて
一人の職員が朝の会の内容を同時通訳をしていた。

 
A施設で手話は利用者に人気であり、私が手話を使って自己紹介したことは利用者にも職員にも好評であり
また私は拍手で大歓迎された。

たくさんの実習先やボランティア先に行ったが
ここまで歓迎されたことは、なかった。

 
 
初日、私はD職員の下につくことになった。
パートリーダーであるその人は愛嬌が良く、10年以上働いているベテランだった。
Dさんは利用者にも優しく、利用者との関係性もよかった。

初日、私は線香にまつわる作業を行った。
当時は線香が主力作業であり、たくさんの利用者がそれに関わっていた。

 
Dさんの作業は的確で早く、また慣れている利用者も作業スピードは早く
私はついていくだけで精一杯だった。
Dさんはトイレ支援の様子を見学させてくれたり、食事支援や歯磨き支援のやり方を教えてくれた。

覚えることが多すぎて
初日はとにかくいっぱいいっぱいだった。

 
実習の後は実習日誌を書く。
Dさんがお茶を入れてくれて、夕方、職員みんなで手書き書類を書きながら雑談をした。
お菓子も用意してくれた。
実習日誌を提出した際、実習担当職員が質疑応答をしてくれた。
必死にメモをする。
実習担当職員の眼差しが優しかった。

 
なんてアットホームなのだろう…

 
私は実習初日から、すっかりこの施設が気に入ってしまった。
ここで働くことを、夢見てしまったのだ。

 
 
 
三週間の間、様々なことを行った。

線香作業だけでなく、段ボール資材やオモチャ、工業部品数種類の下請け作業、清掃作業、調理作業、配達作業、喫茶店作業、食事・歯磨き・入浴・トイレ支援、送迎補助………等々 
三週間の間に一通りの業務を見学したし、体験した。

施設の利用者と職員の人数は100名以上だが
三週間の間に9割以上の方の名前を覚えた。
名前を覚えていないにしても、全員と話したのは確かだ。

 
A施設はみんながイキイキしていた。
生まれつきの障がいの方も、中途障がいの方も
職員も利用者も
みんな一人の人間として接し合い
10~70代までの方が和気藹々としていた。 

こんなにアットホームな施設は初めて見たし
こここそが、私の求めた施設だと確信した。

 
実習日誌を書く際に、他の職員とお茶を飲みながら書類を書くのも日課になり
雑談をする仲になった。

「もう今日でともかさん終わり?このまま働いちゃいなよ~。こんなに馴染んでいるのに。」

 
D職員が言ってくれた。
他の人もそうだそうだと別れを惜しんでくれた。
私は悩んだ。

 
当時、私は学校生活が上手くいっていなかった。 
学校に戻りたくなかった。
A施設はそれほどまでに居心地がよく、既に私の居場所であった。
もう大学は卒業している。
大卒の資格は持っている。
専門学校を中退しても、大卒であることは変わらない。

このまま働けたら、どんなにいいだろう。
もう利用者とも職員とも関係はすっかり築けていた。

だが、中退したら、資格がとれない。
あと8ヶ月通わないと、福祉資格がとれない………。

 
私に、中退する度胸などなかった。

 
 
「ともかさんが今日で終わりなんて本当に残念だわ。うちで働かない?」

実習最終日、なおも施設長は私をスカウトした。
打ち合わせ初日、実習一週間後、そして実習最終日。
私は三回施設長から直々にスカウトされたのだ。

 
私は最終日に、本音を伝えた。

「実習三週間、本当にお世話になりました。この施設は優しくてあたたかくて、私は大好きです。是非、働きたいです。今後もボランティアがあれば、積極的に参加したいので、連絡していただけたらありがたいです。

もし、卒業後にも求人があれば、よろしくお願いします。」

 
私は頭を下げて、三週間実習に終止符を打った。

 
 
 
「A施設は新卒をとらないで有名だぞ。実習先は将来を決める。それでもA施設で実習するのか?」

私は実習前から、学校担任から言われていた。
A施設はあくまで、早急に働ける人を欲しがっていた。
しかも、正職員枠ではなかった。

 
学校を中退する度胸などないし
正職員枠ではないなら意味がない。

働きたいけど、働けないのが悔しかった。


 
 
6月以降、様々な施設から求人が出た。

さすが福祉職だ。
県内(県外)施設の求人はファイリングされ、何冊にも及んだ。
どんどん増える一方であり、食いっぱぐれがない職業であることを改めて知った。

 
6月以降の実習先やボランティア先でも相変わらず、就職の声はかかった。
だが、私はA施設の連絡を待った。

学校のボランティア募集の掲示板に
A施設のボランティア募集の紙が貼られることはなかった。
A施設は専門学校生徒のボランティア募集をしていないことで有名だった。

携帯電話に、「ボランティアに来ない?」と連絡も入らなかった。
「秋にバザーがあるからボランティアに来てね。」と施設長は言っていたし
私は行きたかったが
連絡はないままだった。
自分から再度連絡する勇気はなかった。
新卒をとらないで有名な施設だし
全てが社交辞令だったのかもしれないと
時間が経つごとに疑心暗鬼になった。

 
A施設の人はみんな優しかったから
私に優しかったんじゃなくて
どの実習生にも優しかったのだろう…

 
私は段々そう思えてきた。
待てども待てども、他施設の求人票ばかりが増え
A施設の求人票は出なかった。
ため息を吐いた。

 
 
私はやがて、E施設の求人票を見つけた。
私が一年生の時に実習に行った施設で、ボランティアにも複数回行っていた。
A施設の次に雰囲気が良く、そこからも「働かないか?」とお誘いは受けていた。

給料も高い。
夜勤がないのも良い。
利用者や職員とも関係良好だった。

 
だが、正職員はマイクロバス運転が必須であり、一年間で異動があるのがネックだった。
異動はまぁ仕方ないにしても、マイクロバス…………。
私は運転が苦手だった。
当時は自車の軽自動車しか運転ができなかった。
そんな私にマイクロバス運転は酷だった。

 
他施設もマニュアル車運転必須だったりと
私は就職で運転がひたすらにネックになった。
まさか、障がい者施設でここまで運転能力を求められるとは思わなかった。

 
まぁ…運転が苦手なことを伝えたら多少は考慮されるかもしれない。
とりあえずはE施設を受けよう。
面接試験は一週間後か。

 
 
そんな、11月のことだ。

学校から帰り、ゲームをやっていると家の電話が鳴った。
父がとった。A施設の施設長からだった。

 
施設長から電話!?

 
 
私は困惑しながら、保留のメロディを止め、受話器をとった。

「お久しぶりです。元気ですか?あのね、ともかさんが実習終わった後に色々検討したんですけど………学校卒業後に、正職員として、A施設で働きませんか?みんなはあなたが卒業まで待つと言ってくれたし、何より私自身が、あなたと働きたいの。」 

 
私は涙がこぼれた。
夢みたいな電話だった。

「働きたいです。働かせてください。私、A施設で働きたいです。夢みたいです。ありがとうございます。」

 
語彙力を失った私はとにかく「働きたいです。」「ありがとうございます。」をバカみたいに繰り返した。
涙が溢れて仕方ない。
受話器を置いた後、私はその場にへたり込んだ。
目の前にはストーブがあって
体がやけに暑かった。

父「何の話だった?」

 
私「採用だって………私、採用だって……。諦めかけてた。諦めたくないけど、諦めかけてた。
働けるんだって。あそこで。やった……やったぁ…………万歳!」

 
私はしばらく泣きながら、腰が抜けて動けなかった。
それほどに嬉しかったのだ。
あと一週間電話が遅かったら、私はE施設を受けていたかもしれない。

今思い返して見ても
この電話の瞬間は人生でもトップ5に入る
嬉しい出来事だった。

 
 
 
  
私は次の日に学校担任に採用の件を報告した。

「新卒をとるのか!?あそこが!?」

担任は私以上にビックリしていた。
前例がなかったのだ。

 
 
 
後日、履歴書を持ってA施設に行き、形だけの面接をし、形だけの小論文試験を行った。
内定は決まっていたので、形式上の試験であった。

小論文テーマはこの施設を選んだ理由についてで
原稿用紙三枚分だったと思う。
スワンベーカリーの出会いやマザー・テレサに憧れたこと、実習を通して感じたことをスラスラと書いた。
嘘偽りがない文章を書くことは実に容易かった。

 
約束通り、内定をもらえた私は、採用の通知を正式に受け取った。
11月末だった。

採用条件は「できる限りボランティアに参加すること」であり
私は12月から毎週水曜日の午後にボランティアに行き
冬休みや春休みは一日通しで複数回ボランティアに来た。

 
本来ならば6月の時点で働き手がほしかったのだ。
4月1日まで待ってくれる上、特例の新卒採用なのだから
私もできる限り尽くしたいと思っていた。

 
何より、A施設が好きだった。
春が待ち遠しかった。
早く大嫌いな学校を卒業して
資格を手にして
職員としてみんなの仲間入りになりたかった。

私の居場所は
23歳の6月からここだった。

 
 
 

 

 
そして24歳で就職してから、11年の時が過ぎた。

学校の担任が言ったように
私以降、新卒採用は誰一人いなかった。

 
「私はあなたに柱になってほしい。四本目の柱になってほしい。」

 
施設長は入社したての私によくそう言っていた。
当時、現場には10年以上働いた正職員が三人いた。
他の建物には他にも正職員がいたし、事務職の正職員もいたが
現場を回しているのはその三人だった。
私はそこに肩を並べ、四人目の正職員として、現場を切り盛りして欲しいとのことだった。

 
自立支援法に基づき、私が入社して早々に事業を移行することになった。
私は新規事業二つの責任者になった。
他の三人もそれぞれに事業責任者である。

 
入社して半年で、私は新規事業二事業の責任者…主任だ。
他の三人は10年以上のベテランだ。
右も左も分からないまま、引き継ぎなく新規事業の責任者はなかなかにハードで
ベテランのパートさんらをまとめられず
よく他の三人と比較されて、色々言われた。
保護者にしても、新卒の主任に心開かない人もいたし
私は私で対応をしくじり
泣いた日も多かった。

 
社会人一年目はサービス残業や休日の仕事もたくさんあって
なかなか新規事業は軌道に乗らなかったし
失敗もたくさんたくさんたくさんあったが
三年目の頃には、パートさんらを引っ張る存在にまで成長した。

 
大変なことは数えればキリがない。
だけどそれ以上に、やりがいや充実感がたくさんあった。
主任に早々と抜擢されたお陰で、書類作成は色々こなせるようになったし
研修や資格取得も精力的に行えた。
様々な勉強や体験をさせてくれた施設に
私は今でも感謝している。

 
 
周りの友達ほとんどが22歳で就職していたが
みんなは次々に辞め、転職し、人によっては学校に入り直し
結婚し、退職した。

 
私が11年目を迎えた2019年の頃
入社した職場で働き続けていた人は
私ともう一人の友達だけになった。

 
 
私は退職する気などなかった。
骨を埋める気だった。

どんなに大変であろうと
施設に将来性がないと年々強く感じても
倒れて動けなくなるまで
もしくは施設が潰れるまで
私は全力を尽くすつもりだった。

 
私の居場所だった。
私の全てに近かった。
恋愛よりも結婚よりも優先したのが
この施設での仕事だった。

 
 
 
だけど、2020年3月31日。

私は退職をした。
退職するしかなかった。

 
ここの職員として死にたかった。
もしくは施設と共に息絶えたかった。

違う。
そうじゃない。

私はずっとこの施設でみんなと共に生きていたかった。
ずっとずっとずっと
ここで働きたかった。

働きたかった。

働きたかった。

 
まだまだ、働きたかった……。

 
 
 
 
 
退職してから、5ヵ月が過ぎた。

A施設と出会ってから12年以上が過ぎた。
私の人生の約1/3を過ごした施設から立ち去ってから
もう5ヵ月だ。

 
その間に様々な変化があった。
変わらないこともあるし、変わったこともある。

 
今までの経験を活かし、今の私にできることは何か。
次はどう生きたいか。

 
ようやく私は次の未来への夢の欠片を見つけた。
上手くいくかは分からない。
でも、今はただ、挑戦してみたい。

 
 

退職してから、施設関係者には会っていない。
10年以上毎日顔を合わせて、親友や恋人や家族以上に時間を過ごした
今でも大好きで大切な利用者。
そして、私を支えてくれた保護者や同僚、仲間たち。

 
忘れない。 
絶対にあの日々を忘れない。
今でも大好きだよ。
今でも大切で大切な存在だよ。

 
いつか、次の道を歩いて心から笑えて頑張れたら
その道の先で再会できたらいい。
胸を張って会えたらいい。

 
 
本命施設から内定をもらえてから約12年後の今
私は再び道を探し、歩き始めた。

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